04/09(Wed)

reported by clerk



「“うばっちゃったー”」

 場にそぐわない、愛らしいパペットを手にした綺麗なお姉さんが出てきそうなクダリさんのセリフに、思わず額を合わせたままの状態で吹き出してしまった。なつかしくない?、とクダリさんが笑う。

「うわー、何のCMでしたっけそれ。お茶?」
「そうそう。すべり台から降りてきた男のコに、パペットでちゅーするやつ」
「……ということは、わたしが男の子役ですか」
「そう。ぼくが奪う役」

 抱えるように抱き寄せられて、背中に回された腕の熱さに体がしびれる。頬にかかる髪をかき分け、少しむりやりほっぺたを合わせようとするから、くすくす笑うクダリさんの息が耳を掠めてひどくくすぐったかった。身をよじるわたしのこめかみに、たしなめるようなキスを落とす。肩口に顔をうずめるように抱きすくめられながら、わたしはクダリさんが笑った気配を感じていた。染み出るようにこぼれる涙を、シャツの白が吸う。

「ねえ。…は、ルクスと出会ったことを後悔してる? ルクスを手持ちにしたこと、後悔してる?」
「……してない、です」
「うん。でも、ルクスとだって、いつかぜったいお別れするよ? …それはが元の世界にもどっても、もどらなくても、必ずくること。――そうでしょ?」

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、小さくうなずく。ひとつひとつ、丁寧に区切って紡がれる言葉が、泣いてばかりでろくに回らない思考にちょうどいい。乾いた土に降り注ぐ霧雨のように、静かに過不足なく染みこんでいく。

「お別れするときは、たぶん、すっごく悲しいと思う。悲しくて、苦しくて、寂しくて、すっごくすっごくツラいと思う。……でもだからって、ルクスと一緒にいたこと、後悔する? 手持ちにしなきゃよかったって、後悔すると思う?」

 ――右も左もわからないこの世界にたったひとりで迷い込んで、家族や友人に会いたいと、元のところへ戻りたいと何度も泣いて、なんでわたしがこんな目にと歯を食いしばりながら、もういっそしんじゃったほうが楽になれるんじゃないかって心の奥底でいつもそんなことを考えながら、それでも今日までずるずる生き延びてきて。
 ここに迷い込んでしまったことはわたしの意志ではなく、不可避であったと思うから、そこには後悔もクソもない。わたしに選択する余地はなかった。……でも、だからといって、家族や友人と出会わなければよかったなんて、そんなことを考えたことは一度だって、

「…うん、ぼくもおんなじ。いつかはきっと、みんなとお別れしなきゃならないけど、でも一緒にあそんで、一緒につよくなって、一緒にたたかったこと、ぜったい忘れない。どんなにお別れがツラくたって、一緒にいた時間を後悔なんてしない」

 腰に回された腕に力が入ったのがわかった。きゅううっとぜんぶの隙間を埋めようとするように抱き寄せられて、嗚咽がもれる。とくとくと聞こえる心音が、わたしのそれより少し早い。クダリさんの吐いた息で髪が揺れ、その熱さに脳幹が震えた。息が詰まる。

「だから、を好きになったことだって、ぜったい後悔しない」
「…………っ」
「いつか離ればなれになっちゃったとき、すっごく悲しくて、苦しくて、寂しくて、すっごくすっごくツラいと思う。……もしかしたらそのときには、のことなんか好きにならなきゃよかった、と出会わなきゃこんな悲しい思いしなくてすんだのにって、思うかもしれない」

 クダリさんの言葉が震える。今、無理やり顔を見ようとかしたら怒られるだろうなあと、頭の片隅で思った。

「でも、たぶんそう思うの、そのときだけ。あとでぜったい、好きになってよかった、一緒にいられてよかったって思うに決まってる」
「……っまたそんな、こんきょのないことを…」
「根拠ならあるよ。――…ぼくがどれだけ、のこと大好きだとおもってるの?」

 ふわりと空気が揺れる。まるで雲の切れ間からのぞく、春の日差しのような。



「ねえ、だから。ぼくのことを好きになって、ぼくと一緒にいて?


 …それで、きみをいちばん大切にできる権利を、ぼくにちょうだい?」









 ―――人生ってほんとうに、何が起こるかわからない。

 あの日。新しく買ってもらったばかりの自転車で高校へ向かっていたあの日、わたしはいつもより少しはやく家を出て、時間に余裕があるからと、いつも通るのとは違う道を選んで自転車を走らせた。基本的に寝汚かったこともあって、周囲の景色になど気を留めず、あくびを漏らしながらペダルを漕いで、気付いたら走っていたのは見知らぬ街道。どこだここ、と思う間もなく木々の間から凄まじい数の羽ばたきが聞こえ、なんのこっちゃ、と思うより先にそのマメパトの大群に追い回され、死にもの狂いで自転車を走らせた結果、たどり着いたのがこのライモンシティ。
 夢ならはやく醒めてくれと何度も願って、どうしてわたしがと運命を呪って、けれどこんなわたしの荒唐無稽な話を聞いてくれるひとたちに出会って、わたしにも守りたいと思えるパートナーができて。…たぶん、これまでに出会ったひとたちの中にだって、わたしの話を聞いてくれるひとはいたはずで、わたしが積極的に一歩を踏み出していれば、もっと早くに出会えていたのだろうけど。
 十年という長いのか短いのかよくわからない時間と、これまで出会ったひとたちの厚意と親切を踏みにじって、わたしはいま、伝説級に心優しいひとの腕に包まれている。――これだけ荒唐無稽な人生というのもそうそうあるもんじゃないとは思うが、それにしたってこれ…なあ……。

「………ね、もう “かも” 取れた? ぼくのこと好きになった?」

 シャツを握ろうと、背中に回した腕が止まる。ついでに涙も。

「……いや、あの…わたしそんなに気持ちの切り替え早い方じゃないんで…、」
「ええー、もういいじゃん! はぜったいぼくのこと好きだよ、もうそーゆーことでよくない?」
「いやいやいやいや、そーゆーことってどういうことですか。自惚れるのも大概にしてください」
「…………ちゅーしていいって言ったくせに」

 恨みがましく、ぼそりと呟かれたセリフに涙が枯れる。これは大変な事実誤認だ。…ああそうだ、誰がなんと言おうとこれは大きな誤解である。わたしはそんなこと言ってない。言ってないったら言ってない。

「違います。『やめろと言ったらやめるんですか?』 とお聞きしただけです」
「それって、『やめろって言ってもどーせやめないんだろーから、ちゅーしてもいいですよ』 ってイミじゃん」
「それはクダリさんの解釈です、わたしはそんなつもりで言ったんじゃありません」

 スゥ、とクダリさんの纏う空気が冷やかさを増す。わたしの腰を抱いていた腕が音もなく動き、長く骨ばった指がつうと再び脇腹をなぞった。反射的にびくりと体を飛び上がらせるわたしをあざ笑うように、クダリさんが口を開く。

「あのさ、照れ隠しもたいがいにしないと、かわいくないよ?」
「別に、あなたにかわいいと思ってもらおうなんて、思ったことありませんから」
「…ふーん? 照れ隠しってのはみとめるんだ?」
「(…っこのやろう……)」

 押し黙ったわたしを見て、クダリさんが満足げににんまりと笑う。不愉快そうな表情をうっちゃり、至極ご満悦に笑う姿は悪魔そのものだ。今ならもう、八重歯が牙に置き換わっていたところで欠片だっておどろかない。十字架とか日光とかで灰になってしまえ。塩と混ぜて、海に撒いてくれる。

「てかさあ、じゃあは、好きじゃないひととでも、あんな風にちゅーするの?」

 日常生活において、好きでもねーひとにあんなちゅーを求められることなんて、野生の色違いゾロア(♀)と遭遇することよりあり得ないんですよ、と吐き捨てたかったが、すんでのところで飲み込む。調子づかせるだけに終わる気がしたし、なんだか言うつもりのなかったことを、ぽろっと漏らしているような気がして。…子どもみたいにわんわん泣いていたせいで酸素の供給が追い付いていないのか、頭がうまく回らない。

「…こんなこと敢えて言いたかないですけど、お忘れですか? わたしは、処女喪失を職場の上司で済ませた人間ですよ」
「…………そうだった…」

 ▽ 効果は バツグンだ!
 ぐったりとうなだれたクダリさんが、ぼそぼそと口を開く。

「…あのさ、別にだからどうってわけじゃないんだけど…………それホント?」
「こんな嘘ついて、わたしになんのメリットがあるんですか」
「デスヨネー…」

 だからどうというわけではない、と言っておいてこのザマである。自分だって複数人の女の子と同時に関係を持っていたこともあるくせに、それらを棚に上げるのがあんまり早すぎやしないか。はあああ、と大げさな溜息をつくばかりで、それ以上言おうとしないクダリさんの真意は理解のしようがないのだけれど、男ってほんとしょーもねえな、と思わなくもない。……まあちょっと待て面倒だからって早まるな、と当時の自分に説得を試みたくもあるが。

「…ねえ。好きでもないひとと、ちゅーとかしないって約束して? なんかもう、見てるとあんまりむぼーびすぎて怖い」
「“好きでもないひと” っていう括りなら、クダリさんもその中に入りますけど」
「……まだそゆこと言うの?」
「事実です」

 むう、と黙り込んだクダリさんはしばしの逡巡の後、体中の空気をぜんぶ押し出すような溜息をついた。ぐりぐりとわたしの首筋に額をうずめ、口を開いては閉じ、開いては閉じ、と無駄な行動を数回繰り返して、ようやく絞り出すように 「…いいよ、」 と呻く。

「いや、もう全然 『いいよ』 って言ってるように聞こえませんけど」
「も、いいったらいいの! 観覧車のてっぺんから飛びおりる思いでゆった、ぼくの決意をムダにしないで!」

 えええええ、何それ重い……。言ってることは薄っぺらいけど、覚悟のほどは無駄に重い。つーかそこになんでそんな覚悟が必要なんだ、おかしいだろ。

「いい。がぼくのこと、ちゃんと好きになってからでいい。…それまで、もうぜったいしない」

 すんっと鼻をすすって、けれどクダリさんは凛とした声でそう言った。バトルトレインで挑戦者と相対したときのような、隅々にまで意志のみなぎる強い声。
 ……意地の悪いことを、言っただろうか。というか、今ここでこんなことばっかり言っていると、後々自分の首を締め上げることになるような――…いや、後々ってなんだ。別にこれからのことなんてまだ全然わからないし、首が締まるようなことになる保証だって、




「……………あの、クダリさん?」
「なに、まだなにかあるの」
「や、なにっていうか、あの……―――なにか、あたってますよねこれ」

 …なにが、とは言わない。察してほしい。

「…………えへっ」
「えへ、じゃねーですよちょっと、いや、事の発端はわたしですけど、悪いのはわたしだって重々承知しておりますけれどもこれ、おかげでつい五秒前におっしゃったことの説得力皆無なんですけどちょっと…!」
「だってムリだよー、こんな状況でさあ! むりむり、こんな状態ではんのーしないとか、どー考えてもムリ!」
「んなことで開き直んないでください。…てか、ちょっ、わざとあてないでくださいよ痴漢ですかあんた!」
「あててなんかないもん、あたるんだもん」
「……サイッテーですね」
「自己アピールはひつようでしょ?」

 んなアピールは要らねえ。
 とりあえず逃れるため、クダリさんを跨いだ状態のまま膝立ちになる。肩に手をついて立ち上がろうとするわたしの腰に、クダリさんの両腕。ゆるく巻きつくそれらに思わず顔をしかめるが、そんなわたしを見上げてくる鼠色は相も変わらずとろりと笑んでいた。ひどく満足そうに、それでいて照れくさそうに微笑んだ白皙には、薄い朱色が刷かれている。
 毒気が抜かれるとは、このことだと思った。

「……あの、本当にしなくていいんですか。そういうの、割とつらいって聞いたことがあるんですけど」
「んーとね、ぼく、がぜんぶ欲しい」

 ……いやそんなこと、エンジェルスマイルで言うことじゃないですよね。逆にこのエンジェルスマイルだから許されるのか? つーかコイツ、多分それわかって言ってんな。

「だからには、心も体も、まるごとぜーんぶひっくるめて気持ちよくなってもらいたいし、ぼくもいっしょに気持ちよくなりたい。……好きなひととするのって、そーゆーことでしょ?」
「……………………」
「体だけ気持ちよくなりたいなら、別にじゃなくてもいーもん」

 この男、この期に及んでまだそういうことを言うか。なんとなく不愉快な気分になって、両のほっぺたをつまんで引き延ばす。薄っぺらくてあまりむにむにとした感触がなく、触っていて面白くないなあと思うのだが、しかし同時になぜか女のそれより滑らかな肌が、やはりどう考えたって面白くない。いひゃいいひゃいと声を上げ始めたそのひとから手を離し、ぺしりと軽く頬を打つ。

 きょとん、と見上げてくる鼠色に覚えるのは、諦観にも似た疲労感だった。一日の終わりに、のんべんだらりとぬるま湯につかっているような。もしくは、すべての活動を終えてお布団にもぐりこんだときのような。暑くもなく寒くもなく、このまま眠ってしまいそうな感覚。しょぼしょぼと瞬きを繰り返すわたしの目元を、密やかに笑いながらそうっとなぞる親指があたたかくて、ひどく心地いい。
 心地いい、と思ったところでふと気付く。わたしがクダリさんに感じたのは、疲労感などではなかったと。

「…ねむそう。泣きつかれた?」
「そんな、子どもじゃないんですから。……でも、相当ねむいです。なんでだろ…」
、明日仕事でしょ? ノボリどーせいないし、泊まってってもいいよ?」

 なに考えてんですか、と言おうとして、けれどひどく野暮なことを言うような気がしたから結局やめた。何を考えているのか、なんて聞かなくてもわかる。鼠色のひとみに浮かぶ、ありったけの慈愛と熱情、そしてその奥に見え隠れする渇望の色。それらを目の当たりにしても、もう怖いとは思わない。
 わたしが怖がっていたのは自分自身だったこと。そして、チャラけていると評判だったこのひとが、本当の本当にわたしを大切にしてくれようとしているのが、もうわかってしまったから。

――…いえ、ちゃんと帰ります」

 だからこそ、それに甘えるわけにはいかない。そうしていいのは、わたしが覚悟を決めて、それからだ。

「そっか。…じゃあ送る、ちょっと待ってて」

 上のシャツだけきがえてくる、とクダリさんが笑う。その背中を見送り、わたしは革張りのソファにうずもれるようにして座りながら、ぼんやりと天井を仰いだ。わたしがなみだでぐしゃぐしゃにしたシャツ、ちゃんと回収しなきゃなあと思うには思うのだが、頭の芯がしびれたように、声をかけることすら面倒くさい。なにかしていないと今にもずるずる眠り込んでしまいそうで、けれど用もないのに立ち上がることは億劫極まりなく、ぼんやりと思考をめぐらせた結果、わたしは背もたれに後ろ頭を預けてだらだらと鼻歌を口ずさむ。まーいーにーち、まーいーにーち、ぼーくらーはてっぱーんのー。

何してんの、行くよ?」
「へーい」

 さっき何うたってたの?、と面白半分に聞いてくるクダリさんに、とあるタイヤキくんの生涯とその悲哀について、懇切丁寧な説明をしながら玄関の扉を開ける。
 雨は上がっていた。

いやになっちゃうよ。

2012/06/16 脱稿
2012/06/23 更新