traumerei
tov:4
「わたしのことは、是非 “エステル” と呼んでください」
もちろんレイヴンに向けて発された言葉ではない。
テルカ・リュミレースの大地を統治する帝国、その副帝たる少女から向けられた言葉に、“凛々の明星” の事務員を務める彼女は言葉を失ったようだった。目をまんまるにしたが、微苦笑のまま時を止めている。
オルニオンの街がそう名付けられたのは、三年前の今日である。
テルカ・リュミレースの古い言葉で、「雪解けの光」。星喰みを倒す道程の途中で産声を上げ、唯一、魔物を退けるための結界魔導器を持たなかった街を、エステル嬢ちゃんがそう名付けた。
街の発展に大いに寄与したユーリたち “凛々の明星” は、オルニオンの住民らに大歓迎を受け、ここを中心拠点と定めている。頼まれればなんでもやる便利屋ギルド、として名が広まりつつある彼らだから、ダングレストや帝都に拠点を置いたとしても歓迎されたのではないかとレイヴンはひそかに思っているのだが、誰の出身地でもないこの街を拠点と定め、足取り軽く活動する彼らはレイヴンの目にも好ましかった。
そしてそれはレイヴンだけの思いではないらしい。
今日、レイヴンが彼らの拠点にやって来てから少しの時間しか経っていないが、街の住民と思われる客が入れ替わり立ち替わり訪れ、そのたびにカロルたちが挨拶に出ていた。戻ってくる彼らの手には、採れたての野菜や果物、手造りと思しきクッキーなんかがあったりして、この街の住人たちと築いている信頼関係が見てとれる。照れた様子ながらも、にこにこ笑うカロル少年がほほえましい。
こんなにも来客が多いのには、もちろんわけがある。
今日オルニオンでは、街の誕生三周年を祝した記念式典が行われるのだ。
騎士団とギルドが協力して運営している街だ。式典の参加者には、帝国側は次期皇帝 ヨーデル・アルギロス・ヒュラッセイン殿下をはじめとした、副帝の姫様に騎士団長代理と要人が名をそろえ、ギルド側もユニオンの代表、ハリー・ホワイトホースに幸福の市場のカウフマンと、こちらも大物ぞろいである。
かしこまった式典は昼過ぎに終わり、夜は街をあげての祝賀会が催される予定になっている。街の至る所に即席の屋台が立ち上がりはじめ、皆その準備に忙しい。もともと活気に満ちた街ではあるが、今日はお祭りムード一色に染め上げられていた。
レイヴンや凛々の明星の面々も、式典に参加する予定である。そういう堅苦しい場は苦手なんだよ、といい年こいてごねたユーリ青年のおかげで、フレンやカウフマンらと並ぶ壇上にあげられるのは回避できたものの、寂しそうに眼を伏せる嬢ちゃんの前で 「お祭りにだけ参加するわ〜」 なんて軽口は許されるはずもない。彼らには最前列が用意され、今は式典が始まるまで待機している状態である。
「よォ、おっさん。遅かったな」
「ハリーと一緒にちょっくら挨拶回りに、ね。もうくたくたよ〜」
凛々の明星の拠点では、時間待ちをしている面々が緊張感の欠片もなくダラダラとした時間を過ごしていた。こういうところは、まったく大御所ギルドの貫録である。
「
――ってわけで、ホイこれ、おみやげ」
「わあ! ありがとう、レイヴン!」
「おいおい、いいのかおっさん? ・・あれ買うの大変だったろ」
レイヴンの手から恭しくおみやげを受け取ったカロルが、丁寧に包み紙をはがしていく。中身のケーキが出てくるより先に、包み紙から判断するあたりユーリの甘党は本格的だ。だが、ダングレストに最近オープンした洋菓子店のチョイスでやはり間違っていなかったとレイヴンは笑う。わざわざ予約までして買いに走った甲斐があったというものだ。
「いーのよ。ハリーがあんたらに、ってさ」
「ふーん? じゃ、遠慮なくいただくとしますか」
だめだよユーリ!、というカロル少年の制止をまるで無視し、青年がケーキに手を伸ばす。ちゃっかり一番値段の張るものを選び取っているあたり、天然なのかわざとなのか分かりづらい。早いもん勝ちだぞ、いいから食っちまえと煽られた少年は、散々迷った挙句一番安かったものを手に取った。生来の苦労人気質ね、とレイヴンは苦笑しつつ、怪訝そうな二対の視線をかわすように口を開く。
「で? さっきから嬢ちゃんたちは何の話をしてんの?」
レイヴンの視線の先では、にこにこと微笑むエステル嬢ちゃんと、彼女の笑顔にたじたじと困り切った表情を浮かべているが一つのソファで向かい合っている。またひとつ、ちゃんの珍しい表情が拝めてラッキー、だなんて思う俺様はヒドイ人間かしらん。
「聞いてくださいレイヴン! が、私のことを “エステル” って呼んでくれないんですっ」
「あら、そなの?」
「だって、エステリーゼ様は帝国の副帝で、」
「エステル、です!」
「・・・・・・あらあら」
苦笑するレイヴンに、弱り果てたようなの視線が向けられる。いつも優しげなまなじりは垂れ下がり、のぞく漆黒の瞳が困惑に揺れていた。助けてあげたいのは山々だが、眉根をきゅっと寄せた姫様の顔には “一歩も引きません!” と書いてある。穏やかで他者を慈しむ心を忘れない帝国の姫様は、しかし妙なところで頑固だ。
ちゃんの縋るような視線から目をそらすと、落胆した様子で肩を落とされた。わずかな罪悪感に心の中で手を合わせる。ゴメンナサイ。
「は、ユーリたちのことを “ユーリ” って呼ぶでしょう? 私もただみんなと同じように、に “エステル” って呼んでほしいだけなんです。・・・・どうしても、ダメ、です?」
“エステル” と呼び名は、嬢ちゃんが帝都のザーフィアス城を抜け出して旅を始めたころ、ユーリにつけてもらったのだという。次代皇帝の後継者候補として城での生活を余儀なくされ、気の置けない友人などという存在とは無縁の環境で過ごしてきた彼女である。愛称で呼びあえることがどれだけ、その誰にも告げることのできなかった寂しさを埋めただろう。
もちろん嬢ちゃんとて、誰彼かまわず愛称で呼べと触れまわっているわけではない。だがここは、“凛々の明星” の拠点である。嬢ちゃんがいつになく頑固になるのも、レイヴンには痛いほどわかってしまうのだ。
「・・・・・・・・・あれ?」
降り積もる深雪のような沈黙のなかで、ぽつりとカロル少年が言った。
「そういえばってさ、レイヴンのことなんて呼んでたっけ?」
宵闇にとっぷりと染まった空気を大きく吸い込み、レイヴンはほう、と酒香を帯びた吐息をついた。
眼下に見下ろすオルニオンの街は、そろそろ日付をまたごうかという頃合いになっても賑やかさを失わない。ぼんやりと灯るランタンの明かりの元、街の至る所でジョッキが軽やかに音を奏で、杯が傾けられている。人々の高らかな笑い声を肴に、レイヴンは透明な液体に満ちたお猪口をぐいとあおった。杯の底に残った雫にやわらかな明かりが宿っている。揺れる水面にゆらゆらとたゆたう月の影。
湿り気を帯びた夜気が、熱の灯ったレイヴンの肌をなでていく。だらしなく襟元をくつろげ、首筋に夜風を受けていたレイヴンは心地よさそうに、けれど参ったと言わんばかりに首を折り、天を仰いだ。思い出して、口の端が歪む。
「
――・・レイヴンさん、」
かけられた声に薄目を開けて振り返る。あいかわらず、困ったみたいに微笑む女だな、と思った。
「およ、ちゃんじゃない。どったの?」
「レイヴンさんの姿が見えなかったから・・・。こんなところで飲んでたんですね」
「・・知ってるでしょ? おっさん、甘いの苦手なのよ」
階下ではなぜか、凛々の明星主催の甘味早食い競争が行われていた。今日一日彼らに差し入れされた、数々の甘味を利用して執り行われた早食い競争のせいで、一階は生クリームやカスタードの甘ったるい匂いに満ち満ちている。それらを肴にカルーア・ミルクを飲むユーリという青年を、レイヴンはほとほと理解できない。
「少年は? もう寝た?」
「はい、ついさっき。リタも、となりの部屋で寝ています」
「・・そっか」
続く言葉が思い浮かばず、レイヴンは口を閉ざした。途端、との間には沈黙がのそりと横たわる。けれどこの日は、夜に包まれているためか、軽い酩酊のおかげか、息詰まる感じを覚えなかった。むしろ、人々の話し声、笑い声が遠くから響いてくるようで、それがどこか心地よい。
手酌でまた杯を満たす。とろりと月影をゆがめる酒にくちびるを添え、静かに傾ける。甘く温かなそれが、のどを伝い落ちていく感覚がたまらない。
再び歓喜の吐息をもらしたレイヴンの隣に、が歩みを進めた。彼女が手にしたグラスには琥珀色の液体が揺れ、大きめの氷がカラカラと音を立てている。
「あら。ちゃんってば、けっこうイケるくち?」
「・・・実は、多少」
微笑んだ彼女が、グラスの縁にくちびるを寄せる。氷が涼やかな音をたて、月明かりを浴びて白く光るのどが、琥珀色を嚥下してこくりと上下した。甘やかな熱を帯びたため息。ぬれたくちびるを指で拭う仕草が妙に扇情的で、レイヴンは張り付いていた視線を剥がす。
「・・レイヴンさん?」
そんな自分を不思議そうに見上げるは、まったくいつもの慎み深い彼女のままで、それがなおのこと酩酊を誘うようだった。これがギャップ萌えってやつかしら、と冷静に自己分析じみたことを考えたところで結果は変わらない。酔いを吐き出すように、覚悟を決めるように、ふうっと大きく息を吐き出し、レイヴンが口を開く。
「
――ね、その “レイヴンさん” っての、やめない?」
「え、」
「嬢ちゃんのことだって、“エステル” って呼ぶことになったでしょ? それとおんなじ」
驚いたように目を丸くした彼女が、しかし次の瞬間には困り果てたように表情を曇らせた。レイヴンはぐっと奥歯を噛む。
「なんだったら、“おっさん” とかでもいいのよ? “じじい” はさすがに嫌だけど・・・」
横目で窺うようにして見た彼女は、手元のグラスに視線を落として、何かを考え込んでいるようだった。落とされた視線は酔いのまわったそれではなく、どこか硬質なものをはらんでいる。きゅっと結ばれた口の端が困惑と意志を示しているように見えて、レイヴンはますます強く奥歯を噛んだ。のどを滑り落ちる酒がひどく冷たい。
沈黙に耐えかねたレイヴンが、「ごめんね、変なこと言っちゃって」 と白旗をあげようとしたとき、彼女はようやく口を開いた。
「・・・・でも、レイヴンさんの方が年上なのに・・」
「
――――・・って、渋ってた理由それなの!?」
「お、おかしいですか?」
「おかしかないけど・・・、」
拍子抜けではある。
思わず黙り込んでしまったレイヴンを見上げる彼女は、弱り切った顔をしながらも頬に羞恥の赤みを差していた。おかしなことを言ったのだろうか、と不安げに泳ぐ視線。雫の付いたグラスをなぞる指先が、所在なさげに往復している。
レイヴンはにやつく口元をごまかすため、片手で覆い隠した。なぜだか妙に笑みが込み上げてきて、どうにもならなかったが、ここでそのまま披露するのもまずい気がする。・・咳払いくらいは許してちょーだい。
「でもちゃん、青年のことは “ユーリ” って言うじゃない。妬けちゃうわぁ」
そのセリフに、彼女はきょとりと大きな目を瞬かせた。その表情が妙に子どもっぽく見えるのは、普段の淡い微笑が浮かんでいないからだろうか。レイヴンがまじまじと見下ろす中、彼女は困惑したようにちいさく開いていたくちびるを結んだ。よくよく様子を窺うと、頬にうっすらと朱色が差しているような気もする。
なんか変なこと言ったかしら、と自問するも、心当たりはない。「妬けちゃうわぁ」 程度の戯れで、が赤面するとも思えなかった。レイヴンにとってはほとんど挨拶のようなものでもあったし、それは彼女も承知の上だろうという自負もあったからだ。そのくらいの関係性は築いてきた、と、思いたい。
やがて彼女が、口を開いた。
「・・あの、わたし、ユーリよりも年上・・です」
「えっ、」
あ、やば。
咄嗟に羽織の袖で口を覆うも、覆水盆に返らず、失言口に戻らず、彼女の眉が叱られた子犬のように垂れ下がってしまった。結ばれたくちびるはうっすらへの字を描いており、ますますユーリより年かさだとは思えなかったが大人しく口をつぐむ。
というか、女性はいつまでも若く見られたがる生き物ではなかったか。「ねえ、わたしっていくつに見える?」という問いを恐れる男性諸君の心情を、レイヴンは十分すぎるほど理解できる。・・いや、あの頃は俺も若かった。
「若く見られて嬉しいっていうのと、誰かより年下に見えるっていうのは、別物です」
「・・フクザツなのねえ」
思わず揶揄するような言葉がこぼれてしまって、レイヴンは夜の中での様子を窺う。軽口は “レイヴン” の専売特許だが、それで嫌われるのはいやだ。
「フクザツなんです」
彼女はレイヴンを見上げ、緩やかにくちびるを綻ばせた。酒のせいだろうか、妙にあどけなく、無防備な笑顔だった。
のどの奥に呼気が詰まる。
呑みすぎたかな、と徳利を揺らす。酒の踊る音が聞こえた。
別に季節が夏というわけではありませんが。おっさんと酒と月はどうしても書いておきたかった。
『夏の夜の夢(原題:A Midsummer Night’s Dream)』 ウィリアム・シェイクスピア 作
2011/09/10 脱稿・更新