traumerei
tov:2
にゃあ、と目の前で猫がないた。
傍目にもそれとわかる、ひどく艶やかな毛並みの黒猫が私を見ていた。
にゃあ、とまたなく。慣れない西欧の町並みの中、すれ違う人々が私たちに一瞥をくれることはない。傍らを走り去る自動車の排気ガスに髪が揺れる。
通り過ぎ、過ぎ去っていく人々の流れをぼんやり感じながら、それでも私の足は動かない。どくどくと、心臓だけが動いている。
しばらくして猫が腰を上げた。くるりと私に背を向けた猫が、軽やかに走り出す。
「
――――」
つられるように、私も一歩を踏み出した。
ぐらりと体が傾いて、倒れこんでしまうのを防ぐためにもう一歩踏み出す。そしてまた一歩。一歩。
・・やがて私は走りだす。左手にキャリーバックを引きずりながら、アスファルトの道を走る。
街並みに消えようとする猫を、私はそれでも見逃さない。
視界の端にチラと捉えた小さな背中を、しなやかで長い尻尾をひたすら追いかける。
右に曲がり、左に折れ、坂を下り、階段を駆け上がり、心臓が破裂しそうなまでに痛みを訴えようと、もつれる足に何度転びそうになろうと、走る。
ただ、ひたすら、走る。
そこにあるのは、もはや強迫観念にも似た義務感のみ。
あの猫を見失ってはならない。
追いかけなければならない。
捕まえなければならない。
あの猫を見失ってしまえば、私はもどれなくなる。
あのねこをつかまえれば、もどれるかもしれない。
―――・・もどる? もどるって、どこへ?
「
――・・ッ!」
パンプスのヒールを石にとられ、膝から崩れた。地面に額をこすりつけ、震える体を丸める。
全身が心臓になったかのように、どくりどくりと脈打つ音が頭に轟き、疼く痛みに吐き気がする。息一つすることすらままならず、涙がこぼれた。喉がきしんで嗚咽が漏れる。
―――・・まただ。
心臓の鼓動の隙間をぬって、ざわざわと人々の喧騒が聞こえてくる。
いつだって途切れることのなかった車の駆動音を、私はもう思い出すことができない。
歯がガチガチと震える。
顔を上げるのが恐ろしい。
目を開けるのが怖い。
目に映ったものが今の 現実 であると認めるのが、どうしようもなく。
そして突きつけられる。私がほんとうに恐れているのは、
「・・・・・っ!」
がばりと跳ね起き、はベッドの上で切れ切れの浅い息を吐いた。
どくどくと唸る首筋、落ち着かせるように押し当てた手が汗で滑り、彼女は不快そうに眉根を寄せる。自分の体を見下ろせば、寝巻としてきている木綿のシャツがじっとり汗ばんでいるのが見てとれた。
疲れ果てたように手のひらで顔を覆う。目尻からこめかみあたりがひどく濡れていて、もうここまでくると乾いた笑いしか出てこない。
とにかく体を清めよう。ようやく朝日が差し込み始めた部屋で、はベッドを離れる。
そうして一段落したら朝食、まだ早いけれど、事務所へ行ったら客が入る部屋を簡単に掃除して
――。これから自分がすべきこと、日常のルーティンワークを思い浮かべて、ようやく彼女は息を吐く。
まったく、毎度のこととは言え厄介極まりない。
これは夢だ。あれはただの、夢に過ぎない。
――けれどこんな朝は、キャリーケースを仕舞いこんであるクローゼットを開けることもできない。
レイヴンが再び望想の地オルニオンにある “凛々の明星” の拠点を訪れたのは、ひと月後のことだった。
ギルドの新しい団員、・と初めて顔を合わせて以来のことである。旅路の中にあっては、ほとんど四六時中行動を共にしていた彼らではあるが、ユーリたちは “凛々の明星”、レイヴンはギルドと帝国騎士団をつなぐ仲介役として活動し始めれば、数ヵ月ぶりに再会することも珍しくない。
だからこうして、レイヴンがひと月ぶりに彼らを訪ねるのは、タイミングとして比較的早い方ではあるものの、単なる気まぐれであった。特に用事があったわけではない。もちろん大した理由があるわけでもない。
これは、ザーフィアスに立ち寄ったついでだ。あくまでそう、ついで。
ふう、とひとつ息をつき、レイヴンは扉をノックする。
「お邪魔するわよ〜」
「いらっしゃいませ・・・・・あ、」
お久しぶりです、と彼女
――は頭を下げた。つられるようにレイヴンも 「どーもどーも」 と応じ、部屋の中を見回す。
そこに求めたのは全身黒づくめの青年やギルドの首領たる少年だったが(ジュディスちゃんがバウルと共に不在という情報は入手済みだ)、姿はもちろん気配も感じられない。
あごの無精ひげに手を当て、眉を寄せるレイヴンに、彼女は言葉を告げた。
「すみません。ユーリとカロルは、ちょうど今買出しに出てしまって・・」
「ああ、そゆこと。・・ワンコも一緒に?」
困ったような笑みを浮かべつつうなずくを前に、レイヴンはひっそり思案を巡らす。
彼女の言葉から判断するに、自分のよく見知ったメンツはここに残っていない上に、今すぐ戻ってくる予定もないらしい。
ひと月前に、初めて一言二言交わしたばかりではあるが “妙齢の女性と二人きり” だ。常なら何をせずともOVLゲージが上昇しそうな好条件である。
にも拘わらず、レイヴンはそのおどけた表情の下で眉を曇らせていた。
(・・・なぁんて言うか、ちょーっちやりにくいお嬢さんなのよねえ・・。)
の控えめな性格が災いしているのだろうか。
これまであまり関わりのなかったタイプだけに、どうしたらいいのかレイヴンは判断に迷ってしまうのだ。
今でこそギルドと帝国は協力関係が結ばれているが、元々は帝国の支配を受け入れることのできなかった人間たちの集まりが、ギルドという組織である。そんな生き方を自ら選ぼうと言う女性たちだ、肉食系女子という言葉の多聞に漏れず、はっきり明確な意志を持った
――言い方を変えれば自己主張の激しい
――人間が多数を占める。
ここ十年、そうした女性たちと関わりを持つことが多かったレイヴンである。
ぐいぐい押してくるタイプをするりとかわすスキルには幾分の自負もあるし、駆け引きそれ自体を楽しむものとして、自らぐいぐい押していく術にもそこそこ自信はある。
だが、三歩後ろを黙ってついてくるタイプには、正直馴染みがなかった。空回りする己の軽口が、今から目にうかぶ。
「そんなに遅くならないとは思うんですが・・、待たれますか?」
そう言って、彼女はレイヴンに席をすすめた。
脳内を駆け巡った逡巡などおくびにも出さず、レイヴンは 「そうねぇ・・」 などと薄っぺらな言葉を吐きつつ顎をなでる。
はっきり言って、答えならとうに出ている。
考え込むフリをして見せている今ですら妙な居心地の悪さを感じているのだ、そう遅くならずに青年たちが戻ってくるとは言え、ここにわざわざ居残るのもバカらしい。
大体、おそらく彼女も同じ居心地の悪さを感じていることだろう。自分にここで青年たちを待たれても困るはずだ。
「あー・・じゃあ悪いんだけど、ここで待たせてもらってもいいかしら?」
だが、レイヴンの口から実際出てきたのは、それまでの逡巡とは180度異なるセリフだった。
口にしたレイヴン自身、「あれ、俺様なに言っちゃってんの?」 と一瞬首をかしげかけたほどである。
けれどだからといって、今からセリフを撤回するわけにもいかない。なぜってあれだ、そんなの恥ずかしいを通り越して情けない。や、こんなこと考えている時点ですでに情けなさMAXだろ、と頭のひどく冷静な部分が自分を俯瞰的に見下ろしていて、そんな冷静な俺様はフルボッコにしてはるか遠くへアリーヴェデルチしたが、もちろん表情には出さずにレイヴンは頬をかく。
「もちろんです。席にかけてお待ちください」
そんなレイヴンの葛藤を知ってか知らずか(・・いや、やはりどう考えても知られてしまっては困る)、彼女はすぐさま笑顔で応じた。
これでも他人の感情の機微や思考の裏側をよむことには自信がある。
レイヴンはの表情、態度の中に、困惑や躊躇が滲んでいないことを見てとってホッと息をついた。自分のことは棚に上げていい気なものだ、と喉の奥でくつりと嗤い、そこで彼ははたと気付く。
(・・・・・まぁ、“凛々の明星” とは長い付き合いになりそーだし、仲良くしておくのに越したことはないわな)
それに、迷惑がられて嬉しい人間などいやしない。というか、どーせなら両手を広げて歓迎されたい。
腕を組み、自分の考えに思わずうなずいていたレイヴンの前に、すっとコーヒーが差し出される。
「どうぞ」
「こりゃあわざわざ。・・ありがとね」
飾り気のないカップにそっと口をつけると、香ばしいコーヒーの芳香が鼻腔を満たす。インスタントのそれではない、豆から丁寧に淹れられたであろう深く芳醇な味わいにレイヴンは満足した。
毎日こんなコーヒーを飲ませてもらっているのだとしたら、ユーリたちはなんという贅沢ものなのだろう(青年はこういった嗜好品の類に興味関心が薄い上、あんななりして甘党なのでたっぷりのミルクにたっぷりの砂糖を投入するのだろうし、カロル少年もきっとそれに倣うに違いない)。
こちとらギルドでも騎士団でも、自分で淹れた薄っぺらなインスタントコーヒーがデフォルトの日々だ。
・・世の中ってほんと不公平!
レイヴンの座った席の斜め前に腰かけた彼女は、一口コーヒーを含むと、ほんのわずか満足そうに口元を緩めた。そして丁寧な動作で、ソーサーに添えられていた角砂糖をひとつだけ落とす。
ふとそこで、そういえば自分のものには角砂糖もミルクピッチャーも添えられていないことに気付いた。いや、甘いものが苦手なレイヴンとしては、それらがなかったことで困ることなどひとつもない。
けれど、こうして突然の来客を拒むこともなく上質なコーヒーまで出してくれる彼女が、自分には角砂糖を添えておいて、客にそれを忘れるなどというミスをするだろうか。
「あ・・、すみません。ブラックでよかったですか?」
そんなレイヴンの気配に気付いたのか、やや慌てた様子で彼女が顔を上げる。
「いやいや、いいのよ。俺様、ヲトナのブラック派だから」
カップに口をつけたままニヤリと笑うと、安堵したように彼女はほっと息をついた。そしてそのまま、自分のカップを口に運ぶ。
コーヒーの水面に目を落としているためか、まぶたの縁をなぞるように生えそろった睫毛がひどくはっきり見えた。なんとなく居たたまれない気持ちになって、レイヴンは頬をかきつつ視線を外す。
「あー・・、ユーリ青年とかに聞いたの?」
「何をですか?」
「俺様が、甘いもの苦手なこと」
瞬間、彼女の表情が凍った。スッと影がさすように表情が消え、瞳に警戒心がひらめく。
その、突然の変化にとまどったのはレイヴンだ。
反射的に自分の発言を思い返し、妙なことを口走っていないか記憶をたどる。
が、どう考えても思い当たる節はなく、というかむしろ、いつもよりずっと口数が少ないことに気恥ずかしさすら沸き起こってきて、しどろもどろになりながら言葉をつなぐ。
「や、だから、ブラックだったのかなぁって思ったんだけど・・・ち、違ったならそれでも全然いいのよ?うん、」
なんで俺様がこんな言い訳じみたことを、と思うが、あーだのえーだの、無意味な言葉は止まらない。
苦し紛れにがぶ飲みしたコーヒーが、思ったより熱くてむせるかと思った。
「
――・・そう、なんです。ユーリが、レイヴンさんは甘いのダメだから気をつけろって・・」
「・・それじゃなんだか、おっさんがまるで小姑みたいじゃない」
苦虫をかみつぶしたような顔で呟いたレイヴンの言葉に、は目を丸くし、やがて小さく笑った。
「・・ほんとだ」
カップを手にしたまま、彼女はくすくすと肩を震わせる。
「なによちゃんったら、そんなに笑わなくてもいいじゃない」 と恨み節にも似た言葉をかけつつ、レイヴンはひっそり胸をなでおろしていた。
見るからに穏和そうな女の子に、鋭くとがった針先のような警戒心を突きつけられて、喜べるような気質など持ち合わせてはいない。それにあれだ、あんなギスギスした空気のなかで青年たちが帰ってくるのを待つなんてことしてたら、ストレスではげる。
おっさんは繊細な生き物なのだ。
「・・・うわ、本気で寝てやがるぜこのおっさん」
「ワフッ」
「ホントだ。・・レイヴン、疲れてるのかな?」
ユーリとカロル、それにラピードが帰ってきたのは、二人がカップをあけてしまって、さらに少しの時間がたってからだった。
手持無沙汰な上に、どうしても普段の軽口が普段通りに機能しなかったレイヴンが、「こんなおっさん放っといて、ちゃんはお仕事の続きどーぞ?」 と提案。最初は彼女もそんなわけにはいかないと首を横に振ったが、おっさんに構って仕事が終わらなかったなんて言ったら、俺様が青年に叱られちゃうだのなんだのとレイヴンが言い募り、やがてが苦笑とともに折れた。
同じ部屋ではあるが、レイヴンが通されたソファからは少し離れた机に彼女は座った。
紙をめくる音と筆の走る音が静かに満ちる。ひどく落ち着くような、それでいてとんでもなく落ち着かないような、奇妙な心持ちでレイヴンはその音を聞いていた。相反する感情が混じり合っているがしかし、決して不快でもない。
・・まずいな、と思ったときには、睡魔はもうレイヴンの体を捕えていた。そのまま崩れるように、彼は眠りの淵を転げおちていく。
「おい、起きろよ、おっさん」
「んん〜・・・、ジュディスちゃああん・・」
「「・・・・・・・・・・・・」」
心地よい惰眠から呼び起されて、一番に目に入ったのが男二人のドン引きした顔ってどーなのよ。
眠気の残滓もいっぺんに吹き飛び、レイヴンは刺さるように冷たい二つの(ワンコのも合わせれば三つの)視線にさらされながら、ソファに小さくなって座っていた。
肩身の狭いことこの上ない。
「だからぁ、おっさんはね? おとなしく青年たちが戻ってくるのを待ってただけで、」
「・・だからって、所属してもいないギルドの事務所で寝るヤツがあるかよ」
「つれないわねぇ、おっさんはほとんど “凛々の明星” の一員みたいなもんじゃない」
そう言って片目をつむると、青年は心底不愉快そうに眉根を寄せて舌をうった。あら怖い。
「でもホント、寝ちゃうつもりはなかったんだけどねえ」
悪かったね、というレイヴンの呟きに返ってきたのはいくつかのため息だった。
「しょうがねえな、」 とでも言いたげなそれに笑って応じる。もういい年なんだから、無理しちゃだめだよレイヴン、という少年のセリフは聞かなかったことにした。
そして奥の部屋からふうわりと漂ってくるコーヒーの香り。
やがて、角砂糖とたっぷりミルクの注がれたピッチャーが添えられたものが二つと、ティースプーンだけが申し訳程度に添えられたものが運ばれてきて、レイヴンはひそやかに笑った。
なぜだか、ひどく満ち足りた気分だった。
ああああおっさんかわいいよおっさんんんん
現の夢 ... 7-1
2011/07/17 脱稿・更新