04/09(Wed)
reported by clerk
わたしがそう言うと、そのひとは目玉がぽろりと零れ落ちてしまいそうなほど目を真ん丸にして、ぱちりぱちりと瞬きをした。口元は綺麗な逆三角形を描いていて、見慣れた笑みの形を一応とってはいるのだが、笑顔というよりは唖然としていると言った方が表現としては適切だろう。今ならそのぽっかりと空いたくちびるの隙間に指とか鉛筆とか突っ込んでも怒られない気がする。…はたと気づいたそのときに、食いちぎられる気もするが。
窓の外から降りしきる雨の音が聞こえた。白いカーテンが夜風に踊る。
「……な、なに? 今、なんて言ったの…?」
「ですから、わたしとセッ 「わああああああああ!」
言うが早いか、クダリさんの両の手のひらがまるでバツ印を描くように重ねられ、わたしの口をぱっくりと覆い隠す。くちびるに触れている手が熱い。腕一本分の距離にいるクダリさんの顔が、茫然から驚愕、そして羞恥へと見る見るうちに塗り替えられ、まるでくるくると切り替わる列車の発車信号のようだった。ダルマッカのように真っ赤になったクダリさんが、わなわなとくちびるを震わせる。
「お、女のコがそーゆーこと軽々しく言っちゃダメ! てかなに考えてんの!?バカなの?バカでしょ? ってなんでそう、
――…っ!」
ひとが喋れないのをいいことに、クダリさんがお兄さん直伝のお説教モードに入ろうとしたので、わたしは薄く開けたくちびるの間から舌を伸ばしてその手のひらをぺろりと舐めあげた。話を無理やり逸らそうったってそうはさせない。こっちだって背水の陣なのだ、なあなあで終わらせるつもりはない。
ぴゃっとクダリさんが跳ねた。ものすごい速さで口元に押し付けられていた手が引かれ、ソファに座ったままずりずりと後退する。赤いペンキをぶちまけたように真っ赤になったクダリさんの目には、うっすらと涙すら溜まりはじめていた。羞恥と困惑が一秒ごとに切り替わっていて、どういう表情を浮かべたらいいものかわからなくなった挙句、どうやらこのひとは口元を真一文字に引き結ぶことで決着したらしい。クダリさんでもなければノボリさんでもない、知らない人間がそこに転がっているように見えて、思わず笑ってしまった。
「…っな、にが、おかしいの…!」
「……いいえ、別に? 経験豊富に見えて、案外初心なんだなあと思っただけです」
涙目でにらまれたところで、欠片も怖くなどない。開けられた距離を詰めるために身を乗り出すと、クダリさんは息をのんだ。忌々しそうに眇められた鼠色が、主権を取り戻そうとするようにわたしを貫く。
「…っあのさあ、いまこの家、ぼくとしかいないの、わかってやってる? ぼくのことからかってるの?」
声音に滲んだ苛立ちが、しかしわたしの優位を感じさせてくれるような気がした。口の端をゆがめて薄く笑う。音もなく後ずさり続けるクダリさんを後目にわたしは片足をソファに乗り上げ、彼を四肢で囲うように腕をついた。ぎょっとしたように動きを止めた隙を見計らい、至近距離で彼を見下ろす。
「わかってますよ? クダリさんはついさっきまで通常勤務で、明日は休日のご予定。ノボリさんはついさっき夜勤に出られましたから、ご帰宅なさるのは早くて明日の午前中。…そうですよね?」
「……わかってるなら、なんでっ」
「なんでって。声とか聞かれたらやじゃないですか」
ノボリさんだって聞きたくもないでしょうし。
そう言うと、クダリさんの目元がカッと赤く染まった。しかしこのひとは、こんな当然のことをどうして改めて聞いてくるのだろう。しっかり防音してくれそうな部屋ではあるが、壁一枚隔てた隣で兄弟が…というのはいくらなんでも寝覚めが悪かろうし、こっちだって気を遣う。クダリさんのことだ、部屋に女の子を連れ込んだことなんて山ほどあるだろうに……ああなるほど、毎回ホテルか彼女の部屋使ってたのか。うん、それはあり得る。
「……何かんがえてるの」
「だから最初に言ったじゃないですか。わたしとしてください、クダリさん」
剣呑に眇められた鼠色の眼差しが、わたしの腕をつうと撫で上げる。白い喉の陰影が動いた。
「…なんで」
「いやあ、わたしだってもういい年ですからね。そーゆーことしたいって思うの、そんなに変なことじゃないと思うんですけど」
「なんでぼくなの」
「
――すきだからですよ。…以外にありえます?」
何かを言わんと薄く開いたクダリさんの口は、しかし何事も紡ぐことなくぱくんと結ばれた。くちびるの隙間から白い歯がのぞき、下唇を噛みしめて小さく震える。わたしはそれを、親指の腹でそっとなぞった。少しだけがさついた、男のひとらしいその感触。スラリとした体躯に跨るように体を寄せ、互いの吐息が混ざる距離に顔を近づける。
下唇を噛みしめたまま微動だにしない彼に、構わず自分のそれを重ねようとしたとき、クダリさんがぽつりと言った。
「うそつき」
ひどく冷静な声音。熱情に侵されているでもなく、冷え冷えと凍てついているわけでもなく、感情という色が少しだってうかがえない声だった。
「…なにがです?」
「がいま言ったこと、全部。ぼくがすきっていうのもウソだし、したいっていうのもウソ。……ちがう?」
「なんでそう思うんですか?」
クッ、とクダリさんは喉を鳴らして笑った。くちびるの端をほんのわずか吊り上げる様は、わたしを笑っているというより、自分自身を笑っているようだった。へにゃりと眉尻を下げた目元を片手で覆って、クダリさんが漏れる笑みを噛み殺すように吐息をつく。
「バカにしないで。
――…ぼくがのことをどんなに好きか、知りもしないくせに」
「…………………」
「わかるよ…、見てればそんなのスグわかる」
だって、好きなんだもん。そんなのわかんないわけない。
その声には、わたしを咎めたり、責め立てたりする気配は微塵もなかった。太陽が東から昇る理由を子どもに説明するみたいに、ごく当たり前のことを口にしているような安定感と、そっと諭すような穏やかさが混ぜこぜになっている。ひどくやわらかな声音。
わたしは脱力して、その場にぺたりと座りこんでしまった。…まあこの体勢で “その場に座り込む” つったら、クダリさんの下腹部に馬乗りになるということを意味するわけだが、なんかもうそういう気分でも雰囲気でもない。今度はわたしが、片手で目元を覆った。
もしかしたら本当にそういう感じになるかもしれないし、ならなかったとしても一発や二発くらいぶたれるかもしれない。下手したらせっかく得たこの仕事を失うことだってありうると、いろんな覚悟を決めて今日ここに来たのに。予想外に事が運ぶのはいいことなのか悪いことなのか、現段階では判断がつかなかった。ただ、一筋縄ではいかないひとだということを、再認識しただけのような気もする。
沈黙の隙間を縫うように、雨音が入り込んでくる。無音にならないのがひどくありがたかった。
「……はー…もう意味わかんない…」
「それはコッチのせりふ! なんでこんなことすんの」
うわこれ、本当のこと言ったらすっげえ怒るだろうなあ。そう思うから、わたしはシェルダーになる。
「どーせ、こうでもすればぼくがあきらめるんじゃないかとか、する代わりに好きって言うのやめてとか、そーゆーこと言うつもりだったんでしょ!」
「……『遊びならいいですけど、本気はむりです』 って言おうかなって…」
「そんなことだろうと思った! ほんっと、はぼくのことバカにしてるよね!」
むう、と頬を膨らませ、眉間にしわを寄せてクダリさんが器用に腕組みをする。への字に歪められたくちびるが、まるでノボリさんだ。わざとらしく茶化してみせてはいるものの、眼差しは鋭く表情は険しい。割と本気で怒っているときのパターンだ、うわめんどくせえ。…いや、悪いのは全面的にわたしだけれども。
「や、バカにしてるつもりはなかったんですけど…、」
「じゃあ、どういうつもりでこんなことするの」
ガッ、と脇腹を掴まれて変な声がでた。筆舌に尽くしがたい、なんか変な声。嫌な予感と共にさまよわせていた視線を斜め下におろすと、への字に歪んでいたくちびるがにんまりと見慣れた弧を描く。へーえ、とつぶやく声は新しいおもちゃを見つけた子どものようでもあり、獲物を見つけたバルジーナのようでもあった。体のラインをなぞるように、ツウと指が動く。
「、ココよわいんだ?」
「……………………」
セクハラですよ、と言い捨てられる立場にないことは重々理解していますですハイ。
「ひとつ聞きたいことあるんですけど」
「なあに?」
…っああもう、止まらない指が心底恨めしい。
「なんでわたしなんですか」
吐き捨てるようにそう言うと、指の動きがひたりと止まった。鼠色のひとみを逸らすことなく見下ろし続けると、にんまりとした笑みが薄れていく。毒気の消えた後に残ったのは、あどけない子どものような笑顔だった。わたしが纏う剣呑に、へにゃっと目尻を下げて笑う。
「わかんない。気付いたらこうだったもん」
「気付いたら、って…」
「だって、好きで好きになったんじゃないし。…もともと危なっかしいコだなーとは思ってたけど、でも気付いたらのこと目で追っかけるようになってて、そしたら今なにしてんのかなって思うようになって、他のひとじゃ足らなくなってた。いつからとかなんでとか、そんなのぜんぜん覚えてない」
わたしにとっての最大、かつ最重要問題をよくもコイツこんなあっけらかんと。子どもに食べ物の好き嫌いを聞いたときだって、もっとまともな理由が出てくるに違いない。こいつはガキ以下、わたしはハンバーグ以下かこのやろう。
そんなわたしの異論ありげな視線に気づいたのだろう、クダリさんはわたしを見上げる眼差しを不満そうに眇めた。なにがどうしてそんなに気に食わないのか、わからないことが気に食わない、そんな感じ。
「てゆーか、それをいうならがいけないんだと思う。…あんなさあ、ふいうちでこられたら防ぎようがないじゃん! 悪いのぼくじゃないもん!」
「……っだから、あれはそんなんじゃないって言ったじゃないですか! 何がっつり変な勘違いしてんですか」
「あーもーヤメテ、そういうのもアウト。もうぜんぜん照れ隠ししてるよーにしか見えない」
「はああああ!? 変な勘違いっていうか、妙なナルシシズムに酔いどれてんじゃねーですよちょっと!」
「ハイハイ、照れ隠しおつかれさまデース」
コイツまじぶん殴ってやろうか。この白い頬に赤い手形をつけたらそれはそれは気持ちいいことだろう、と思ったそばから、脇腹に添えられたままだった長い指がもぞりと動いて声が出た。腹巻きをしてくるべきだったと後悔してももう遅い、ニタリと笑みをのぞかせるクダリさんはただの悪魔だ。塩とか日の光に当てたりしたら、灰になって消える気がする。
はあ…、と溜息を一つ。ペースを乱されてはいかん、こんな話をしに来たわけじゃない。
「もうそのまま180度勘違いして、全部なかったことにはならないんですか」
「ムリ! もうあきらめて!」
即答だよ。しかもすげえイイ笑顔で言い切りやがったよこのひと。
「…てゆーかさあ、なんでそんななかったことにしよーとするの? ぼくのこと、そんなキライ?そんなにイヤ?」
そんなにキライでそんなにイヤなひとの腹になんぞ跨ってたまるか、と反射的に思ったが口には出さない。つーかわたしも、いつまでこんな恰好しているつもりだ。
ソファの背もたれに腕をつき、片足を浮かせてその場から退こうとしたところで、クダリさんの手がわたしの手首に触れた。肘をついて上半身を少しだけ起こし、距離を詰めるような態度をとるくせに、手首の拘束はひどくゆるい。力をこめれば簡単に振りほどけて、やめてくださいと言えばすぐに離れられる力で、わたしをそこに縫いとめようとする。
このあくまめ、とわたしは内心独りごつ。手首の内側をゆるゆると撫でながら、クダリさんは静かな声で 「こたえて」 と言った。
「
―――だって、わたし、この世界の人間じゃないんですよ?」
「前にきいた」
「意味わかんない嘘ついてんなとか、頭おかしいんじゃねーのとかって、思わないんですか?」
「別におもわない」
「…身寄りはないし、身元だってはっきりしないし、」
「ケッコンしたら、家族できるね。それにもれなく、お兄ちゃん付きー」
「…っ、い、いつ消えるかも、わかんないのに!」
ふっ、とクダリさんはくちびるを結んだ。ほんの一瞬、鼠色のひとみが揺れて、けれどまっすぐにわたしを見上げる。穏やかに凪いだ、湖面のような笑み。
「それで?」
「そ、それでって! 来るときが突然だったから帰るときだって突然で、あ、ある日いきなり、煙草のけむりみたいにふっつり消えるかもしれないんですよ!?」
「……ニオイ残るね?」
「そーゆーこと言ってんじゃねえんですよ、ちったあ空気読んでくださいこのあほ上司!」
思わず激昂するわたしを前に、クダリさんはくすくすと笑みをこぼす。ぜんぶを理解したうえで、わざとやって見せていることはわかっているが、それでもそのおちょくるような態度が癇に障った。わたしが本気で苛立ったことを感じ取ったのだろう、鋭く眇めた視線の先で、クダリさんがわずかに目を伏せる。
ごめん、と囁くように紡がれた言葉を聞きながら、わたしは透き通るように白いまぶたの縁を視線でなぞっていた。距離の近さに眩暈がする。手首が熱い。
「それでもいっしょにいたいっていうのは、ダメ?」
クダリさんはそう言いながら、わたしの体の下にあった足を引き寄せ、今度こそ完全に上半身を起こしてソファに座りなおした。距離がさらに詰められたことを一拍遅れて認識し、やっぱりもうどう考えたってこの状態のままでいるのはおかしいと結論付ける。足の上に座り込んでクダリさんと向き合ってるって、自分から仕掛けたことではあるがなんだこれ、落ち着いて話ができる状況じゃねえだろ。
「………ちょ、クダリさん、」
その場から退こうと身じろぎしたわたしの、手首にある拘束はとかれない。むしろ反対側の手が腰に回されて息が詰まった。
――…放す気ねえなこの野郎。
「いつかいなくなっちゃうかもだけど、だったらそれこそ今だけでも、いっしょにいたいって思うのは、ダメ?」
肩口に額を押し当てながら、クダリさんが言う。静かに言葉が紡がれるたび、吐く息が熱と共にじんわりと衣服に染みていく気がした。…浸食、されていく感覚。ほんの一滴の水を垂らしただけで、ぐずぐずに溶けていく角砂糖のような。透明な水に落ちた色水のような。わたしが、わたしでなくなる感じ。
「ぼく、と一緒にいたい」
「
―――…っ、わ、たしは、いやです」
「……、」
肩口にあった額が離れ、腰の拘束がゆるむ。
わたしは自由になっている方の手で、白いシャツを掴んだ。皺になろうと知ったことか。いっそ跡でも残ればいい。
「わたしはいやです、いつか離れるんなら、いっしょになんていたくない…っ」
「………………」
「だって、相当レアですもん! わ、わたしみたいなヤツのこと、すきっておっしゃってくださる奇特なひとがいて、そのひとのこと、わたしもすきだって思えるかもしれない、こんなことそうそうあるもんじゃないのに、もしここでその手をとったら、わたし、元のとこに戻ったときどうすればいいんですか! 二度とあえないひとのことかんがえながら、ひとりで生きていくのなんてむりです、そんなのいや、ぜったいやだ…!」
壊れたみたいにぼろぼろ涙があふれる。もう、情けないとかみっともないとか自分のキャラじゃねーだろこれとか、そういう考えがぜんぶ麻痺してはたらかなくなって、わたしはただ目の前のぬくもりにしがみつくことだけで精一杯だった。頬に流れるなみだがひどく不快で、でも握りしめたシャツを離す気にはなれず、ずるずると鼻をすすりながら肩口に目元を押し付ける。……マスカラはめんどくさくてしてなかったからよいとして、アイラインはついちゃっただろうなあ、あんまり申し訳ないからこれ今日もらって帰ろう。今日の帰りか明日の朝にでも、クリーニングに出してしまえばいい。
「ねえ、。…ちょっとだけ、聞いてもいい?」
「なんですか」
背中をゆるゆるとさすってくれる手が、あたたかくて心地よい。
「奇特ってどーゆー意味」
「“非常に珍しく、不思議なさま” です」
「ことばの意味きいてるんじゃなくて! え、なにそれ、ぼくのこと?」
「以外にだれがいるんですか」
「……………。あと、すきだって思える “かも” ってなに、なんでこの期に及んで “かも” なの?」
「わたしの気持ちに対して、正直に打ち明けただけです」
「えええええ。もういいじゃん、ここまできたら “すき” って断定しちゃえば! なんでそんな余計なものくっつけるの?」
「余計じゃないです、それが事実です」
「……もう、好きになっちゃえば? 楽になるよ?」
「別に楽になりたいわけじゃないんでお気遣いなく」
なんだこれ、自白を迫られてる犯人か。くだらないことを考えていても涙はとまらず、わたしはクダリさんのワイシャツに給水し続ける。自分のことながら、なんて面倒くさい女だろう。言っていることとやっていることの整合性がなさすぎて、もういっそ天晴をやりたいくらいだ。レアだとか奇特だとかいう言葉をこのひとに対して使ったが、それじゃ足りないに違いない。「希少」 とか 「天然記念物」、ああもう 「伝説」 とかが適切なんじゃないかこれ。
クダリさんの両手が、わたしの肩に触れた。体を離そうとする動きに逆らわず、わたしは握りしめていたシャツをするりと逃がす。仏頂面で鼻をぐすぐすいわせるわたしを覗き込み、クダリさんがへにゃりと笑った。
「ひっどい顔」
「…んなこと、言われなくてもわかってますよこのやろう」
「でもカワイイ」
クダリさんのくちびるが、目尻に浮かんだなみだを掬い取る。ぼろぼろと伝い落ちる涙のしずくを追って頬を滑り、口の端に触れる。火照った吐息が頬を撫で、わたしは促されるように少しだけ瞼を伏せた。でも完全に目を閉じてしまうのは避ける。なんとなく、事の顛末をきちんと見届けなければならない気がした。すべてを見定め、認識し、理解したうえで、わたしはどうするのかを決めなければならないと思う。
鼻先が触れ合う距離で、クダリさんがそっと囁く。
「…とめないの?」
「……とめたら、とまるんですか」
ぱちり、と鼠色のひとみが瞬いた。小さく笑う。
「
―――…ゴメン。もうむり」
性急に押し付けられたくちびるは、しかし角度を変えることもなく、ほんの数秒その状態を保っただけですぐ離れていった。どちらのものとも知れない吐息が、離れたばかりの口唇をなぞる。ごくりと息をのむ仕草に目を上げると、同じように視線を上げた鼠色と出会う。
そのひとは、何かから耐えるようにかち合った目を伏せ、小さくくちびるを噛んだ。一瞬見せたその表情を打ち消すように笑みをこぼし、そっとあごを引く。反動でコツンと額が合わさる。彼ははにかむように笑った。