Kano-neko

8-2



――さて、どうしたものか。ジェイドは居間から廊下へと続く戸を慎重に開けて、そっと様子を窺った。玄関に近いほうがの部屋、こちら側がジェイドの部屋ということになっているのだが、夜10時になろうとしているのに子どもの部屋から薄明かりが消えない。首筋につけられたでこぼこの痕を指でなぞりながら(明日の服装はきちんと選ばなければならないらしい、これを人目に晒すわけにはいかないだろう・・特にピオニーあたりには)、大人は静かにため息をついた。昔から、はなぜか眠りが浅い。真っ暗な部屋でなければ熟睡できず、とろとろと眠りについても小さな物音で目を覚ましてしまう。

「・・・明日も学校、あるんですがねぇ」

だから、ドアの隙間から明かりが滲み出していることは、子どもがきちんと眠っていないことと同義だ。ただ夜更かししているだけなら叱りつければいいのだが―――、リビングのソファの上に置き忘れられたオレンジの本を手にして、ジェイドはため息を重ねる。さて、あの子どもはお気に入りの本をうっちゃって何を考えていることやら・・・。じっとりと涙を吸い込んだ服は、片方の袖がわずかに重たくなっている。基本的に泣き虫なくせに重度の負けず嫌いであるせいで、は泣くのをこらえるのがうまい。けれど逆に、一度泣き始めたら最後、あの子どもは泣きやむ方法を知らないのだ。おかげで今日も、引き付けを起こす一歩手前まで全力ダッシュで走りぬけ、それからもしばらく鼻を啜り続けていた。ゴミ箱の中はティッシュで溢れかえっている。

「ふむ、仕方ありません」



はただぼんやりと、天井を見つめていた。枕元の電気スタンドはやわらかな橙色の光をはなっている、ぬくぬくとした毛布の中から手を抜き出してかざすと、天井に大きな影が映った。何度か手を握ったり開いたりして映る影で遊んでいた子どもだが、やがてひとつのため息をつくと同時にぱたりと手を下ろしてしまう。

―――・・あといっかげつ、かぁ」

口からこぼれた言葉を耳で捉えて、何度も反芻した言葉の意味を飲み込むと、おかしなスイッチの入った感情が喉元で暴れだす。じわりとまぶたが熱くなって、たった一度のまばたきで目尻から涙があふれた。ひく、と喉が引きつりそうになるのを無理やり飲み込む。それをごしごしと乱暴にこすり、子どもはひとつ鼻を啜ってブンブン頭を振った。――いつまでもぐずぐずいって、ジェイドにめーわくかけてんじゃねェよオレ! 枕元の目覚まし時計はもうすぐ10時を示そうとしている、明日も学校があるのにこんなことをしていたら朝起きられなくなる。・・・・・ねよう、もう目が溶けるくらいたくさん泣いた、ジェイドにたくさんめいわくをかけた、いつもよりずっとずっとやさしくしてもらった。でも、これいじょうはだめだ。

『さて、私もそろそろ寝るとしましょうか』

ドアの向こう側から聞こえてきた声に、はハッと身を竦ませる。こんな時間まで起きていたことが知られれば怒られるかもしれない、もっともっと困らせるかもしれない・・・・そんなのだめだ、ぜったいだめだ。咄嗟に手を伸ばしてスタンドの電気を消し、毛布のなかで丸くなる。部屋の入り口に背を向けるようにして横向きになり、膝を抱えて目を閉じた。静かにドアの開く音がして、できた隙間から光が入り込んでくる。ひとが部屋に入ってくる気配がした、ドアが閉められて光が消える。かすかな足音、ベッドがわずかにたわんで、ぎし・・と小さく軋んだ音を立てる。どうやらベッドの縁に腰掛けたらしい、子どもは全身を緊張させて身を縮める。



寝たふりをするのに、息を止める必要がないことを教えてやるべきだろうか。まるで胎児のそれのように手足を丸めたを見下ろして、ジェイドは苦笑まじりのため息をついた。まったくこの子どもは、隠し事をするのは上手いのに嘘をつくのが下手すぎる。起きていることに気付かないふりをして、ジェイドはそっと子どもの目尻を指でなぞった。しっとりとぬれた肌が、直前の子どもの行動をジェイドに教える――・・予想は、当たっていたらしい。

「はっ・・、これはいけません、眩暈が・・」

将来のことも考えて買い与えた子どものわりに大きめのベッド、ジェイドは小さくなっているの隣にその長身を横たえた。期せずして子どもと大人の重さを支えることになったベッドが悲鳴をあげる、けれど子どもはそれ以上にびくりと体を揺らして硬直した。緊張というよりはむしろ警戒を滲ませる子どもに、ジェイドは喉の奥でくつりと笑う。これでは寝ているふりというよりはむしろ、死んだふりだ。

完全に伸ばせば足が収まりきらないベッドの上でジェイドは器用に体を反転させ、あたたかな毛布のなかに滑り込んだ。眼鏡をはずして電気スタンドの近くに置くと、片手を子どもの首とベッドの隙間に滑り込ませ、もう片方の手を子どもの体の上に投げ出す。ぴくりとも動かなくなってしまった小さな背中を抱き込むようにして、太陽の匂いのする髪に顔を寄せた。

「困りましたねぇ、もう起きられそうにありません。・・しょうがないので、今日はここで休ませてもらうことにしましょう」

子どもの無言の抗議が聞こえるような気がした。むせ返るほど濃密な沈黙のなかで、子どもが必死に様子を探っているのが見て取れたが、ジェイドはそれらを無視して目を閉じる。・・そして、


―――・・そんなに泣くと、本当に目が溶けてしまいますよ」

しゃくりあげるのを必死にかみ殺しているらしい子どもの背が大きく震えた。さらにきゅうっ、と縮こまった子どもの喉からそれでも引きつったような声が漏れて、大人は思わず苦笑する。明日の朝はさぞかしヒドイ顔になっていることだろう、睡眠不足と泣きはらした顔のダブルパンチでは、どれだけ元がよかろうとプラスに転じきれまい。・・ピオニーに見つかりでもしたら、何があった何をした、と問い詰められかねない仕上がりになりそうだ。

「・・・・ごめ・・っ、ごめん、な さい、」
「おや、謝られるようなことに思いあたりがありませんがねぇ」

子どもの体をそっと抱きこみ、頭の下に滑り込ませた手でぽろぽろと涙をこぼすまぶたを覆った。次から次へと涙を滲ませるまぶたは、水を含んですでにぼってり重たくなりはじめている。これほど目から水分を失ったのだから、一度起きて水を飲ませたほうがいいのかもしれないと思いつつ、けれどジェイドは動かなかった。自分のそれよりあたたかな子どもの体温は、抱えていてひどく心地いい。てのひらに子どもの体温がじんわり溶けていく。

「・・ほら、もう少しそっちに寄ってください。これでは私が落ちてしまいます」
「・・・・・・・・・・ここで、ねる の?」
が邪魔だというのなら戻りますが・・、」

こういう言い回しをして、わざと子どもに首を振らせるあたりがジェイドという人間である。

「・・・・・・おや、すみ・・じぇいど・・・」

目尻にうっすらと涙をためたまま、結局子どもは泣きつかれたようにとろとろと眠りに落ちた。腕にかかる頭の重みが不意に増したことにジェイドは小さく笑い、浮かんだ雫を指先で拭って自身も目を閉じる。普段よりも随分早い就寝時間だが、抱えた子どもからとろりとした眠気が伝播してくるような気がした。今夜やる予定だったものは、明日の朝にでもすればいい。―――次の日、十分すぎる睡眠時間のせいでやたら晴れ晴れとした表情を見せる大人のとなりで、足りない睡眠時間とぼってりむくんだまぶたのおかげでとてつもなく不機嫌そうに見える子どもは、夜寝る前には決して泣くまいと幼心に誓ったという。


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引き続いてジェイドとちみっこでした。新しい世界の扉を開きそうな勢いです。
writing date  08.10.18    up date  08.11.18