01/30(Wed)
reported by:clerk
心配そうに目を細めるルクスに伴われ、よろよろと出勤したわたしを見るノボリさんの顔は、マスクを見てゲラゲラ笑っているデスマスか、いい匂いのするヤブクロンを見つけたときのような、ひどくぎょっとしたものであったことをここに告白しておく。
「……なんというか…一晩で一気にお年を召されましたね、」
「四捨五入すれば30ですけどまだ20代女性に言い放つセリフがそれですか、闇夜に気を付けてくださいね」
「返り討ちにしてさしあげます。…それで、一体どうなさったのです?」
自席へ近付くと、先回りしたルクスが椅子を引いてくれる。つるりとしたボディをひとなでして、けれど言葉もなくわたしはへたり込んだ。だってもうやってられない、なんだあれ、なんだあいつ。ルクスはこんなにいい子なのに、あいつときたらなんでこう…。
「もうわたし、真っ白に燃え尽きそうですよ…。真っ白にな…」
「本日の業務が終了してからにしてくださいまし」
「…なんか最近、ボスからの当たりがきつい気がするんですけど気のせいですか」
「まあ、はすでに身内のようなものですから。わたくしの態度が、幾分厳しくなるのも致し方ありません」
は、身内? 耳慣れない言葉に首を傾げるひまもなく、ノボリさんが 「それで、何かございましたか?」 と言葉を重ねるから、わたしはそちらに思考を集中させる。寝不足と肉体的、精神的疲労がたまりすぎて同時に二つのことを考えられる気がしない。
「いえ、前の職場の知り合いに、ポケモンを預かってくれないかと頼まれまして」
なんでも、他地方への出張で明日まで家を留守にしなければならないのだが、ポケモンの同伴は会社から許可されていないらしい。通常であればポケモンセンターに預け入れたりするところだが、ボールの中でじっとしているのが苦手な上、性格的な問題から見ず知らずの他人に任せるのも難しい。となれば、ポケモンを所持しているものの手持ち数には余裕があり、万が一仕事先にポケモンを連れて行くことになっても問題のない人間に任せるのが上策だ。
「そこで貴女が、ですか?」
「…少し時間はかかりますけど、向こうが慣れてくれさえすればなんとかなるっていうのは、最近わかってきてたんで、大丈夫かと思ったんです………けど、慣れたっちゃ慣れたというか、慣れてないっちゃ慣れてないというか、」
「……?」
思わず言いよどむと、ノボリさんが訝しげに首をひねった。再び言葉の続きを促そうとしたノボリさんが口を動かすより先に、ぱたぱたと近付いてくる足音。このむだに軽快で、かつ “廊下を走らない” という不文律を笑顔で破り捨てる人物は、このギアステーションに多くない。
「あっ、やっぱりみんなここにいたー!」
室内にいた鉄道員さんたちからの挨拶に応じるクダリさんは、いちいち楽しげだ。なんで朝っぱらからそんな元気なんだろう、少しでいいからその明るさを分けてほしい。
「ねえ、このチラーミィだれの? さっき廊下で見つけた!」
クダリさんのその言葉に、わたしは机に俯せていた体をがばりと起こす。隣で、ノボリさんがさらにぎょっとした目でわたしを見下ろしているようだったが、今は構っている場合じゃない。ちなみに、「おはよ、」 とエンジェルスマイルを浮かべるクダリさんもどうでもいい。問題なのは、そのクダリさんの腕の中でまあるくなっているチラーミィだ。
クダリさんに抱きかかえられて、チラーミィはころりと丸くなっている。腕の中があたたかいのか、心地よさそうに細められた目とふにゃりと垂れ下がった大きな耳が、思わず手を伸ばしたくなるほど愛らしい。ぬくもりを求めるようにふるりと震え、クダリさんの腕にすり寄る姿なんかもはや犯罪的だ。くるくると喉を鳴らす様子は、昨夜がまったく嘘のようである。…まったく本当に、泣きたくなるほど。
「のしりあい?」
「たぶん、わたしが預かった子だと思うんですけど……もしかしたら違」
「……………………」
確認のために手を伸ばしたら、そのすばらしく整えられたしっぽでぱしりと手を払われた。
――…うん、たまたましっぽをぶらぶらしてるときに当たっちゃったのかな! だってわたし、昨日あんなに部屋を荒らされても引っかかれてもあごに頭突きくらっても、最近になってようやく成功し始めた数少ないポフィンをキミの夜食と朝食に出してあげたし(本当はルクスにあげるつもりだった)、一人で留守番するのがいやだとさらに暴れるキミをこうして職場にまで連れてきてあげたのに、まさかちょっと撫でようとしたくらいで手を払われるなんてそんなまさ
「……………………」
「……。このチラーミィはもしかして、メスでございますか」
「メスでございますね」
さすがに二度もしっぽで払われて、偶然当たっちゃったのかな☆、なんて思えるほどポジティブな人間ではない。つん、と鼻をそらしたチラーミィは、わたしに向かって くろいまなざし である。おっかしいな、チラーミィってそんな技おぼえられたっけ、と頭の中で図鑑をめくっていると、彼女はクダリさんの腕の中でとろりと目を細め、くるるると親しげに喉を鳴らした。根っからのポケモン好きが高じて、サブウェイマスターという地位まで上り詰めたといっても過言ではないクダリさんの顔が、ぱっと輝く。
「うわあ、見て見て! すっごくかわいい!」
「ソーデスネ」
「ねえ、もそう思うでしょ?」
「ソーデスネ」
「……ね、ねえ? なんでぼくの方ぜんぜん見てくれないの?」
「ソーデスネ」
「ぼっぼくの話、ちゃんと聞いてる? ねえ、」
最低でもあともう一度くらいは 「ソーデスネ」 と返事したかったが、クダリさんが本気で怯んだのと同時に、チラーミィからの くろいまなざし が ぜったいれいど に変化したのを感じて断念する。…あの、このチラーミィ、ほんとのほんとにチラーミィですか? タイプおかしいことになってない?
「名前、リリスっていうんです。今日一日、預かることになったんですけど、わたしとはその…相性が良くないみたいで。……クダリさんとリリスは、とても仲良しですね」
もう十年以上も抱えてきたことである。理解はしているが、寂しい、と思う心は止められない。しかも最近はルクスに加え、クダリさんやノボリさんの手持ちポケモンたちとも良好な関係を築けていただけに、改めて事実を突き付けられたようで、存外受けたショックが大きかった。悪いのは自分だとわかっているのに、クダリさんにばかり懐くチラーミィを恨めしく思う自分の心根が情けなくて、どうしようもなく歯痒い。
笑ったつもりでいたのに失敗したのか、それともそんなわたしの心のうちを悟ったのか、ルクスが心配そうに腕を伸ばし、わたしの首に抱きついてきた。だいじょうぶだよ、と言われているようで、紫炎のあたたかさに目の奥がツンとする。額を寄せて 「ありがとう、ごめんね」 と囁くと、背中に回されたルクスの腕がそろりそろりとわたしの後ろ頭を撫でる。この子はまったく、わたしを慰めることばかりが上手になった。
そのときふと、刺すように鋭い視線を感覚した。視線の先には、チラーミィを抱いたままにこにこ笑うクダリさんの姿。
「じゃあ、ぼくがのお手伝いしてあげる!」
「……いえ、仕事なら間に合ってますけど…」
「そうじゃなくて! この子、リリスの面倒みるの、手伝ってあげる」
なんと! それは願ってもない申し出である。わたしとこのチラーミィとでは面倒を見るどころか、厄介な火種を抱えることにしかならなそうな予感がひしひしとしていたので、クダリさんの言葉はまるで天国からのデンチュラ、いや蜘蛛の糸だ。
「えっ、でも、お仕事だいじょうぶなんですか?」
「だいじょーぶ! …だよね、ノボリ?」
「クダリの働き次第でございますが、まあ、問題ないでしょう。面倒を見ると言っても、卵を抱えて歩き回る必要があるわけでもございません」
「…! ありがとうございます、すごく助かります」
――と、勢いよく頭を下げたまではよかったのだが。
次の会議資料の配布がてら、リリスの様子見のためにサブウェイマスターの執務室を訪れて、わたしはその光景に頭を抱えればいいのかライブキャスターを構えればいいのか土下座すればいいのかライブキャスターを構えればいいのか、わからなくなってしまった。……逡巡の後、とりあえずライブキャスターを構える。
だって、机について書類を片付けているクダリさんのひざの上で、チラーミィはしっぽをお腹に丸め込み、すよすよ寝息を立てている。割合、クダリさんのひざの上でお昼寝していることの多いバチュルはチラーミィに居場所を奪われたようで、デンチュラと一緒にソファの上に寄り集まっていた。ちらりと目をあげたデンチュラが 「ちょっと姐さん、あれどうなってんです?」 とわたしに目配せしてきた気がするのは、考えすぎだろうか。
「あ、あの、…クダリさん、それ…」
「、ごめん。あとちょっとで確認おわる」
「いえ、資料持ってきただけなんでだいじょうぶです……じゃなくて、クダリさんこそ、だいじょうぶですか?」
「? なんのこと?」
「リリスですよ。…お仕事の邪魔になってるんじゃ、」
クダリさんは、わたしのそのセリフを受けて視線を自身のひざに落とした。ちら、とわたしを上目遣いに見上げて、含むようにくすりと笑う。手袋をしたままの手がチラーミィの耳の後ろあたりを優しくなでて、彼女は眠気にとろりと目をとろけさせたまま、まるでもっととねだるようにその手に体をすり寄せる。
「…なんかもう、メロメロって感じですね」
「うん、ぼくもうメロメロ」
「相思相愛ってやつですか」
「ううん、まだぼくの片想い」
「………リリスの話してるんじゃないんですか?」
「さあ? どーだろ」
顔をあげたチラーミィに、クダリさんが 「ね?」 と小首をかしげる。彼女は物言いたげにクダリさんを見返したあと、拗ねたような顔つきでその場にまるくなった。その際、愛らしい姿に似合わないひどく鋭い目つきで、なぜかわたしが睨まれた気がする。何もしていないわたしが、なぜより一層嫌われねばならないのか理解に苦しむが、その意味の分からなさにわたしが首をかしげると、やれやれとばかりにルクスやデンチュラたちが首を振る。……最終的に、なぜわたしがポケモンたちに呆れられなければならないのか、さっぱり理解できない。なんかわたし、悪いことした?
「ただいま戻りました。……ああ、もいらしていたのですね」
開いたドアから姿を見せたのはノボリさんと、そのパートナーたるシャンデラだった。お疲れ様です、と声をかけると、バトル終わりでとても機嫌のよさそうなシャンデラがわたしの周りをくるくると舞う。改めて聞くまでもなく、この様子ならバトルは快勝したらしい。「楽しかった?」 と問いかけると、目を細めて鳴き声を上げる。鮮やかな紫炎がふわりと揺れた。
「ルクス、ノボリさんとシャンデラにきちんと挨拶を………、ルクス?」
ソファの上の、主に黄色で形作られたもしゃもしゃがびくりと揺れた。あたまの笠のようになっている部分に数匹のバチュルを積み上げ、ルクスはソファの背とデンチュラのあいだに埋もれている。…かくれんぼのつもりかなにか、なのだろうか。ランプラーの明るい紫の灯りは、黄色で覆い隠そうとしたところでものすごく目立つのだけれど。
「…彼は、具合でも悪いのですか?」
「いえ、そんなはずないんですけど…。ルクス、何してるの? ほら、出てきて」
二本の腕であたまを抱えるようにしてイヤイヤをするルクスは、デンチュラの背中に隠れたままだ。ついさっきまで楽しそうに遊んでいたくせに、しかもせっかくノボリさんのシャンデラがいるというのに、一体何がどうしたというのだろう。ヒトモシの頃なんかは、彼女に遭遇すると嬉しそうに後をついて回って、なかなかボールにすら戻ろうとしなかったのに。
「なになに? どしたの?」
チラーミィを抱えたままのクダリさんが、ソファの後ろからひょこりと顔をのぞかせた。わたしが説明しようとするのを手で制し、鼠色のひとみがデンチュラに埋もれるルクスを見て、ノボリさんの肩口にするりと腕を伸ばしたシャンデラを見て、またルクスを見て、と視線を往復させる。やがて彼は何事かに気付いたように、それはそれは楽しそうににんまりと笑った。嫌な予感、というわけでもないのだけれど、ルクスがぎくりとしたらしいのがなんとなく伝わってくる。
「ねえ? ルクスはさ、ランプラーで進化止めちゃうの?」
「いえ、できればシャンデラまで進化させたいと思ってますけど…、なんでですか?」
「うーん、もしかしたら、その予定ちょっと早めてあげた方がいいかも」
ね、ルクス?、とクダリさんが小首をかしげる。
――すごい。表情は天使なのに、雰囲気が悪魔だ。
「男の子としてはやっぱり、好きなコに見合う自分になりたいよねえ。うん、ぼくもその気持ちすっごいわかる!」
「……?」
「クダリ、貴方さっきから一体なんのことを、」
「あれ、まだ気付かない? ルクスはさあ、ノボリのシャンデラのことが、」
続くセリフは、クダリさん自身の悲痛な声にかき消されて霧消した。あたまに一匹のバチュルを乗せたままデンチュラの背中から飛び出してきたルクスが、ぶるぶると震えながら腕でばしばしクダリさんの頭を叩きまくっている。わたしは彼に はたく とか覚えさせた記憶はないのだけれど、それにしては堂に入った腕の振るい方だ。というかルクスよ、お前なんか赤くなってないか?
「ちょっ、わかったわかった! もう言わないってば、ごめん!」
ごめんという割に楽しそうな笑顔で、クダリさんが両手をあげた。ルクスは真っ赤になって両手を振り上げ、ことによっては れんごく とか仕掛けそうな具合だが、対するクダリさんは子どものように目を輝かせてにこにこしている。腕に抱えられていたチラーミィは我関せずといった様子で、素早くクダリさんの肩に移動して耳元に体をすり寄せていた。
「言ったりなんかしない。…だって、ちゃんと自分で、気持ち伝えたいもんね?」
わかるよ、とクダリさんは目を伏せながら静かに言い、ルクスに向かって手を伸ばした。シュン、とうなだれたルクスが、するするとクダリさんの手にすり寄る。
「……へええ、珍しいこともあるもんですね…」
「……まったくでございます…」
彼らの不仲は、ギアステーション内でひどく有名な話である。
「ところでノボリさん、あのひとたちが何の話してるのかわかります?」
「それがさっぱりでして」
ですよねえ、と首をかしげるわたしとノボリさんを後目に、クダリさんの肩のチラーミィが馬鹿馬鹿しいと言わんばかりのあくびを漏らした。
わたしに対してのみ愛嬌のかけらも振りまくことなく、チラーミィはギアステーションまで引き取りに来たトレーナーに連れられて帰って行った。マスターたる彼女も、リリスの性格については難儀していた節があるようで、いろんな意味で大変だったはずだと重ね重ね礼を言われてしまった。…まあ、最終的に白のサブウェイマスターの腕に抱かれてご機嫌麗しいリリスと再会したときには、彼女はいよいよ土下座せんばかりの勢いで頭を下げ、それはもう見ているこちらが気の毒になるほど恐縮しきっていたのだが。
「かわいかったなー、チラーミィ。ころころしてた!」
彼女らと別れ、書類の受け取りもかねて執務室に戻ると、こちらもまたご機嫌麗しいクダリさんがにこにこして言った。いくらノボリさんにも問題ないと判断していただいたとはいえ、少なからずクダリさんの時間を削ったはずである。にも関わらずそんな風に言ってもらえると、頼んだ人間としては本当にありがたい。
「本当にありがとうございました。なんとかなったの、クダリさんのおかげです」
「ほんと? ぼく、のお手伝いできた?」
「お手伝いっていうか、ほとんど任せきりでした。すみません」
「ううん、ほんとに楽しかった。だから気にしないで!」
頭を下げたわたしを覗き込んで、クダリさんが笑う。その鼠色のひとみに映るのが、本当に満足そうな光ばかりであることに、なんだかいっそ感動してしまった。だって、わたしがクダリさんの立場なら、頼まれれば断りはしないかもしれないが、絶対面倒くさがってた。厄介なことに巻き込まれた、って顔していたに違いない。まあ、だからこそわたしはわたしで、クダリさんはクダリさんなのだろうと思うのだが。
気を取り直すように一息つく。そして、少し前から頭に浮かんでいた言葉を口に乗せた。
「お礼がしたいんですけど、なにか希望とかないですか?」
「…お礼? なんで?」
「本当に任せっきりでしたもん。わたしの自己満足みたいなものですから、遠慮なくお願いします」
ぱちりぱちりとクダリさんがまばたき。しばらくの間、あごに手を当てて逡巡していた彼は、やがてぽつりと言った。
「
――…じゃあ、今日いっしょに帰ろ?」
「……はい?」
「今日、もう帰るでしょ? ぼくももう終わり! …だから、をおうちまで送らせてくれるのが、ぼくへのお礼」
―――…いやいやいやいや。
いやいやいやいや、何を言ってるんですかこのひと。なにその出来損ないのイタリア人みたいなセリフ。いや、元の世界でもイタリアの方と面識なんてなかったから、完全に雰囲気だけで言ってますけども!
「…や、一緒に帰るってのはクダリさんがそれでいいなら全然かまわないんですけど、でも、クダリさんのほうがここからご自宅近いんで、わたしがお送りしますよ」
そう言ったわたしを見下ろす、クダリさんの目の冷たさといったら。
「はーあ…、ほんとわかってない! それじゃ意味ないから言ってるんでしょ!」
「そう…なんです?」
「そうなの! だからきがえたら職員出入り口に集合! わかった!?」
「イエッサー」
ぴしりと敬礼して言うと、クダリさんがおかしそうに笑った。わたしは受け取った書類を小脇に抱え、着替えてきます、と挨拶する。
クダリさんは傍目に見てそれとわかるほどまったく本当にご機嫌で、その雰囲気にあてられたからとでも言えばいいのか、わたしはついうっかり言葉をこぼしていた。内容を頭できちんと吟味する前に、ぽろっと。ドアノブを掴もうとしたところで、わたしはクダリさんを振り返る。
「でも、ちょっと予想外でした」
「うん? なにが?」
「お礼です。“送らせてくれればいい” なんて、そんな健気なセリフが飛び出してくるとは思いませんでした」
くすくす笑うと、けれどクダリさんは気分を害した様子もなく、「そーお?」 と首をかしげる。
「ぼく、どんなこと言うとおもってた?」
「そーですねえ……なんだろ、また “ぎゅってさせてー” くらいはおっしゃるかなあと」
瞬間、クダリさんが笑顔のままでぴたりと静止し、まばたきの向こう側で鼠色のひとみがぐるりと動いた。意志の強さがピンと張りつめ、鋭いまなざしで閃くひとみ。白い喉を、男性特有の凹凸がごろりと上下する。
急にどうしたんだろうと首をかしげるわたしの視線を受けて、静かにクダリさんが口を開く。
「……ぎゅって、してほしかったの?」
「はい? 違いますよ、そういうこと言ってるんじゃないですって。ただ、したいんだったらしても、」
しても
――…なんだ? 今、続けてなんて言おうとした?
ちょ、ちょっと待て、今のはおかしいだろ。「してもいいですよ?」 とでも言おうとしてたのか、わたしは。おいおい何をふざけたことを抜かすつもりですか。白のサブウェイマスターに向かって、一介の事務職員がなんだその上から目線! いや、まあそれも十分自意識過剰甚だしい妄言だし、今すぐ墓穴を掘って二度と日の光に当たりたくない気分ではあるが、そうではなく。
――したいって言われても、いいですよなんて言っちゃだめなとこだろ、これって。普通。
そういうことを割と軽々しく言ったり行動に移したりするクダリさんがだめとか、そういうことを言いたいんじゃなくて、わたしがそれを許可するのはおかしいでしょ。これまでだって、勝手にしがみついてくる分には放置していたこともあったけれど、わたしからどうぞなんて言ったためしはない。していい?と聞かれたら、止めてくれと答えてきたはずだ。しかも今回は別に、クダリさんからぎ…ぎゅってさせて、とか言い出したわけじゃないのに、何を勝手に先回りして 「いいですよ」 なんて。
……そんなの、まるで、
「
―――…ぎゅって、してもいいの?」
どくり、と鼓を打つ音が轟いた。胸の奥でまるで炎が猛るかのように心臓が焦げ、喉が焼ける。脳みそも沸騰したみたいに熱くなって、とても使い物になりそうにない。どろどろになった頭の中で “なんだこれ” と “ちょっと待って” がぐるぐるする。口の中が干からびて、唾を飲み下すこともできない。
「、」
「……っ!」
名を呼ばれて顔を上げると、手の届く範囲にクダリさんがいて思わず飛び上がった。反射的に後ずさろうとしたわたしの手をクダリさんが掴む。それでもなお距離を取ろうとした背中に壁が当たって、今度こそ完全に頭が真っ白になった。冷や汗が噴き出す。掴まれた手が燃えるように熱い。なんでこのひと、こんなときばっかり手袋してないの、やめてよ、ほんと勘弁して。その、何かを期待するような、何かに縋るような目もやめて、そういうの嫌だ。そういうのは欲しくない、要らない。いやだ
―――怖い。
「逃げないで」
静かな声音。駄々をこねる子どもに、そっと言い聞かせるような。
けれどその言葉の裏に、恐ろしいほどの熱量を持った懇願が見え隠れしていた。鼠色を染め上げる渇望の色、研ぎ澄まされた捕食者の牙。やさしく気遣うような眼差しと、食いちぎるような鋭い眼光にさらされて息が詰まり、肌が粟立つ。
もう片方の手が、わたしの頬に添おうとする。体を包む、ひどく純度の高い恐怖。
「おねがい、……逃げないで。ちゃんと考えて」
思わず顔をそむけた視界の隅で、クダリさんがぎゅっと手のひらを握りこんだのがわかった。その際、頬を少しだけ指先が掠め、反射的に体が震える。クダリさんが物言いたげにくちびるを結ぶのもわかったが、だからといってわたしに言えることも、できることもない。ただひたすら、この場をどうやって切り抜けるか、考えようとすることだけで精一杯だ。実際にはそんなこと、このとっ散らかった思考ではできるはずもないけれど。
「
――…ごめん。ぼく、おかしなこと言った」
ス、と持ち上がったクダリさんの手が、わたしの髪の上っ面をそろりとなぞった。上から下に、一度すべらせただけで離れていく。掴んでいた手も放し、ぱっと跳ねるように飛び退いて、そしていつものように小首をかしげて笑った。
「、さき帰っていいよ。ふたりで帰るの、こんどにしよ?」
気を遣われている、と自覚した途端、声も出なくなるほどの羞恥に襲われた。恥ずかしさと居たたまれなさが過去最高値を塗り替え、現在進行形で最高値を更新する。返事をしようと口を開くと、水分が足りないのか、口腔に響くねちゃりという嫌な音。……なんだこれ、ほんと勘弁してくれ。もういろんな意味で溶けて消えたい。
「…っだい、じょうぶです。だいじょうぶ、大丈夫ですから、」
「……でも、」
「ごめんなさい、でも、もうほんと、なんともないですから、」
なにがどう大丈夫で、大丈夫じゃないのか、自分でもさっぱりわからないけれど。
「…じゃあ、ノボリも誘っていーい? ノボリも、もう帰るころだと思うんだよね」
「
――…あ、えと…」
「今日ぼく買い物当番、ついでにノボリに荷物持ちさせる! ……も、手伝ってくれる?」
そう言ってわたしを覗き込むクダリさんは、にこにこと人好きのする笑みを浮かべているのに、やはりいつもと同じ、何を考えているのかわからない目をしていて、わたしはなぜだかそのことにひどくほっとした。何を考えているのかわからない、というのは不安要素にこそなれ、安心する理由になるというのは我ながら驚きである。初対面のころは、何を考えてるのかわからなすぎて嫌だ、とか言ってたくせに。自分の適当さが本当に情けなくなる。
「…じゃあ、あの、着替えてきます。職員玄関でいいんですよね」
「うん。またあとでね、」
振り返った先で、クダリさんが微笑む。ドアの閉まる寸前、笑顔を浮かべたままじっと動かずにいたクダリさんの口が、不意に動いた。何か言ったような気がしたけれど、閉まるドアに阻まれて、その声はわたしには届かない。
「待ってる」
ネタふり、および小悪魔チラーミィのニックネームは麦さんにご提供いただきました。ありがとうございました!
2012/05/27 脱稿
2012/05/29 更新