03/18(Tue)
reported by:clerk
「わたしと勝負よ!」
掲示物の貼り換えを行っていたホームに、少女の声が響いた。おいおい、バトルトレイン以外でのポケモンバトルは禁止事項ですよ。事が事なら止めに入らなければ、と思いながら振り返ったところ、なぜかわたしに向かって赤と白のモンスターボールが突きつけられている。ぷすん、と思考が止まる音がした。
「……落し物ですか」
どうにかして絞り出した言葉がそれだったのだが、元いた世界でいうところの、女子高生くらいの年齢と思しき少女の意にはそぐわなかったようで、差し出した手をぱしりと払われてしまう。綺麗に整えられた眉はいかにも不愉快そうに顰められており、採れたての白桃のように瑞々しい肌には不機嫌が色濃く浮かんでいた。キャラメル色のひとみに、強い苛立ちが湛えられている。
「わたしと勝負しなさいって言ってるの! さあ、ボールを構えなさい!」
いや、構えなさいって言われても…。
残念ながらわたしはしがない社会の歯車のひとつなわけで、今は絶賛その歯車としての役割を果たさなければならない時間帯なわけで、なによりポスター類を抱えたわたしの両腕はふさがっているし、ギアステーションの規則としてバトルトレイン以外でのポケモンバトルは固く禁じられている。そしてわたしは、ポケモントレーナーではない。バトルとかそういうの無理、ほんと無理。
おそらく普段は、同年代の友人らと語り合い、笑いあい、ころころと鈴の鳴るような声を奏でているに違いないのに、向けられた声音は軒下に連なるツララのように冷たく鋭い。彼女の背でゆるやかに波打つチョコレート色の髪と、ぷっくりとして淡いさくらんぼ色に色付いたくちびる、白いシフォンスカート(もちろんミニ)の裾からはメブキジカのようにしなやかな脚がのぞき、うっかりありがとうございますの一言でも漏らしてしまいそうになるほど愛らしく、若さと自信にあふれた惚れ惚れする容姿を少女は晒しているわけだが、なにせ向けられた表情が険しい。ぐっと眉間に寄せられた眉と苛立たしげに眇められたひとみが、わたしへの敵意をあらわにしていた。
「…来ないならわたしから行くわよ! おいで、ランクルス!」
ボールから飛び出してきた少女のランクルスは、まるでいななくように鳴き声を上げ、相手はどこだと言わんばかりに首をめぐらす。半透明なミントグリーンのゼリーのなかで、ぱくぱく開け閉めしている口が見えた。
「あの、お客様、ギアステーションではバトルトレイン以外でのバトルは禁止されておりまして、」
「そんなことわかってるわよ!」
えええええ。わかってるなら仕舞ってよおおお。
「でもあなた、何度挑戦したってバトルトレインで見かけないんだもの! それとも、スーパーをメインに乗車してるの!?」
「いいいいえ、あの、わたしは鉄道員ではなくただの雑用係なので、バトルはしてなくて、」
「だったら、ここで戦うしかないじゃない!」
ええええええええ、なにそれどういうことなの意味わかんないいいいい!
わたしの違和感を察知したらしいランクルスのつぶらな瞳が眇められ、それが怯懦へ、そしてわたしへの敵意へと変換される。カタカタと震える腰のモンスターボールを、わたしは押しとどめるようにぐっと掴んだ。わたしを守ろうとしてくれる彼がいることで必要以上の恐怖を感じずにいられるが、ここで飛び出してこられるともう収拾がつかなくなる気がする。しかもバトルなんぞに発展されたところで、的確な指示なぞ飛ばせやしない。無駄に傷つくこの子など見たくなかった。
「いやあの、バトルとかほんとわたしそういうのダメなんで、」
「なによ! ボール持っててしかも鉄道員さんの制服着てるくせに、バトルがダメなんて信じられるわけないでしょ!?」
んだとこの小娘、だったらこんな制服なんぞ脱ぎ散らかしてやろうか。
まあ確かに、この年代の若い女の子は思い込んだら一直線な節が見受けられがちというか、周囲のことも自分のことも、割と簡単に視野から外してしまいがちだが、それにしたって。若さってすげえなあ、と心から感嘆するとともに、おいおい勘弁してくれよとも思う。というかわたし、ポスター貼りの仕事してるときの絡まれ率異常だなおい。
「もういい、話してても埒が明かないわ! いくわよ、ランクルス!」
「(……やばっ、)」
――このタイミングで、ボールが手から滑り落ちるとかほんとなんなの、切羽詰まったときのわたしの使えなさってどんだけひどいの。ボールが滑るほど冷や汗かいてる状況って何。
迫りくるランクルスとホームに転がるモンスターボールをぼんやりと眺め、あ、もうどーでもいいや、と思考を投げ槍の要領ではるか彼方へ放り投げたとき。視界に割り込んできたのは、割と見慣れた銀色の、かみ合った歯車のようなボディが特徴的なポケモンだった。
「
――…っギギギアル、まもって!」
おお、「効果はいまひとつのようだ」。
わたしの代わりにランクルスの技を受けてくれたギギギアルが、わたしを間近に見下ろしてにこにこ笑う。わかってますよ、明日あなたにお礼の品を持ってきて差し上げますとも、と微笑んだわたしの耳に、カツカツと革靴が立てる悪魔の足音。……うわこれすっごい怒ってるわ、顔っていうか影すら見えなくてもわかるわこれ。うわこえぇー…。
「…、」
「はい」
「いまぼくがなに考えてるか、わかる?」
「あー…薄らぼんやりとは」
「ふーん。じゃあどうするの」
「……すみませんでした…」
「ちがう。ぼくのほう見て」
心配そうなギギギアルの視線だけが救いである。肺の空気をすべて押し出すつもりで、しかし背後のそのひとに筒抜けにならぬようゆっくりと長く息を吐き出していたところ、再び名前を呼ばれる。今度こそ声に苛立ちが滲んでいた。なんだったら舌打ちでもしそうな勢いである。
「………あの…ほんと、すみませんでした…」
振り返ってもう一度、謝罪の言葉を口に乗せるが、白い革靴の貧乏ゆすりは止まらない。
「なにがすみませんなの」
「…えっと、ボスのお手を煩わせたことについて、」
「ちがう」
「……あ、じゃああの、バトルトレイン以外でのポケモンバト」
「ちがう」
「………ご連絡、差し上げるタイミングがなくて、その、」
「…できなかったんならしょーがないよ。それもちがう」
「…………あー…わ、わたしのどんくささについて?」
「ちがう」
「……………あ…、あきらめた、こと、ですか」
返ってこない返事に、足元に落としていた視線をちら、とあげると。
クダリさんは、笑っていなかった。眉がぎゅっと顰められ、目元にも強い力が入っていることがぱっと見ただけでうかがえる。噛みしめているのか、くちびるもかたく引き結ばれていて、もともと白磁の器のような肌色をしているひとだが、今は蒼白というのが最も正しいように思えた。
結ばれたくちびるが震えている。怒りにまかせて怒鳴りたいのをぐっと耐えているようにも見えたし、泣き出したいのを堪えているようにも見えた。とても見ていられなくて視線を落とすと、握りこまれたこぶしがクダリさんの体の横で小刻みに揺れている。耳を澄ますと、はめられたままの白手袋がきしきしと悲鳴を上げる音すら聞こえる気がした。
―――やっちゃいけないことをしたんだと唐突に理解して、その途端、鈍器でぶん殴られたような痛みが背骨を駆け抜けた。心臓が鼓を打つたびに痛みがはしって、どくどくと血液の流れる音しか聞こえなくなる。喉の奥で呼気が詰まる。視界がゆがむ。
「…あ……ごめん、なさ、」
くっ、とクダリさんの喉仏が上下するのが見えた。赤と緑と青の光を重ねあわせるとそこに白が生まれるように、いろんな感情をごちゃまぜにした結果、能面みたいな無表情しか浮かべることができなかった、そんな顔。感情を灯さない鼠色のひとみがわたしを一瞥し、スッと逸らされる。
「もう、いい」
クダリさんはそれだけ言うと、手元のモンスターボールをギギギアルに掲げ、彼を戻した。ランクルスの纏うゼリーの向こうに少女を見据え、「はなし聞かなきゃだから、キミも来て」 とそれだけを口にする。いつもにこにこ笑っているクダリさんが笑みを消し去っているのだ、その異変は少女にも伝わったらしく、彼女からの返答はわたしの耳には聞こえなかった。クダリさんが踵を返す。
「………っあの、」
少女を伴って歩き去ろうとするクダリさんのコートの袖を掴んだが、言葉がかけらも続かなかった。ひくりとひきつる喉から漏れたのは吐息ばかりだったし、言うべき言葉も浮かばない。でも何かを伝えたくてクダリさんを見上げたが、鼠色はただひんやりとして、わたしを映すだけだった。よく手入れのされた銀食器のように、ただ、映し出すだけの
――…、
「離して」
震える指の隙間から、するりとコートの感触が離れていく。遠ざかっていく白い背中を、わたしは茫然と見送ることしかできなかった。
「
――それはクダリじゃなくたって、怒りたくもなるというものです」
隣の席から返ってきた言葉に、わたしは溜息をつく。このまま手元にある書類の山に頭を突っ込んで 「ばーかばーか、ノボリさんのばーか!」 とか叫びたい心地だったが、やったら精神的に殺されかねないうえ、さらに書類を積まれそうな気がしたので無理やり飲み込む。「、手が止まっておりますよ」 という姑のような注意にも律儀にハイと返事をし、わたしは職務に取り組んだ。心の中であっかんべーするくらい許してほしい。
ホームで茫然と立ち竦んでいたわたしに声をかけたのはノボリさんで、事情を聴かれるのかと思いきやサブウェイマスターの執務室に連れ込まれた。いやーん何すんですかえっちー、とか一応言ってみるだけ言ってみたのだが、ぜったいれいどな視線を浴びたのでもう二度と言うまいと思う。そこで指示されたのは、件の少女から事情を聴くために時間を割かれることになった、クダリさんの仕事の処理を手伝えという内容で、わたしはもう一時間近くクダリさんの席に座って書類整理とバトルデータの解析をさせられ続けている。しんどい。なにがしんどいって、割とおしゃべりな兄さんがほんとしんどい。
「そもそも貴女という人は………? 聞いていますか、?」
「聞いてますよ聞いてます! ただ、今ちょーっとややこしいデータいじってるんで、思考が完全に仕事に向いてるだけですからお構いなく!」
「…聞いていないということでございますね…」
ちょ、なんでわたしが、そんな (´・ω・`) みたいな顔されなきゃならないんだ、納得いかない!
「……ノボリさんってあれですか、割とおしゃべり好きなほうですか」
「はい! 皆様とお話しさせていただくことは、大変刺激になりますし、参考になることも多々ありますので。…しかし、わたくしは少々人見知りのきらいがありまして、クダリのように親しく話をさせていただくようになるまでにいくらか時間を要するのです」
なるほど、わたしが派遣社員として勤めていたあの一年間、あなたはチョロネコをかぶっていたと、そういうわけですか。
しかもクダリさんの件がある。わたしがノボリさんと親しくさせていただいているという意識以上に、ノボリさんのわたしに対する気安さが進行していても不思議ではない。…不思議ではないが、気安さが全く本当に文字通りの “気安さ” で、いよいよ身内じみてきたことに恐怖を感じないこともないのだが。
「しかし、貴女の投げ遣りな態度は、本当に根が深いのですね。大怪我をするかもしれないというタイミングで発動するなんて、わたくしからも一言ご忠告申し上げたくなります」
しかしその分、心配そうな声音や本気で諌めてくれようとする言葉は胸に直接響く。わたしはこの一時間でもう何度目になるのか知れない謝罪の言葉を、再度口にした。
「まあそれでも、クダリの態度については、八つ当たりという面も多かれ少なかれあるとは思うのですが」
「…八つ当たり、ですか」
「ええ。以前クダリが貴女に言った、『あきらめないで』 という言葉がいまだに受け入れられていないことに、あの子は勝手に落胆しているのです」
まるで子どもが駄々をこねるようにクダリさんがその言葉を発したのは、わたしがデンチュラとの友愛を育みはじめた日のことだから、…えっと確か、わたしが異世界の人間であることをこのひとたちに打ち明けた日だったはずだ。そうそう、臨戦態勢のデンチュラにびびってわたしが勝手に池に落ちたとき。そういえばお風呂まで借りちゃったなあなんて、記憶を少し掘り返す。
しかし、それが落胆につながるとはどういうことだろう。わたしにはよく分からない。
「先日、クダリは貴女に告白を致しましたが、それ以前から貴女に想いを寄せておりました。…これはお気付きでしょう?」
「……はあ、まあ…なんとなく…」
「想いをようやく理解してもらえたと思った矢先に、今回の件です。一年以上も前に伝えた 『あきらめないで』 という言葉と同様に、自分の想いも受け入れられないのではないかと、勝手に想像して勝手に落胆しているのですよ、あの子は」
「…でも、それとこれとは、話が全然ちがうじゃないですか」
「ええ、冷静に考えればそうなのでございます。ですから、そのように気に病まれる必要はありません」
気に病む必要はないなんて、そんなこと言われても
――。
だって、引き金を引いたのは間違いなくわたしだ。わたしのあの態度は怒られて然るべきだと思うし、むしろそうやって怒ってくれるひとがいるというのは、とんでもなくしあわせなことなのだとわかっている。どうでもいい、取るに足らないと思っている人間に怒りをあらわにするほど、このひとたちは暇じゃない。
「(…あんな…顔色変わるほど怒られたの、生まれて初めてだし…)」
「しかしには、このほうが都合がよろしいのではございませんか?」
「
――…え?」
「クダリを後押ししているわたくしが言うのもなんですが、には現段階において、あの子と交際を始める心づもりはないのでしょう?」
やたら “現段階において” という言葉に力がこもっていた気がするが、まあいい。そのつもりですけど、とわたしはぼそぼそ答える。
「しばらくはクダリも貴女にちょっかいをだしに行くことはないでしょうし、もしかしたらそうしている間に、すべてなかったことになるやもしれません。その方が、貴女にとっては都合がよいのでは?」
―――…言われてみれば、そう、…なのだろうか。
この一時間、露ほども思いつかなかった発想ではあるがなるほど、言われてみればその方が都合がいい気がする。だってクダリさんに応えるつもりはないし、もし今のままでいられるのならそれがいい。今のままがダメで、昔に…それこそ、派遣社員として仕事を始めた最初の一か月のような、友人でもなんでもない、ただの上司と部下という落としどころにするしかないというなら、それもしょうがないと思う。クダリさんが望むなら、それも致し方ないと
――…、でも、
「…しかしまあ、クダリが心からの身を案じていたことは事実です。その点だけでも、もう一度謝罪してみてはいかがです?」
それでもクダリがへそを曲げているようでしたら、器の小さい男だと放っておいてくださいまし。
続けて告げられた言葉に、わたしは返事ができなかった。だって、クダリさんはへそを曲げてあんな態度をとってるんじゃなくて、わたしを心配して、それで怒って、呆れてるわけで、器が小さいなんてそんなこと思えるわけがない。わたしが言わなきゃならないのは、心からの謝罪と、そして感謝の言葉であるはずだ。
でも、クダリさんをよく知る、ノボリさんがそう言うのなら、しばらく距離を置いたほうがいいのだろうか。変にすり寄ったりしたら、ご機嫌伺いだとか、こんなときばっかりとか、そういう風に思われるだろうか。でも、放っておくなんて、そんなことしたらもう二度と、
「…、どうかしましたか? 手が止まっておりますよ?」
「
――…っあ、はい、すみません…」
いつのまにか膝の上でぎゅうっと握り合わせていた手を無理やりほどき、キーボードの上に並べる。けれどディスプレイに浮かぶ文字は今のわたしにとって記号の羅列でしかなく、欠片だって意味を伴ったものとして認識できなかった。意識があちらこちらに飛び散りすぎて思考にも作業にも集中できず、もう腹掻っ捌くか頭かち割りたい気分だった。ばくばくとうるさい心音にだけ注意が添う。
「
――――…!」
「……っ!」
だから、ほとんど怒鳴りつけるように名前を呼ばれるまで、声を掛けられていたことに気付かなかったし、しかもそれがこの席の本当の持ち主だとわかったときには息が止まった。反射的に立ち上がろうとして、机の引き出しの裏側(青い猫型ロボットと小学生たちが、時を行き来するあの引き出し)に膝をしたたかにぶつけ、痛みのあまり悶絶し、声を堪えようとして背中を丸めたら今度は机の天板に額をごちんと打ち付けて書類の山に雪崩を引き起こした。……これ以上の失態があるだろうか。もう言葉も出ない。
「……だいじょぶ…?」
机の向こう側から心配そうに手元を覗き込んでくるクダリさんを手で制し、わたしはよろよろと立ちあがった。この席で仕事をするべきひとが帰ってきたのだからわたしはこの場を辞するに決まっているが、この惨状ではどうしようもない。手伝ってくれようとするそのひとをまた手のひらで制して、わたしは崩れた書類の山を整理し、ふらふらと扉へ足を進めた。ちょっとだれかにこおりタイプの技かけてもらおう。一回あたま冷やさないとだめだこれ。
「ち、ちがうの、待って!」
取られた手を振り向きざま思い切り振り払ってしまい、今度こそ血が凍った。うわあああ脊髄反射こえぇえええ! こんなことするつもりは全然なかったのだがしてしまったものはしてしまったのであって、「違うんですあのそういうつもりじゃなくって、」 なんて言って 「じゃあどういうつもりだったの」 とか聞かれようものなら脱兎のごとく逃げ出すしかないし、うわうわうわやばい、どうしよう本当にやばい。隕石とか落ちてこないかな、今このタイミングで、ここに。
「……あ…、すいませ、」
どうにかそれだけ絞り出すと、振り払われた手をぽっかりと宙にとどめたまま、クダリさんがゆるゆるとわたしを見た。真ん丸に見開かれた鼠色のひとみにはただ純粋な驚きだけが浮かんでいて、薄いくちびるの間にできた隙間をそのままに、唖然呆然といった表情でわたしを見返している。
わたしは視線を逸らした。失礼します、という言葉の代わりに頭を下げたところで、言葉が降ってくる。
「………さっきの、あの女の子が、…っきみと、話したいって言ってるから、その、」
「…はい。応接室、ですよね」
「うん……」
じゃあ失礼します、とそれだけ言って、わたしはクダリさんの顔も見ずにすたこらさっさと逃げ出した。三十六計逃げるがなんとかだ、負け逃げという新しいジャンルを確立していく決意を胸に。