03/08(Fri)
reported by:clerk
少しの残業を終えてギアステーションの制服から着替え、女子更衣室のドアを閉めたときにノボリさんと出くわした。バトルトレインの運行はもう終わっているから、トレードマークの黒いコートは身に着けていない。しかし黒い制帽だけをかぶり、ワイシャツの袖を少しだけめくり上げた様子からするに、どうやらまだ彼の勤務は続くらしい。
おつかれさまです、と声をかけると、ノボリさんはわずかに表情をほころばせ、同じ言葉を返しながら会釈した。バカ丁寧というかなんというか、ご過分な心遣いである。
「まだお仕事ですかー、大変ですねえ」
「……少しも労わられている気が致しませんが、まあいいでしょう」
お、珍しい。手にしたファイルで、軽くあたまをはたかれるくらいはするかと思っていた。
「昨日はその、騙すようなまねをして、申し訳ございませんでした」
…ほほう? 朝、出勤してきてわたしを見るなり、踵を返して脱兎のごとく、その場からの逃走を図ったクラウドさんよりはまともな応対である。そんなクラウドさんには二週間先まで猶予のある仕事も明後日までが期限の仕事も、全部まとめて机の上に積んできたので、しばらくは机にかじりつきの日々が続くだろうが。さてわたしは何日分の仕事をこのひとの机に積めばいいのか、冷静に測らせてもらうことにする。
「ですが、ああでもしないと、はああいった場に来てくれないでしょう?」
「当たり前じゃないですか。誰が好き好んで話のネタになりに行くんです?」
「滅相もない! 話のネタにするつもりなど毛頭ございません。わたくしどもは真剣に、あの場を用意したまでのこと」
「……なおさらタチが悪いんですよ…」
吐き捨てるように唸っても、ノボリさんは素知らぬ顔である。いつもと同じ、くちをへの字に曲げた仏頂面。けれど目尻のしわはどこか優しげで、くちびるは結ばれているものの、口の端がわずかに緩んでいる。どうやらこちらもだいぶご機嫌ならしい、わたしは漏れる溜息を抑えられない。だって、申し訳ないなんて欠片も思っていないのが丸見えだ。
「ところでどうです? とりあえず婚約されてみては」
「げふっ」
なんだその 「とりあえず生中で」 みたいな婚約の仕方!
「いやいやいやいや。え、こっちの世界って、そんな適当に婚約していいんですか? なんらかの法的義務が発生するわけではなく?」
「……貴女の考える婚約の定義が民法でのみ定められていることはわかりましたが、少なくとも結婚式では “死がふたりを分かつまで” と誓っていただくのが通例です」
「普通に重いじゃないですか、全然とりあえずで済むような話じゃないですよねそれ」
あの弟にしてこの兄ありだ、なんだこの双子。わたしの人生を一体なんだと思っていやがる。
別に結婚に対して夢も希望も抱いていないし、結婚自体を希望しているわけでもないので、どうでもいいといえばどうでもいいのだけれど、“とりあえず” で売り渡すのも倫理上どうなんだとは思うわけで。向こうがいいならそれでもいいけれど、将来有望な殿方にわざわざ×をつけるような真似はしたくない。
「初めはとりあえずでも、それから後のことは誰にもわかりませんでしょう?」
「……そーですね。三日くらいで別れたくなるかもしれませんしね」
「………から見て、あの子はそんなに魅力に欠けますか?」
手袋をしたままの手を口元に添え、わずかに首をかしげるノボリさんのこの仕草が、クダリさんのそれのように少しでも狙ったものがあるのなら、わたしにも対応のしようがあるのだけれど。自分の仕草や表情が他人にどう見えるのか、理解しすぎているのもどうかと思うが、まったくもって無頓着なのもどうかと思う。厳密に比較すれば、後者のほうが厄介な気がする。どんぐりの背比べ、目くそ鼻くそを笑う程度の差で。
「いや、クダリさんがすごく魅力的なひとだってのは、わたしだってわかってますけど…」
「ならばよろしいではありませんか!」
「いやだから、それはノボリさんを魅力的だなって思うのと大差ない感じですから。わかります?」
「…………っ」
「ちょっと、なんでこのタイミングで照れるんですか。勝手に口説かれないでくださいよ」
「も、申し訳ございません! …っその、少々、予想外だったもので、つい…」
制帽を前に傾け、さらに抱えた書類でも顔を隠しながら耳まで真っ赤になられても困る。非常に困る。これじゃまるでわたしがノボリさんを落とそうとしているみたいじゃないか、というかこのひとのツボ浅すぎやしないか大丈夫かこれ。これでよくここまで(何度だって言うがもうすぐ三十路)食いものにされず生きてこられたな。逆にすげえ。
傾いた制帽をかぶりなおし、片手をうちわに見立ててはたはたと自分の顔に風を送りつつ、ノボリさんはコホンと気を取り直すように咳払いした。まだ全力で鉛色のひとみは右往左往しまくっているが、ツッコんで逃げられても厄介なのでどうにか堪える。
「ふう…。こんなところをクダリに見られでもしたら、とんだ修羅場に発展するところでした」
「ちょっとやめてくださいよ。ただでさえ面倒くさいのに、一卵性の双子に取り合われるなんてただの拷問じゃないですか」
「おや、そういうシチュエーションを好まれる女性は多いものだと思っておりましたが」
これは意外ですね、みたいな顔されるのもなんとなく微妙な気分だ。もしかしてこのひとも、これまで割と面倒くさい感じの恋愛しかしてこなかったのかもしれない。…いや、恋愛それ自体からはるか遠ざかっていたわたしに言えた義理ではないが。
「他人事ならおもしろいと思いますけどねー。当事者になるのは御免です」
「なるほど、らしい」
そう言って、ノボリさんはくすりと小さな笑みを浮かべ、ご自分の腕時計に視線を落とした。ほんの五分、十分程度の立ち話ではあったが、申し訳なさそうにノボリさんの眉が下がる。
「申し訳ございません。ご帰宅のところをお引き留めました」
「いえいえ。ノボリさんの、実に興味深いお顔も拝見できたことですし、問題ありません」
「…………………」
「では、お先に失礼させていただきますー」
どこか不服そうな、ノボリさんの 「…お疲れさまでございました」 という言葉を背に受け、ドアの前に立ったときだった。それまで考えてもみなかった思いつきがふっと頭に浮かんで、知らず足が止まる。この疑問を投げかける相手が近くにいることはわかっているのだが、答えを聞きたいような、聞かないでいたほうがいいような、即座に判断しかねるこのもやもや具合。
「…? どうかされましたか?」
別れの挨拶をしたのだから、上司がわざわざ見送りなんかしなくていいのに。律儀にわたしがドアの向こうへ消えるのを待っていたらしいノボリさんの声が聞こえて、わたしはつい振り返ってしまった。振り返ってしまったからには、その原因を口にしなければならないというわけで、
「あの、…………あ
――…やっぱ、なんでもないです」
やはり、聞かないほうがいい気がする。なんというか、返ってきた答えを聞くこともそうだが、この疑問を投げかけること自体が、わたしの首を絞めそうな感じがする。
じゃあ失礼します、と口の中でもごもご言ったわたしを、ノボリさんの鉛色がひっそりと覗くように見据えてくる。さすがにサブウェイマスターを務めるだけのことはある、眼差しの強さが他の追随を許さないというのは本当に兄弟そっくりで、わたしはよく似た色のひとみから逃げ出すべく背を向けた。下手にごまかそうとしたほうが抉り出される。三十六計逃げるに如かずだ。
「、」
おおう、振り返るの怖え。
「下らない心配している暇があったら、さっさとわたくしの義妹になってくださいまし」
「……っあの、なんか曲解されてるみたいなんで、訂正させていただきますけど、」
「おや、違いましたか?」
「…………………帰ります…」
「お疲れ様でございました」
おい、わたしは絶対いやだぞ、あんな古狸みたいな義兄ができるの!
職員用通用口から地上に出るまでの間、わたしはガツガツ音を立てながら歩き続け、ようやく外に出たころ足を止めた。恥ずかしいやら居たたまれないやらとりあえず一発ぶん殴らせてくれやら、様々なことが頭をめぐってここらで一声叫びだしたい気分だったが、同じように家路へ着く人々の姿に思いとどまる。
見上げた空には、夜の帳が下りている。インディゴの染料で何度も何度も染め抜いたような夜空は、ライモンの街の華やかなネオンにいくらか気後れしているようにも見えた。記憶にあるそれのほうが広く深遠なものであったような気がするのは、ここが大都市であるためか、それともわたしの身長が伸びたせいなのか。見比べることなどできやしない。
夜空に向かって溜息をひとつ。白く凍った吐息の向こうにまたたく星を、わたしはしばらく見上げていた。
美味しそうにごはんをもりもり食べる人が好きです。
2012/06/03 脱稿
2012/06/05 更新