03/07(Thu)

reported by:clerk



 事の始まりは、直属の上司であるクラウドさんに、今度メシでも行かへんか、と誘われたことだ。
 その時はてっきり、居酒屋とか焼肉とか、他の鉄道員さんたちあたりも巻き込んで夕飯でも食べに行くのかと思い、奢りならぜひ、と返事したのだが、よくよく確認もせず答えたのがすべての元凶であったらしい。

 だってこれおかしいでしょ。

 ライモンでも随一と評判の高級ホテルのレストラン(個室)で、ランチ。――いや、ここまではいい。自分がお金を出さないんだったら、こういう贅沢もありだと思う。わたしは残念ながら、こういう畏まったところでお上品にご飯を食べるという環境に慣れてなさすぎるので、招待でもされない限り近付きたくはないが、招待してくれるならスキップで赴こう。
 ただ、職場の上司が奢ってくれる食事としては明らかにおかしい。なんだこれ、このあと早期退職でも募られるのか? それか、金払えんのやったら体で払ってもらおうか、とか言われてホテルの一室に連れ込まれたりでもす……るわけねえよなあ。クラウドさんだしなあ、何度か夕飯にお呼ばれしたことがあるのだけれど、奥さんめっちゃ綺麗だったしなあ。今日もここまで車で送ってくださったの、その奥さんだし。

 テーブルに準備された食器やグラスを見る限り、あと二人やって来るらしい。…二人? なにこれ、どういうことなの。他にあとだれか二人来るということなのだろうか、いやそれなら、どうしてロビーとかで待ち合わせして一緒に入らない? もしかしてわたしの知らない人が来る? なんのために?

「あの、クラウドさん。今日は一体、」
「説明はあとや。今は黙って待っとれ」

 理由を聞こうとしてもこれだ、もうこう言われ続けて何分経ったろう。いい加減わたしも不安になってきた。お昼はいいとこのごはん食べさせてくれるって聞いたから朝ごはんは完全に抜いてあるし、昨日の夕飯も面倒くさくて瞬間チャージ的なゼリーを啜っただけなので、空腹の具合は限界値をとっくに突破している。今ならこの、目の前に並ぶ曇りひとつない真っ白なお皿もおいしく頂ける気がする。塩とか振って。
 空腹で目の前がかすみだしたころ、ぱたぱたと近付いてくる足音。「お、来はったかな」 というクラウドさんの小さなつぶやきを耳にして、思わず緊張感が背筋を駆け抜けた。え、どうしよう本当に知らないひとだったら。わたし、結構人見知りする方なのに……―――って、え?

「申し訳ございません、遅くなりました」
「ごめんね、待った?」

 いや、いやいやいやいや。ちょっと待って、なにこれどういうこと。
 いや、知らない人じゃなかったけれども。よくよく存じ上げている方々ですけれども何これここどこわたしは誰。訝しげな表情を隠そうともしないわたしを見下ろし、最近妙に当たりのきついそのひとが言う。

、少々愉快な顔になっておりますよ」
「ほっといてください誰のせいだと思ってるんですか」
かわいい!」
「すいませんお二人ともちょっと黙っててもらっていいですか、てゆーかクラウドさんちょっと話があるんでツラ貸してもらえますか」
「じゃ、メンツも揃ったことやし、始めるとしますかー」
「ツラ貸せっつったのが聞こえなかったんですかおいこら」

 何が楽しくて、せっかくの休日にまで上司三人と顔つき合わせてランチなんぞ一緒にせねばならん。てゆーかなんだこの状況、おかしいだろ! サブウェイマスター×2とベテラン鉄道員に中途の事務職員ってなにこれ、わたしお酌とかして回らなきゃいけないの? うわ、めんどくせえええ。
 それでもこの十年間で身についた所作はそう簡単に抜けてくれない。居酒屋じゃあるまいし、お酌の必要はないだろと自分の思考の方向性にあきれ返りつつも、遅れて到着したお二人が席に着いたことを確認。お店の方に一声かけようとしたところで、クラウドさんに止められた。

「ちょお待て。今日の主客はお前みたいなもんやからな、なんもせんでええ」
「そっそんな風におだてても、わたしまだ貯金が目標金額まで届いてないんで、早期退職とかしませんからね!?」
「……いやお前、なんの話してんねん…」

 せやなくて、と呆れた口調で言いながら、クラウドさんは向かい側に座るお二人に目をやった。その視線を受けて、ひとりが重々しくうなずき、ひとりが照れたように頬をかく。――これはどうやら、100パーセント仕組まれたものであるらしいと判断したとき、クラウドさんが満を持して口を開いた。


「これ、お前と白ボスの見合いの席やから」





「いやそれにしてもお腹すきましたねーわたし今朝からなにも食べてないんでお腹すきすぎてほんとやばいですよあはは今日って何が食べられるんですかねえってゆーかお上品になにか食べるっていうよりファストフードとかがいいですわビックマック食べたいビックマックそういえばああいうのにはいってるパティって実はミミズのお肉なんだって噂ありましたよねあれってほんとなのかなーいやかけらも信じてないですけどもしミミズだとしてもあれだけおいしいなら別にミミズでもいいかなーだってミミズはミミズでも食用ミミズなんでしょ?って言ったら友達にドン引きされてしばらくミミズってあだ名で呼ばれてたのも懐かしい思い出ですねあの子元気にしてるかなー」
「……すまん、お前の言うてることの八割も理解できひんのやけど、なにがなんやって?」
「いえ別に聞いてもらおうと思って言ったことじゃないんで気にしないでくださいしっかし本当にお腹すいたなーっとじゃあまあそういうわけなんで、わたし帰りますね」
「ダストダス、サイコキネシスです」

 指一本満足に動かせない状況の中、わたしは立ち上がりかけた体を席に戻される。天下のサブウェイマスターがポケモンバトル中でもないにも関わらず、一般人に技なんてしかけていいんですかと激しく糾弾したいところであったが、当の本人はテーブル上に灰皿を探してきょろきょろしていた。こんなとこ全席禁煙に決まってんだろーがコンチクショウ。

「……あ! じゃあお手洗い行かせてください、お手洗い!」

 無視だよ。目の前のひとはちょっと困った顔してるけど、隣と斜め前のひとはもう完全に無視だよ。…だから煙草は吸えないって言ってんでしょーが、吸いたいんだったら外行け、外!

「もー意味わかんない…」
「考えてもみろって。あのひと、白のサブウェイマスターやぞ? 高収入・高身長・高個体値の 3K やぞ? 600族 6V みたいなもんやん、お買い得にも程があるやろ」

 あんた一体上司のことをなんだと思ってるんだ、と思わずにいられなかったが、当の本人がどこか嬉しそうだったのでどうでもよくなった。「なんですかそれチートじゃないですか」 と喉まで出かかっていたのをどうにか飲み込む。……あと、高収入・高身長・高個体値の 3K ってなんだ。こっちの世界ではそんな言い方するのか。

「…帰りたい……」
「いやいや、もうちっと冷静に考えてみろって! こんな機会そうそうあることやないってわかってんねやろ? 目の前にあんなでっかいエサぶら下げられて、食いつかんでええんか? チャンスやん!」

 少なくとも、でっかいエサの目の前で言うセリフではない。

「じゃあもう面倒くさいんではっきり言わせていただきますけど、そんなの、お買い得をお買い得だと思って、チャンスをチャンスだと思う方にお願いしたらいいじゃないですか。白のサブウェイマスターですから、引く手あまたっていうか、それこそ入れ食い状態になるに決まってます。どうぞ、その中からこれぞと思う一匹をお選びください。わたしには関係ありません」

 一息で言い切ると、さすがに場が静まり返った。吐き捨てるようについた溜息が部屋に響く。
 せっかくおいしいごはんが食べられると思ってたのになんだこれ、あまりにも残念すぎる。いい年こいたおっさん三人の悪ふざけに、なんでわたしが付き合ってやらなきゃならない。高級ホテルのランチが代償だと考えればまだ飲み下せないこともないが、この場すら馬鹿みたいに手の込んだ悪ふざけの一端を担っているとしか思えなくて、胸糞悪くなるような苛立ちがこみあげてくる。

「やだ」

 いよいよ席を立とうと心を決めたとき、それまで押し黙っていたクダリさんがぽつりと言った。自分の手元に落としていた視線を上げて、わたしを真正面に見据える。いつもと同じ、何を考えているのかよくわからない鼠色のひとみ。その奥に宿る、燃えるような。

じゃないとやだ。じゃなきゃ意味ない」

 強い眼差しに気圧されて、ぐっと言葉を飲んでしまったのがわたしの敗因だと思う。抜き身の刃を喉に押し付けられているような感覚。いつだかに向けられた目にそっくりで、目を逸らさずにはいられなかった。

――…クダリもこう言っていることです。“関係ない” と決めつけるのは、話を聞いてからでもよいのではありませんか?」
「せやで。とりあえずいつもみたく、ただ飯食って、それから考えればええやん。今帰ったらそれこそお前、損するだけやで」

 それでも嫌なものは嫌なのだと言おうとしたとき、失礼しますと声がかかった。いかん、料理が運ばれてきたら抜けるに抜けられなくなる、と思ったわたしのまえに、『フォアグラとルバーブのマーブル仕立て(熟成ヴィンコットを添えて)』 がしずしずと運ばれてくる。ただでさえ喘ぎに喘ぎまくっていた食欲をかき乱す、香ばしくも華やかな香りが鼻腔をくすぐり、いかん気をしっかり持て、と頭を振ったそのそばから 『野菜のポタージュ(カプチーノ仕立て)』 があたたかな湯気を携えて目の前に並べられる。その途端、ぽきりと意志の折れる音がした。腹の底から。
 
 ――とりあえず、食べてから考えようと思います。




 満腹になった胃袋と口の中にあった至福のひと時を噛みしめつつお手洗いから席に戻ると、隣、および斜め前に座っていたはずの上司がいなくなっていた。席に着きながら首をかしげると、「たばこ」 と端的な答えが返ってくる。そうまでして吸いたいか、と理解できない喫煙者の心情に呆れを呈したところで、はたと気付く。

「……あ、そっか…これって、お見合いなんでしたっけ…」

 料理を食べだしたら、そのあまりの美味しさにこの席がどういったものであるかなんて、一瞬でどうでもよくなってしまった。「ご趣味は?」 なんて会話がなされることもなく(本当に見合いの席でそんな会話がされるかどうかも知らないが)、仕事中に見かけた面白いお客様の話とか、クラウドさんのご家族の話とか、最終的にはポケモンの育成についての論議に熱が入りすぎて、メインディッシュが運ばれてきてからデザートを食べ終えるまでその話を延々繰り広げていたため、ついここがどこで、なぜいるのかを忘れてしまっていた。せっかくお手洗いにも行ったのに逃げ出さないなんて、あんまりうっかりし過ぎている。
 しかも、二人きりにされてようやく思い出すなんて。気まずいことこの上ない。

「あの、一応確認しておきたいんですけど、…この世界における、お見合いって言葉の意味って……、」
「“世話人と呼ばれる第三者の介入によって、結婚を希望する男女が対面すること” …って、ノボリ言ってた」
「…ですよねー…」

 その時点でわたしは欠片だって結婚を希望していないし、なにより半ば騙されて連れてこられたので、これが本当に “見合い” と呼ばれるものに分類されるのか怪しいが、まあわたしの知っている “見合い” と変わらないことだけは理解できた。

「…………………」
「………は、けっこん、とかはしたくない?」

 そう言うクダリさんの表情は、普段とあまり変わりないように思えた。いつもの、張り付いたような笑顔に、何を考えているのかよくわからない目。でも口調は静かで、ひどく落ち着いている。ひとりで挙動不審に陥っているわたしがバカみたいだ。

「そう、ですね。……てか、結婚とかって言うより、誰かとお付き合いする、とか、むしろそっちが想像できないです」
「カレシは、ほしくない?」
「欲しいとか欲しくないとか、考えたことないです。……ま、どっちかって言うと、要らないですけど」
「…っ元のせかいに、かえりたい、から?」

 不意にクダリさんの言葉が震えて、わたしは反射的に視線を上げた。けれど、目の前のそのひとの表情はあまり揺らいでいないように見える。視線は合わない。

「どう、なんですかね…。…帰りたくないわけじゃないですけど、ルクスと一緒に生きていきたいって思ったのは本当ですし……。やっぱ、よくわかんないです。そういうことまで、手が回んなくて」
、さっきからわかんないって、そればっかり」
「…すいません。でも、欲しいと思わないんだから、要らないんですよ。きっと」

 降りしきる雪に覆われた街のような沈黙だった。普段見慣れていたはずのものだとか、当たり前にあった音だとかを包み隠してしまう深雪のような。いつもの表情、普段の言葉を隠して、まるで初めて会ったひとと対面している気分。殺しきれなかった溜息を吐息に混ぜる。それも白く彩られれば、少しは可愛げがあっただろうに。

「…っそんなの、ズルイよ」
「……………………」
「だって、考えもしないで、ほしいと思わないからいらないなんて…、そんなのズルイ」
「…………すみません」

 我ながら、返した言葉はひどく間抜けだった。でも他に何を言えばよかったのか、他にどんなことが言えたのか、さっぱり思いつかない。
 クダリさんは、一体わたしに何と言ってほしいのだろう。わたしになにを望み、なにを求めるのだろう。――わからない。そんなこと、一度だって考えたことなかった。わかりたいと思ったことも、わかろうとしたことも。


「ぼく、が好き」


 いつだかにも聞いたセリフが、まったく別の意味合いを持ってわたしの耳に滑り込む。流れ込み、溶け込み、全身をめぐる。首回りがひどく熱い。視線を注がれているのは痛いほど感じているものの、とてもじゃないが顔なんてあげられなかった。心臓が体の中心でどったんばったん暴れまわっている。いつ破裂しても不思議じゃないとすら思った。

のことが好き。大好き」
「………そ、れは……その、そういう、いみ、なんですよ…ね」
「うん。のことをぎゅってしたいとか、ちゅーしたいとかエッチしたいとか、そういう好き」

 すいません、そういう露骨な感じ今だけちょっとやめてもらっていいですか。割ときわどい下ネタとかも適当に流すなり応じるなりして当たり障りなくこなしてきたが、ちょっと今は無理だ。向けられる言葉のひとつひとつが、わたしのライフをがりがり削り取っていく。…顔があつい。今ならエンブオーやダルマッカの気持ちもわかる。あと、すごくだいばくはつしたい。
 ふふっ、と目の前の空気が揺れた。できるだけ見ないように、見ないようにとしてきたが、その努力もここまでであるらしい。覚悟を決めて視線を上げると、テーブルの上に片肘をついたクダリさんが、その手の上にあごをのせてにやにやしながらこちらを見ていた。綺麗な下半分の弧を描いたくちびるから、白い歯がちろりとのぞく。

、顔まっか。……かーわい!」
「ふざけたこと言ってるとぶっ飛ばしますよ」
「なんで? ぼく、ほんとに思ったこと言っただけ」
「それ以上言ったら、明日から一週間無視します」
「それはヤダ」

 ぱくん、と口を閉じたクダリさんは、そのくせ満足そうに笑った。鼠色のひとみをとろりと細めて、白い頬にうすく刷いたような朱が灯る。恋する乙女か、と思わずにいられなかったが、赤いくちびるの隙間からのぞく八重歯は肉食獣のそれのようにしか思えず、これが恋する乙女ならノボリさんは深窓の令嬢であり、わたしですら乙女に分類される気がした。くるくると回るくだらない思いつきに封をし、思考の外に放り投げる。

「っはー…わからん。こういう場合ってどうしたらいいんですか?」
「え、それぼくに聞くの?」
「だって、クダリさんなら経験豊富じゃないですか。どうすればいいのか教えてください」
「…ぼくだってこんなの初めてだもん。そんなのわかんない!」

 ぷう、と頬を膨らませ、くちびるをつんと突き出してクダリさんがそう言う。向けられる表情のひとつひとつが妙に大げさでひどくわかりやすく、それでいてどこかあどけない。何を考えているのか、は正直さっぱりまったくもって理解しようがないのだけれど、大変ご機嫌であることだけは疑いようがなかった。ぽろぽろとこぼれるように笑みがあふれている。

「(……あ、そうか…。クダリさん、浮かれてるんだ)」

 常時にこにこと笑みを浮かべ、自分のやりたいように振る舞っているように見えるクダリさんは、そのくせいつだって理性的だ。自分の表情が相手にどう受け止められているのかを測り、どこまでなら許されるのかを冷静に判断している。すべてが計算ずく、とまでは言わなくても、ほとんどそれに近いんじゃないかというのがわたしの中にある “白のサブウェイマスター、クダリ” という人間のイメージであるわけだが、今はどうも、その制御がうまくいっていないらしい。素に近い、とでも言えばいいのか。
 それがどうして、今このタイミングで、なんて考えたらだめだと思う。…なんかもう、いろんな意味で。

「……返事…とか、したほうがいいんですか」
「え、イラナイ」

 当て逃げかこの野郎。

「だって、欲しいと思わないからいらないーとか言われても、ぼく納得できないもん」
「…納得できない、とか言われても…本当にその通りなんですけど…」
「考えてみたこともないのに?」
「……いや、まあ、確かにそうですけど…」

 でも、要らないもんは要らないんじゃないだろうか。たとえば目の前にでっかい宝石があるとして、だけどわたしはそれを欲しいなんて欠片も思わないから、欲しいかどうかなんて考えない。逆に、目の前にポケモンの卵があるとしたら、わたしはそれを抱えて歩き回ろうかどうしようかすごく悩むと思う。これを得たとしてわたしに責任が持てるのかとか、これから先どうしていこうかとか、至極真剣に考えると思う。
 ――…そういうこととは、話が違うのだろうか。

「…でもそれなら、こんな不感症の女じゃなくて、欲しいと思ってるひとに応えれあげればいいのに…。クダリさんなら掃いて捨てるほどいるでしょう、欲しいって言ってくださる女の子」
「うん」

 即答だよ、しかもものすごく当たり前にうなずいたよこのひと。

「でも、ぼくの欲しいに応えられるの、ひとりしかいないもん」
「…………………」
にしか応えらんないのに、なんで他のコ? それこそ意味ワカンナイ」

 ―――だっ、だめだ、勝ち目がない。
 下手なことを言えば言うほど追いつめられている気がする。落ち着きさえすれば 「ああハイハイ」 で流せるのかもしれないが、とりあえず今は無理だ。いちいち真に受けて、いちいち動揺してしまう。もう少し、せめて年齢相応な程度、経験値を稼いでおけばもうちょっとマシだったのだろうかという思いがよぎったが、やっぱり無理かもしれないと思い直す。なんせ相手は、白のサブウェイマスターだ。

「……じゃあ、どうしろってんですか。まさか、本当に結婚しろなんて言わないでしょう?」
「え、だめ?」
「はあああ!?」

 思わず声を荒げると、クダリさんがまたくすくす笑う。とりあえず冗談だったことはわかったが、それにしたってなんて趣味の悪い。

「ふざけたこと抜かしてると、本当に張っ倒しますよ」
「えー、いいじゃん別に、とりあえずケッコンしちゃえばさあ。ぼく、に好きになってもらう自信あるよ?」
「…っその何の根拠もない空虚な自信はどこから来るんですか。いっそ尊敬しますけど、なにより虫唾が走ります」
「ひっどいなあ、そこまで言う?」

 くすくすと笑いながら、でもね、とクダリさんは静かな口調で言葉をつないだ。何を考えているのかわからない、透き通った鼠色。注がれる視線から、わたしは逃れようとすることしかできない。

「ねえ、逃げないで、ちゃんと考えてみて? これまでのこと、これからのこと。が自分自身のこと、見て見ないフリしてちゃ、きっとダメだと思う」
「……あのとき、自分のことはだいぶ棚卸ししたつもりでいたんですけど、まだ、ダメですか」
「また少しベクトルがちがうから。…たぶん、の中でほこりかぶってると思う」

 わかんないけど、と付け足す割に、声音には確信が満ちているように感じた。少なくともわたし自身の言葉よりは、厚みがある。

「いろいろ考えて、そしたら、ぼくのことも考えてみて? …きみのことを好きって言う、ぼくのこと」

 そこで、クダリさんはふうと大きく息をついた。つられて視線を上げたわたしの前で、クダリさんがぺろりとくちびるを舐め、グラスの水を一口含む。こちらの機嫌をうかがうような鼠色の視線と、わたしのそれがかち合う。瞬間、怯んだように瞼を伏せ、けれど気を取り直すように視線を上げたクダリさんは、確かに笑っていたけれど、笑ってなどいなかった。呼気を吸い込む。


「それで、よかったら――…ぼくと、ケッコンを前提に、お付き合いしてください」


どうなるのか一番不安なのはたぶんわたし。

2012/05/30 脱稿
2012/06/05 更新