Kano-neko.
9-1
研究室に備え付けの電話が、けたたましく鳴いた。
「
―――・・カーティス先輩、お電話です」
実験の準備、試薬の調製や実験器具の用意やらに追われていたジェイドは、実験室の扉から顔を覗かせた後輩に一瞬気付かなかった。さて次の作業は、とノートを開いたところにもう一度声をかけられて顔を上げる、困り果てたような顔でジェイドの名を呼ぶ後輩に、彼はおざなりな謝罪の言葉を口にした。
「ああ、すみません。ちょっと考え事をしていたものですから」
「い、いえ・・・・あの、お電話です」
「電話、ですか」
研究室にある電話は所属する人間が自由に使って構わないが、もちろん好き勝手使っていいものではない。かかってくる電話はほとんど教授たちへの連絡で、かける電話もまた然り。学生が学生同士の連絡に使えるはずもなく、だから院生とはいえど学生であるジェイドに電話がかかってくるのは相当珍しいことと言えた。電話をとったらしい後輩の目に宿る好奇心に、ジェイドが気付かないわけがない。
「・・・それで?」
「・・・・・えっ?」
「誰からの電話なのですか? まさか名乗らなかったわけじゃないでしょう」
ジェイドがここの連絡先を教えている人間など、数え上げれば片手で足りる。
「いえ、それが・・・・『ジェイドを、お願いします』 と言ったきり、黙り込んでしまって」
「・・・・・・・・それは、」
「訊ねても答えてくれないので、仕方なく呼びに来たんですが・・」
「それはもしかして・・・・子どもの声、でしたか?」
「はい。声が小さくて聞き取りづらかったですが、おそらく」
失礼、ジェイドは一言そう言い捨てるや否や実験室を抜け出していた。研究室の連絡先を知っている人物
――カーティスの養父母と実の妹、教えたことなどないのにどこからか嗅ぎつけていた馬鹿が二人とそして、ひとりの子ども。何かあったら連絡するようにと告げ、電話の近くに貼り付けてあるメモの一番上はここの連絡先であったことを思い出す。有事の連絡先を挙げた際、ここの電話番号を書くのを一瞬躊躇ったことなどジェイドは忘れていた。むやみやたらに電話を寄越されでもしたら面倒だと思ったことも、今このときまですっかり忘れていた。子どもからの電話は、これが初めてだったから。
受話器を持ち上げ保留ボタンを押す。、どうかしたのですか。そう告げようと開いたジェイドの口は気難しげに閉じられ、言葉の代わりに出てきたのは大きなため息だった。ツー、ツー、ツー。一方的に通信が断ち切られたことを伝える電子音が耳に届く、そのまま数秒瞑目したジェイドは無言のまま受話器を置いた。
「・・電話、間に合わなかったんですか?」
おどおどとジェイドを見上げる後輩の心配そうな声、そのなかに潜む好奇の色をジェイドは確かに見抜く。周囲の目や他人の評価、くだらない噂の類を気にかけるほどジェイドは暇ではないが、わざわざ噂の標的になりにいくほど彼は鈍感でもお人好しでもなかった。小さくため息。口元にうっすら笑みを浮かべ、やれやれ、と困ったように首をふって見せる。
「まったく、ピオニーのいたずらにも困ったものです」
「・・ピオニーさん、ですか?」
どうして他学部で同期でもない、経済学部の大学院生の名前がここで当たり前のように通じるのか、ジェイドはそのどうしようもなく腹立たしい事実に気付かないフリをする。
「友人の妹を使ってまでやることじゃないと思いませんか?」
「ああ、あの電話はそういう・・・・」
「ええ。・・かなり年の離れた妹を持つ友人がいまして、どうやらその子を使ったようです」
ジェイドがそのあと折り返して電話をしなかったのは、今この時点で既に太陽は西の空に沈もうとしており、もうすぐ帰宅できると踏んでいたことと、もし本当に大事なことならあの子どもはもう一度連絡を寄越すだろうという安易な考えがあってのことだった。そして結果的に、ジェイドの推測は外れる。自身の実験は予定通りに終えたものの、いざ帰ろうとしたタイミングで急な来客の対応に追われ、研究室をようやく出たときには夜の十時を回ってしまっていた。院生控え室にずっと腰を据えていたわけではないが、あれからジェイドへの電話はかかってきていない。あの子からの突然の連絡は気になるものの、追って連絡がないという事実がジェイドを少なからず安堵させていた。もし本当に大事なことで、ジェイドの耳にどうしても入れなければならないことなら、あの子どもはもう一度必ず連絡を寄越す。ジェイドはいつも通りの帰路についた。
帰り着いた我が家の明かりは、いつもと同じく煌々と灯っていた。部屋で先に休んでいるとしても、居間の電気は点けっぱなしにしておくように言い含めてある。テレビの音は聞こえない。もう11時になろうとしている腕時計を確認して小さく安堵の息をついたジェイドの耳はしかし、そこで聞きなれない音を捉えた。・・洗面所からだろうか、水の流れる音がする。
不審そうに眉根を寄せ、メガネのブリッジを押し上げたジェイドは鞄を携えたまま洗面所へ向かう。いない。代わりに風呂場へ続く戸が中途半端に開けられており、その奥から水の音が響いている。洗面台のとなりに備え付けた洗濯機の上に鞄を置き、ジェイドは風呂場を覗き込む。
――そして驚愕に息を呑んだ。
「
――・・っ、!」
子どもは、風呂場のタイルに四つん這いになり、排水溝の近くで嘔吐していた。独特の酸っぱい臭気が鼻を突く。ざあざあと流れる水が押し流すも間に合わない。咄嗟に抱え込んだ小さな背中はガタガタ震え、小さな両手で口を押さえ込んだ子どもは怯えた瞳でジェイドを見上げた。ビクンッ、と子どもの体が大きく跳ねる。ぐっとあごを反らして天井を睨み、必死に嚥下を試みている。
「出しなさい!」 子どもは弱弱しく、けれど確かに首を横に振る。
「いいから吐いてしまいなさい、何度も繰り返すよりそのほうが体に負担がかかりません」
子どもは頑なに首を横に振り続けた。苦しげに閉じられたまぶた、その目尻から涙がぼろぼろ零れる。
「・・・・・しばらく我慢していなさい」
ジェイドはシャツの右袖を肘まで一気に捲り上げた。左腕で子どもの小さな体を抱えなおす。口を覆っている指を一本一本根気強く剥がすと、口の中に人差し指と中指を無理やり捻じ込んだ。見開かれた目と視線を合わせないようにしながら注意深く指を進める、爪は特に伸びていないがこれで子どもの口内を傷つけては意味がなかった。
「・・・・ッ、」
まだほとんど生え変わっていない子どもの乳歯がジェイドの指に噛み付く。小さな歯が指の腹に食らいついた瞬間だけわずかに表情を歪め、けれど決して引き抜こうとはしなかった。子どもの体がぐっと前のめりに倒れる。口を押さえようとする両手を左腕一本で封じ、小さな背中がひときわ大きく跳ねた刹那。ジェイドは指を引いた。
「大丈夫です。我慢しなくていい」
苦しそうに咳き込む子どもの背をゆっくりさする。疲れ果てたようにジェイドの腕の中でぐったりしている子どもは、壊れたように涙を落とし続けていた。腹に抱えた小さな背中がひどく熱い。髪の隙間から覗く耳はしもやけでも起こしたように赤く、手のひらで触れた頬が熱い。自身の頬に押し当てた子どもの後ろ頭はじんわりと汗にぬれ、そのくせ体は縮こまった上に震えが止まらない。ジェイドはぐっと奥歯を噛み締める。
汚れた口を丁寧に洗い、服も着替えさせた。小さめの毛布で体を包み、両手にマグカップを握らせる。注いだぬるま湯をゆっくり一口ずつ飲むように告げ、ジェイドは受話器をとった。タクシーとそして、救急の小児外来に連絡をつけるためである。
小さな腕。肘の内側から伸びている半透明の細いチューブは、電池が切れたように眠り込んでしまった子どもに水分を供給し続けている。真っ白でパリッと糊のきいたシーツの中で、子どもは身じろぎひとつせず昏々と眠っていた。頬の赤みも一時に比べれば随分引いたように思う。額から頬、首筋までを手の甲でするするとなぞり、ジェイドはそっと息をつく。
診察を終え、一晩割り当てられたベッドにようやく子どもを横たえたころ日付が変わった。時計はいま、朝の四時を指している。冷たいパイプ椅子に座ったまま、ジェイドは10分だけ眠った。この子どもが目を覚ましたとき、ここがどこで今どういう状態にあるのかを説明するのは自分の役目だと思った、他の誰かに任せていいものではないと思った。目を覚ましたとき一番に目に入る人間が見知らぬ他人ではいけないと思った。
薄く開けられたまぶたの間から、熱に溶けた漆黒がのぞく。
「・・じぇー・・ど・・・・・?」
「・・・ええ。、気分はどうですか?」
額にはりつく前髪をはらい、ジェイドはそのまま子どもの頬に指を滑らせる。子どもはへにゃりと力が抜けたように笑った。白くかわいたくちびるを小さく舐め、蚊がなくような声で 「だいじょうぶ、」 と囁く。・・ああ。この子どもは、どうしてこうも嘘をつくのが下手なのだろう。
「・・この点滴が終われば帰れるそうです。まだもう少しかかりそうですから、眠っていなさい」
ん・・・、素直に頷いた子どもの意識がジェイドの手のひらから再びぽろぽろ零れていく。ゆるい弧を描いた子どもの口の端を親指でそっとなぞり、彼は自身の額を子どもの枕元にうずめた。消毒液のにおいと子どもの汗のにおい。声帯を震わせることなく、しかしジェイドのくちびるが言の葉を紡ぐ。
子どもが次に目を覚ましたのは、点滴を終え、帰り着いた我が家で子どものベッドに横たわらせたときだった。毛布をかけてやっている最中、か細く呼ばれた自身の名前にジェイドは目を上げる。熱に浮かされた瞳、そのなかの困惑と混乱を読み取って彼はゆるく微笑んだ。子どもの額に手を押し当て、そっと髪をなでつける。
「すみません、起こしましたね」 ぱっとまぶたを開けた子どもが、ゆるゆると首を振る。
「もう一度熱を測っておきましょう。昼になればまた上がるかもしれない」
「・・・・・も・・だいじょう、ぶ」
「嘘をおっしゃい」
ジェイドの指が額から鼻梁をなぞり、鼻の頭をきゅっとつまむ。
「こんな真っ赤な顔をして、大丈夫なんて言うもんじゃありません。・・いいですね?」
「・・ごめん、なさい」
そのとき、確かにジェイドは笑んだ。普段と同じように、普段浮かべている表情をこのときも再現したつもりだった。けれど目の前にある子どもは笑わない、笑いかければ笑い返し、迷惑をかけまいとしていつもコロコロ笑い転げているこの子どもが。ふっと見開かれた大きな目。悲しげによせられた眉根には薄い皺が刻み、くちびるがふにゃふにゃ歪む。見る見るうちに輪郭がおぼろになる漆黒の瞳。
自分はいま笑えていないのだと、ジェイドは唐突に理解した。
「・・、ひとつだけ約束をしてください」
「もし今後、心配をかけたと思うことがあったら、そのときは “ごめんなさい” とは言わないこと」
「・・・・あなたはきっと、それに代わる言葉を知っているはずです」
いいですね? そう微笑んだジェイドの首に回された二本の腕。折角かけ直したばかりの布団をめくり上げ、子どもは上半身を起こしてぎゅうぎゅうしがみ付いてくる。襟首あたりを握りこんでいるのだろう、シャツを上に引っ張りあげられられる感覚がジェイドの笑みを誘った。子どもの小さな体を腕の中に抱え込む。そして再び声にすることなく、病院で子どもの枕元に置いた言葉を口にする。
「・・・・ごめ、な・・さい・・・っ」
「しん、ぱい・・かけて、ごめ・・な、さ・・!」
「・・・・・、」 子どもがひとつ、大きくしゃくりあげた。
「じぇいど、・・あり、が、と・・・・!」
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writing date 091017 up date 091017
私はどうもこの子どもを泣かしたくてたまらないらしい