Colorful

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たくさんの絵の具を塗り重ねたような夜の空に、少し歪な月が浮かんでいた。初夏に差し掛かろうとする季節の夜風はアルコールで浮き足立った体に心地よく、するすると髪をくすぐって流れていく。頃合いとしてはちょうど夕飯を終えたくらいの時間だろうか。軒下から届くテレビの音や子どもの笑い声が、しんと静まった夜道にやわらかな明かりを添えていた。は、ゆったりとした足取りで進むティエリアの後ろを歩いている。

ティエリアが席を離れている間にそのポジションを占拠していたハレルヤは、雁首そろえて席へ戻った私たちにひどく愉快そうな顔で手を振り、『ま、ここは俺に任してお前ら帰れ』 とのたまった。その言い方の偉そうなことと言ったら、役所の受付でだってここまで不遜な態度をとられたことはない(もちろん役所の方々みんながみんな “そう” だと言っているわけではないし、恨みがあるわけでもないことをご理解いただきたい)。そんなハレルヤの発言を受けて、ええー!と残念そうな声が向かい側に座った女の子たちから上がる。今更のように不快感をあらわにしたティエリアが、余計なことを言って場をぐっちゃんぐっちゃんのしっちゃかめっちゃかにするより早く、私がティエリアを騙しにかかるより早く、ハレルヤは言った。

『・・・・なんだよ、俺じゃ不満ってか?』

全身の毛穴という毛穴が総毛立ち、見事なまでのトリ皮状態である。私とティエリアは、まるで逃げるように店を後にした。


奴にしては随分ゆっくりした足取りで、しかし特に周囲に興味を示すことも、寄り道をすることもなくティエリアは黙々と歩いている。静かだなぁと思うにつけ、そういえば最後に交わした会話はどんなものだったろうと、はぼんやり記憶をたどる。―――「・・切符?」「ああ、」 が最後であり最新であることに思い至り、電車の中でも、駅の改札を抜けてからここまでの間にも、一言もしゃべっていない現状には驚きを禁じ得なかったがしかし、特別おかしいとも感じなかった。

ティエリアは負の感情を隠す努力をしない人間だから、不機嫌な時にはそれを垂れ流しにするし、興味のない事柄に関してはなんの躊躇いもなくつまらなそうな顔をする。それはもはやにとって一目瞭然であり、顔を見ずとも雰囲気を察することなど朝飯前だ。だから、ティエリアがふっつりと黙り込んだまま、かれこれ20分近く喋ってなかろうとは特に緊張しない。何か話さなきゃ、と話のタネを探すこともない。夜は、はちみつ色の静寂に満たされている。

やがて、前を歩く足が止まった。つられて立ち止まるの数歩先で、ティエリアが夜空を見上げている。


――・・ああ、月がきれいだな」


たった一言だ。何の変哲もない、誰に向けて発せられたわけでもない、一言。なのに、月を見上げるティエリアの横顔に息がとまった。足がすくんで動けなくなった。どうしようもなく泣きたくなって、反射的に視界がぼやけ、くちびるが震えた。・・このひとは、


このひとは、いつからこんな穏やかな表情を私に見せるようになったのだろう。


今ほど自分の頭の上に街灯がないことをありがたく思ったことはない。今の私はきっと、泣きだす一歩手前の子どものような顔をしているのだろう。つん、と鼻の奥を突く痛みをごまかそうと息を吸い込んではじめて、自分が息を詰めていたことを知り、ずるずると鼻を啜ってはじめて、泣きそうになっていることに気付いた。遅ぇんだよ、とハレルヤが笑う。


このひとは、いつからこんな目をするようになって、

「・・・・・・・どうした?

そんな声音で私の名前を呼ぶようになったのだろう。


――あのさ、ティエリア」
「・・?」
「今度また、ジェイドに・・会ってくんない、かな」


そして私は、いつからこのひとの姿を人ごみに探すようになっていたのだろう。


脇を通り過ぎていく車のヘッドライトに影がゆれ、赤いテールランプが吸い込まれるように消えた。涼やかな夜の風がティエリアの紫苑を攫い、やわらかな月光がその輪郭をなぞる。人形みたいだと改めて思った。風に舞うつややかな紫苑の髪も、陶器のような白い頬も、血のように赤い瞳も、まるで何者かが “こうあるべき” という考えの下に創り出した美術品のようで。・・しかし、多くの美術品、芸術品の類がそうであるのと同様に、それらにはまったく自覚がないのだ。自分がどんな顔をして、他人の目にどんな映り方をしているかなど、彼らにはまったく。

「ティエリアのこと、ジェイドにもちゃんと知ってほしい」

降りしきる雪のような静寂がティエリアと私の間を埋める。やがてひそやかに目を伏せたティエリアが、止めていた歩みを再開させた。私は小走りで駆け寄り、その隣を歩きだす。・・ちらりと見上げた横顔がひどく人間味を帯びている気がして、小さく笑った。もしかしてもしかすると、なんか照れちゃったりなんかしちゃったりしてるんじゃないですか、アーデさん?

「・・・・・どう伝えるつもりだ? あの親馬鹿に」

まったくもってそのとおりであるあたりが、我ながら哀しい。

「例えば――・・、例えばの話なんだけど、」

「ティエリアとジェイドが、地獄でのた打ち回ってもがき苦しんでるとするじゃん」
「・・ちょっと待て、まずその前提が納得できない」
「だから “例えば” の話だって言ってんじゃん。・・断崖絶壁に二人がしがみ付いてる設定でもいいけど」
「・・・・・・・、もういい」

納得していただけたようなので、話を進めようと思う。

「ティエリアとジェイドが地獄でもがいてるとして、わたしはそれを天国から眺めてるわけよ」
「・・・・・・・・・・・・・」

お釈迦様から与えられた蜘蛛の糸は一本。地獄の淵から助けられるチャンスは一度きり。透明に光る糸で助けることができるのは、必ずどちらか一方のみ。私はどう頑張っても、ティエリアかジェイドの、どちらか一方しか選びとれない。もし、そんな状況が生まれたら――どちらかを、選ばなければならないとしたら。

「・・『たぶん、どっちも選べないと思う』 って、伝える」

二人分の足音が夜に溶ける。速くもなく遅くもなく、寄り道もせずにティエリアはまっすぐ家路を進む。私はその隣を同じように黙々と歩きながら、明日の予定について思いを巡らせていた。初めてのゼミへ向けて、英語の論文を本格的に読み込み始めなきゃまずいなあとか、でもここしばらく構ってあげられなかった分、ルークのご機嫌とりをしようかなあとか、取り留めない、いろんなことを。とりあえず明日はのんびり朝寝坊することにしよう、と奇妙に凪いだ心持ちでが決めたころ、見慣れたアパートが見えてきた。

階段を一歩踏み出したところで、ティエリアの足が止まる。

「・・ティエリア?」
「お前、ハレルヤ・ハプティズムとああして出かけることは多いのか」

唐突だなオイ。

「時々、って感じ。少なくないけど、多くもないよ」
「・・・・だろうな」

ため息混じりに呟き、再び階段をのぼりはじめたティエリアを追いかける。その背がなぜか、見慣れた保護者のものとダブって見えて、少し笑った。


この中に答えがあるの




この中に答えがあるの ... 7-1
writing date  100521   up date  100522
この子はたぶん、ものすごく唐突に気付くと思ったんだ。