traumerei
tov:3
羨ましい、と思って何が悪い。
望想の地オルニオンにある “凛々の明星” の拠点、その応接室と扉一枚隔てた部屋は、もはや彼らの生活空間である。
オルニオンを拠点に据えることになった際、ユーリとカロルは拠点の二階で共同生活を始め、ジュディスはまた別に部屋を借りるようになったという話だから、実際にここで寝泊まりしているわけではない。
が、二階に続く唯一の階段があり、隣接する部屋に給湯室を備えたここは、ギルドの拠点とはにわかに信じがたい生活感にあふれていた。
彼らと世界をめぐる旅をしたのは数年前だ。
あのときから皆の先頭に立ち、けれど苦境にひるむことなく前を向き続けた青年は、その性分に磨きをかけ、今やユニオンでも広く名を知られるまでに存在感を増した。
少年はまだ少し気の小さいところもあるものの、ギルドの首領として周囲の大人が目を見張る速度で成長を続けているし、ジュディスちゃんはそのダイナマイトボディにさらに磨きを・・、ではなく、バウルと共に世界中を旅しながらギルドの一員として活躍している。
日々成長し、世界とともに変わり続けている彼らだが、こういう妙に所帯じみたところは未だ変わらないらしい。
なんだかそれがひどく心地よくて、
――それこそ長い間身を置いていたはずの場所より居心地が良くて、レイヴンはぐっと奥歯を噛みしめる。
ずくりと心臓が呻いた。
――・・羨ましいと思って、何が悪い。
レイヴンはその、ギルドの拠点らしからぬ生活感あふれた部屋のソファにだらしなく膝を開いて腰かけ、向かいのソファで繰り広げられている光景を眺めていた。
いや、ほとんど睨みつけていたといっても間違いではない。
苦虫を一息に十数匹噛み潰したような、「いいから黙ってこれつけろよ」 と片手に抜刀した紅蓮剣アビシオンをちらつかせた状態でうさみみ紳士用を押しつけられた時のような、とにかく胡乱な目つきでレイヴンは目の前の彼らを睨んでいた。
レイヴンの正面に座るのはである。それだけならこんな顔はしない、するわけがない。
彼女にはリタっちにするようにわざと怒らせるような軽口をたたくわけでも、ジュディスちゃんとするような男女の駆け引きじみた会話を楽しむわけでもない。
それでも、こうしてちょくちょく顔を見せることで、彼女を包む薄皮のような緊張をできるだけ慎重に取り払うべく努力してきた。
そしてその努力はゆるやかに結実し始めている。
だって、ちゃんと二人になっても前ほど困ったなあと思わなくなったし、結構笑ってみせてくれるようになったし、コーヒーはやっぱりブラックで出してくれるし
――・・ってなに言ってんだ、俺。
レイヴンのため息に、彼女は膝に落としていた視線を上げた。
どうかしたのかと無言で首をかしげられ、がりがりと頭をかいたレイヴンが首を横に振って応じる。
(・・なんでもない、なんでもないのよ。だから、こんなおっさんのことは気にしないでちょーだい。)
彼女は、そんなレイヴンに不思議そうな表情を向けた。
声に出して説明する気がレイヴンにないことを悟ったのか、困ったような笑みを浮かべて再び視線を落とす。
その、陽だまりのようにやわらかな視線の先にいるのは、彼女の膝をまくらにしてすうすうと寝息を立てるカロル少年。
―――これを羨ましく思わない男がいるだろうか。
とっくの昔に冷めきってしまったコーヒーをすする。
まず女の子の膝枕、これはある種、男の夢だ。レイヴンにだってそういう経験がないわけではない。あれはたしかに、悪くなかった。
けれど本気で寝入ってしまうと、そのまろやかなふとももを貸してくれている女の子が、どんな顔をして自分を見ているのかはわからなくなってしまう。もしかしたら自分が眠ってしまったあとで、「うわこのおっさんマジうぜー」 なんて目で見られているのかもしれない。
・・・考えただけで涙が出そうだがその点、カロル少年は非常に羨ましいと言えた。まくらにされている彼女は、少年の髪をゆるゆると撫でながら、慈しむような視線を変わらず少年に与え続けている。
それは少なくとも、レイヴンがこの状態を最初に目撃した時から変わっていない。
(俺だって、少年と同じくらいの年だったら・・・・!)
おっさん何バカなこと考えてんだよ、なんて言ってくれるな。そんなの一日に二度も三度も聞きたくない。
「どうしたんですか?」
「
――・・え?」
「レイヴンさん、何か言いたげに見えたから」
声をひそめて彼女はそう囁いた。言葉の端々にも笑みが滲んでいて、レイヴンは急に気恥ずかしくなる。
別に隠すつもりもなかったことではあるが、正面から問い返されて情けなさが募らないかと言えば、それは別の話だ。
「べっつにー? ただ、カロル少年は役得だなーって思っただけー」
「なんですか、それ」
彼女は、吐く息に笑みを潜ませるようにして笑う。喉をくすくすと震わせ、声を空気に溶け込ませるように。
その密やかな笑い声につられるように、彼女の膝枕で眠る少年はもにょもにょとくちびるを動かした。
よくよく耳をすませれば、“魔狩りの剣” に所属する少年の想い人の名前を紡いでいる。女の膝枕で眠りながら他の女の名前をいけしゃあしゃあと呟く少年、レイヴンはその寝顔を呆れたような表情で見下ろしていた。
まったくどこまで羨ましいのやら。
は相変わらず湖面を思わせる穏やかな笑みを湛えたまま、カロルに触れ続けている。
「ねえ、ちゃん?」
「?」
「ちゃんって、下に兄弟いたりするの?」
なんとなく、口を突いて出たセリフだった。
カロルの髪を撫でつける手つきや、寝顔を見守るまなざし、深い湖のように凪いだ表情を見ていて、考えるより先に言葉が口からこぼれおちたという方が正しいような。
だからレイヴンは、自身のまどろみにも似た視線の先で、彼女が静かに息をのんでいる様を見てとり、思わずついた肘を浮かしていた。
「
―――レイヴンさんにも、そう、見えますか?」
「俺にも?」
質問を返すレイヴンに、彼女がうなずく。
「・・少し前、ユーリにも同じことを言われたことがあったから」
どういう顔をするべきなのか、レイヴンは一瞬判断に迷った。
依然、カロルに視線を落したまま顔を上げない彼女を、チラと盗み見る。先ほどの驚きに目を丸くした様子は既になく、は落ち着きを取り戻しているように見えた。
レイヴンが口を開く。
「・・・・ふうん。ユーリに、ね」
その揶揄するような声音に潜んだ、予想外の剣呑さに驚いたのはむしろレイヴンだ。口にした後で、妙に冷たく響いた言葉に息をのむ。
なんだ今のは、と自分に問うも明確な答えは見つからず、レイヴンはひそやかに呼気を飲み下した。
なんなんだ今のは、博愛主義(女性限定)を信条として掲げ、何時いかなる時でも女性の言葉は真摯に受け止め、色を添えた言葉を返すことを心掛けてきた自分が向けるような声音ではない。
そしてなにより脈絡がなさすぎる。話を振ったのは俺のほうだぞ!
「年の離れた弟が、ひとり」
「
―――・・え?」
臍をかむ思いだったレイヴンは、のその言葉が自分の問いかけの答えなのだと、瞬間気がつかなかった。
眠るカロルを気遣ってのことか、彼女の声はほとんど囁くように紡がれ、少年の寝息にすらかき消えるほどだったが、きちんとした輪郭をもってレイヴンの耳に届いた。
彼はざんばら髪の下からその様子を窺う。
「カロルほど離れてはいないですけど。・・でもこうしていると、なんだか昔に戻ったみたい」
「あー・・・、今、その弟さんは?」
彼女はまぶたを伏せ、小さく首を横に振った。
「そ・・っか」
戦争や魔物による襲撃、病や貧困。ひどく不安定な均衡の上に成り立った世界で、家族を失ったものは決して少なくない。
ユーリやリタなぞは親の顔もほとんど覚えていないという話だし、最年少のカロルからも、両親の話というのはほとんど聞いたことがなかった。
決して珍しくない。
特別ではない。
けれどそれが、喪失を慰める言葉であるはずもなかった。血のつながらない、赤の他人の喪失が心を穿つこともある。
失ったものの大きさなど、他人には量れない。
「
――ごめんなさいね。辛いこと思い出させちゃって」
頭をかきながらそう言ったレイヴンを、ユーリと同じ、宵闇の色をした虹彩が捉える。街灯に明かりが灯るように彼女はふわりと微笑み、そしてまた首を小さく横に振った。
レイヴンには、彼女自身の感傷を封じ込めるためのようにも見えたし、子を見守る母のような慈しみに満ちたものにも見えた。
彼女は喪失を知っている。
知った上で、他人のために微笑むことができる。
なぜだかレイヴンは、そのことにひどく安堵した。
「・・ね、ちゃん。おっさんが、おいし〜いお茶、淹れてあげよっか?」
きょとん、と彼女が目を丸くする。
そうしているうちにすっくと立ち上がったレイヴンは、勝手知ったる他人の家、とばかりに奥まった場所にある給湯室へ足を向けた。
妙に体が軽くて、いっそスキップでもしながら行こうかと思ったほどだが、そんなレイヴンの背中を彼女の言葉が慌てたように追いかけてくる。なんとか引きとめようとするを肩越しに振り返り、悪戯っぽく片目をつむった。
「いいからいいから、いっつも美味しいコーヒー淹れてもらってるお礼。・・それに、」
レイヴンは立てた人差し指を、そっとくちびるに乗せる。
「・・少年、起きちゃうわよ」
咄嗟に口元を手で覆い隠したに、レイヴンはにっこりと満足気な笑みを見せると、給湯室へ足を運んだ。
なんだか、とびきり美味い酒を出してくれるとびきりいい店を、思いがけなく見つけたときのような昂揚感があった。
ホクホクと体の芯からあたたかさが込み上げてきて、足取りも軽い。の目をまんまるにした表情を思い出し、レイヴンはくつくつと喉の奥で笑う。落ち着いているように見えて、かわいいところもあるのね、なんて言ったら、彼女はどんな反応を見せてくれるのだろう。
そんなに広さのない給湯室はきちんと整理整頓が行き届いていて、ここでコーヒーを淹れてくれようとする彼女の姿が浮かぶようだった。戸棚の中には、黒、緑、青色のマグカップが収められている。レイヴンは少し迷って、その下段に複数並べられた、白磁の湯飲みを手にとった。
水を注いだケトルを火にかける。茶っぱの用意も済ませて、軽く目を伏せた。
湯が沸くまでの時間、壁に背中を預け、腕組みして待つ。太古の昔、耳にたこができるほど吹き込まれた “美味しいお茶の入れ方” を脳裏によみがえらせていたレイヴンは、外の喧騒を縫うように届いた犬の鳴き声を聞き洩らさなかった。
無意識に背中が浮く。まぶたの隙間から、碧玉がのぞいた。
『
――おかえりなさい、ユーリ。ラピードも』
『おう、ただいま。・・って、ボスは昼寝中かよ。しかもの膝枕たぁ、いいご身分じゃねーか』
『依頼の畑仕事、がんばってくれましたから』
『ふうん? ま、お前がいいならそれでいーけどな。・・疲れたらそう言えよ?俺がいつでも代わってやる』
『・・・カロルと?』
『おう。カロルと』
ドア一つ隔てた向こう側から声が聞こえる。
レイヴンは視線だけを走らせて、今ユーリとのいる隣室を通ることなく、この部屋から直接外へ出られやしないかと、周囲を確認した。
だが、ここは給湯室である。移動に適した出入り口はない。強いて言うなら、空調と採光のための窓がひとつあったが、足は動かなかった。心地よい酩酊にも似た昂揚感も消え失せている。渋柿を口にした時のような後味の悪さだけが、レイヴンの身に違和感として残っていた。
どうして、と思うも返答はない。ただどうしようもなく、現状に際しての困惑が自身の裡で膨れ上がっていく。
立ち尽くすレイヴンの前で、ケトルからの湯気がシュウシュウと音をあげて立ち昇っていた。
劇場版おっさんも素敵だった・・・
『ドグラ・マグラ』 夢野久作 著
2011/08/20 脱稿・更新