06/23(Tue)
reported by clerk
「
――…あの、ほんとすいません」
「なにがです?」
重厚な扉を前に、これで何度目になるか知れない謝罪の言葉を繰り返す。だってもう、他になんて言ったらいいのか。おそらく、この場で言うべきは謝罪より感謝の言葉なのだろう。もちろん感謝の言葉だって尽きない。何度言ったって言い足りないがしかし、それよりはるかに謝罪の方が回数的にも内容的にも、深く、重かった。もうこのひとには、この先一生頭が上がる気がしない。
「だって、これ、やっぱおかしいですよね? わかっちゃいましたけど、やっぱ絶対おかしいですって」
「そうですか? 我ながら、なかなかはまり役だと思ったのですが…」
似合いませんか、と小首をかしげるノボリさんは、ご自分の姿を鏡で見てこなかったとでも言うのだろうか。普段からお召しになっている格好もカチッとしている上に、おあつらえ向きに黒を基調としているので、驚くほど違和感がない。スラリとした長身であることも相まって、こう言ってはなんだが、カタログの中の男性モデルよりはるかに見目麗しく着こなしている。初めて試着させてもらったときの、女性店員のぽかんとした顔が忘れられない。
控え室からここに来るまでだって、すれ違った女性の七割以上が、このひとを振り返って顔を赤くしていたと断言できる。そしてそのあと、皆が困惑顔で首をかしげていたことも。
「いえ、嫌味かってくらいお似合いです」
「……もう少し素直に褒めてくださってもよいのでは?」
「隣に立つのが申し訳なくなるくらい、お似合いです」
「それは困ります。わたくしはあくまで、の介添えのようなものでございますから」
ひどく機嫌がいいらしいノボリさんは、傍に控えていた会場スタッフの方(女性)に 「そうでございましょう?」 などと気軽に話しかけ、見る見るうちにダルマッカに進化させている。まったく本当に、機嫌がいいときとアルコールが入っているときのノボリさんは手におえない。メロメロボディの乱用、ダメ、ゼッタイ。
「……は、ご気分が優れませんか」
知らず、吐き出そうとしていた溜息を飲み込んで隣に立つひとを見上げる。ノボリさんは、鉛色のひとみをとろりとたゆませ、苦笑交じりにわたしを見下ろしていた。そこにある心配そうな面持ちに気付けないほど、このひととの付き合いは浅くない。
「いえ、…緊張してるだけですよ」
「そうですか」
この子たちも、大変緊張しておりますね。
そう静かに笑ったノボリさんの視線をたどった先には、花かごを持ったまま微動だにしないシャンデラのルクスと、そわそわと肢を動かしてたまに花びらをかごから落としているデンチュラ。まったく正反対の挙動を示しているこの子たちだが、目が泳ぎまくっているという点では共通している。隙があればモンスターボールに逃げ込もうとするので、ボールは控え室に置いてきてしまった。
「…なんでわたしより緊張してるの、あなたたち」
チラ、とわたしを見上げた彼らは、「ちょっといま話しかけないで」 とでも言いたげに視線をすぐにそらせてしまう。そんな重大かつややこしい役回りを頼んだわけではないのだけれど、この子たちにはだいぶ重荷だったらしい。お願いした時には飛び回らんばかりの勢いで喜んでくれたのに、日取りが近づくにつれてじわじわとその重責を過分に認識し始めたのか、駅のホームで二人して練習し始める始末だった。…勘弁してくれ、死ぬほど恥ずかしい。
扉の向こうから、荘厳な音楽と人々のざわめきが聞こえてくる。ポケモンたちに引きずられたわけではないが、否が応にも張りつめてくる緊張感に身が竦み、吐く息が震えた。それと同時に 「なんでわたし、こんなとこでこんなことしてんだ」 という思いがこみあげてきて、回れ右して帰りたい衝動に襲われる。
――逃げ出すなら今しかない。多分死んだ方がましだと思えるくらい怒られるだろうし失望されるだろうし、いろんなひとを裏切ることにはなるけれど、この扉をひらく前ならまだ引き返せる。まだギリギリどうにかなる。でも、ひとたびこの扉がひらいてしまったら。この扉の向こうに進んでしまったら、もうどうにもならない。取り返しのつかないことになる。
この日まで何度も何度も自問自答して、何度も何度も話し合って、そうやって決めたことなのに、まだ出した答えに自信が持てない。本当にこれでいいのかと、頭の中で問うてくる声に明確な答えを示せず、こんな迷いだらけの状態でこの場に立つことこそが彼に対する最大の裏切りで、ここに立つ資格は自分にはないとわかっているのに、前にも後ろにも進めない。
聞こえていた人々のざわめきがぷつりと途切れる。近くにいたスタッフの方の動きが慌ただしくなり、インカムを通じてやりとりしている姿が目に入って、いよいよどうしたらいいのかわからなくなった。
――…やっぱりだめだ、すすめない。こんなんでこの場にいていい筈がない。こんなのだめだ、ぜったいだめだ。殴らせろというなら好きにしてくれていいし、死んでくれというなら海に飛び込んだっていい。そんなんじゃ足りないくらい、あのひとには本当に申し訳ないと思うけれど、やっぱりわたしじゃ、
「貴女に出会えて、本当によかった」
斜め上から降ってきた言葉に、わたしはそのひとを見上げる。その横顔はまっすぐに前だけを見つめていて、しかし淡く微笑んでいた。
「貴女に出会えたことは、わたくし共の人生のなかでも、最良の出来事のひとつにございます」
「……あの…やっぱりわたし、」
「迷われているのでしょう? それでいいじゃありませんか」
いや、よくないだろ、それは。
「あの子がそれでいいと言っているのですから。貴女はラプラスに乗ったつもりで、どーんと構えていればよいのですよ」
「………っでも、そんなの、ふせいじつじゃないですか…」
「そうお考えになることが、誠実であるなによりの証拠にございます」
だめだ、これは何を言ってもうまく言いくるめられて、無理やり納得させられるパターンだ。こうなると、その場はよくても、あとで振り返ったときに 「……あれ?」 ってなって、逆にもやもやが溜まってしまう。
ふっと笑った気配がする。視線を落としているので表情をうかがうことはできないが、どうやら押し黙るしかないわたしを苦笑したらしい。もしかして、わたしがここで再度迷いだすことを見越したうえで、時間稼ぎをしているんじゃなかろうかとあらぬ疑いまで抱き始めてしまうのは、このひとによって何度となく言いくるめられてきたからだ。
今日のこの配役だって何度も異議を唱えてきたが、本当に驚くほど相手にされなかった。「ああ、はいはい」 と適当極まりない相槌が返ってくればむしろいい方で、最終的に双子揃ってガン無視だ。どういうことだ、まったくもって意味が分からない。
「そのように、故郷やご家族を捨てられないだからこそ、本日の行為には意味があるのです。…以前、そう申し上げましたでしょう?」
「…………ノボリさんって、あくタイプですよね。絶対」
「でしたら、はエスパーでございますか」
「…うわあ、攻撃ささりまくりだあ」
スタッフの方に促され、ルクスとデンチュラが扉の目前へ進む。どうやら張りつめていた緊張も限界を超え、逆にリラックス…というわけではないが、いよいよ覚悟が決まったらしい。デンチュラに花かごを預け、最後にわたしの首に腕を回したルクスの目は、半ば据わっているといっても過言ではなかった。俺もがんばるからお前もがんばれ。当たって砕けろ。そう言われている気がした。
準備をお願いします、と声がかかる。ああ、いよいよ逃げられなくなってしまった。いや、でもまだなんとかなるか。死にもの狂いで逃げ……てもノボリさんにとっ捕まりそうではあるが、まだどうにか、
「
――…、」
「…はい」
「今日この日より、わたくし達は家族でございます」
「…………………」
「お義兄さん、と呼んでもよろしいのですよ?」
……だめだこれ、絶対逃げられないわ。逃がすつもりとか、サラサラないわこの人ら。
「…勘弁してくださいよ、ノボリ義兄さん」
扉の向こうから、わたしたちの入場を促す声が漏れ聞こえてくる。ルクスの紫炎がぶわりと大きく燃え上がり、デンチュラはたたらを踏みながら毛を逆立たせる。…ああ、心音がうるさい。緊張とも高揚ともつかない思いが体中を席巻して、肌が粟立つ。
退路を断たれて、それでも怒りや絶望は感じない。憤りを覚えていい立場でないと言えばその通りなのだが、このひとたちに抱くのが、なにより安堵だったことに我ながらびっくりしてしまった。結局わたしは、自分からこの一歩を踏み出すことがただひどく怖かっただけで、引き返したいとは微塵も考えていなかったのだと、いまさらながらに答えを突きつけられた気がして。……いやまったく本当に、情けないくらいいまさらではあるが。
退路を塞がれ、背中を蹴りだされ、手を差し伸べられてようやく歩き出せるなんて。情けないにもほどがある。
「
――では、参りましょうか」
女は度胸だ。差し出される左腕に、右手を絡める。
「はい」
わずかに軋んだ音を立てながらひらく扉。
ベール一枚隔てた向こうに、白のタキシードに身を包み、見慣れない笑顔を携えたそのひとが立っている。
「うーわ、死ぬほど緊張してないですかあれ」
「…先ほどまでのデンチュラとルクスのほうが、よほどマシでございますね」
人々のさざめく声をくぐり抜けるように、一歩一歩を進んでいく。曰く、バージンロードとはこれまで歩んできた道であるらしい。家族と共に歩んできた道を式当日に父と進み、その先に待つ新郎と、これからは共に未来を歩んでいく。
だから本当は、こちらの世界に家族や身寄りもなければ、この世界を生きたのだって年齢の半分に満たないわたしが歩いていい道ではない。百歩譲って歩いてよいとして、隣を進んでくれるのが新郎の実の兄ってなんだこれ、どういうことだ。しかも改めて説明するまでもなく、彼らは一卵性と思しき双子である。口の形が違うだけでほとんど同じような顔をしている二人の間を進まされる、わたしの身にもなってくれ。我ながらもう意味が分からん。
しかも遠目にそのひとの顔を確認する限り、緊張が容量オーバーをおこしたのか、浮かべている表情がちょっとくつろいだノボリさんみたいになっている。そしてノボリさんは無駄に機嫌がいいからか、ローテンションな弟さんみたいな顔になっていて、訳が分からなくなりそうだ。つーかもう訳が分からない。参列してくださったひとの中から 「…あれ逆じゃね?」 という言葉が漏れ聞こえてきたのだって、わたしの立場からでも激しく頷けてしまう。
「…本来はここで言うべきセリフではないと、思うのですが」
「なんです?」
いつも不必要なまでに歯切れのいいノボリさんの言いよどむ姿は、わたしに変な緊張を生む。「弟が欲しくば、わたくしを倒してからにしてくださいまし」 とか言われたらどうしよう、勝てる気もしないしめんどくさい。
「クダリを、よろしくお願いいたします」
――父親(役)に、バージンロードを進みながら新郎をよろしくと頼まれる花嫁。だいぶシュールである。
横目にノボリさんを見上げると、さすがにご自分でもこのタイミングはおかしかったと思っているのか、眉間にしわを寄せくちびるを結んで、わざとらしいしかめっ面を晒していた。口の端がもにょもにょとうごめいており、ニヤけるのを堪えているのだと一目でわかる。熨斗つけて突き返してやろうかという考えが浮かばなくもないのだが、それを実行に移すにはあまりに、…あまりに、ひとりで待つクダリさんの顔が心細いと叫んでいた。はやくはやくはやくはやく、という心の声が表情から駄々漏れている。あのまま五分ほっといたら、きっと泣き出すだろう。
「そしてどうか、おしあわせに」
「
――…はい」
笑みを交えてそう答えた瞬間、ぴくりとクダリさんの眉が跳ねあがった。どうやら、こそこそ会話を交わすわたしたちを見咎めたらしいが、あんまり切羽詰まり過ぎてないですかちょっと。バトルを大勢にモニターされていても顔色一つ変えないくせに、なんでこんな時ばっかり。せっかくの感動的な空気が台無しだ。
「おそい!」
第一声がそれか。
「となに話してたの」
「貴方には関係ありません」
おいおいちょっと勘弁してくださいよ。教会のど真ん中で兄弟ゲンカとか、シャレにならない。そしてわたしを巻き込まないでくれ。
むっとしたように目を眇めるクダリさんを後目に、ノボリさんはわたしに向き直った。予定ではここで父親(役)のノボリさんからクダリさんへ引き継がれるようになっていたので、打ち合わせにないその行動に、わたしはきょとんとノボリさんを見上げる。あんまり突拍子もないことはしないだろうが、いきなり 「ブラボー!」 とか叫ばれるのも嫌だ。
「先ほどの約束、どうか果たしてくださいまし」
「…はい。善処します」
心配症というかなんというか。わたしに出来る限りの言葉で応えるとノボリさんは満足そうに微笑み、
――…その表情が、遠い記憶の中にある実の父親のそれとほんの一瞬かさなって、息が詰まった。
わたしの父は典型的な日本人である。記憶にある十年前の姿でさえ、中肉中背で生え際は後退をはじめており、腹の肉は指でつまめる。顔だっていわゆるしょうゆ顔というやつで、取り立てて整っているわけでもない。つまり、ノボリさんとは似ても似つかず、こんなふうにすっきりとモーニングを着こなせるはずがないのだが、それでもわたしを見て微笑むノボリさんは、父の姿を想起させた。時間と記憶に揺らぎ始めている父の姿を。
立ち尽くすわたしに気付いているのかいないのか、ノボリさんが 「それから、」 と囁くように言葉をつなぐ。わずかに腰をかがめ、密やかに耳打ちした。
「ドレス姿、たいへんお綺麗でございます」
「ふはっ。…っくく、ありがとうございます」
うっかり父親と重ねていたせいで、予想外すぎるその言葉に思わず吹き出してしまった。記憶から想像するに、わたしの父はこんな時だろうと多分照れてこんなこと言えない。……いや、もしかすると、母に尻を叩かれながら、やっとのことでぼそぼそと口にするのかもしれないがどうだろう、やっぱりよくわからない。
「…クダリ、」
ノボリさんの呼びかけに、クダリさんはどこか不服そうにくちびるを尖らしたままだ。思わず 「子どもか!」 と口を挟みたくなるのだけれど、さすが実の兄とでも言うべきか、ノボリさんは小さく苦笑を浮かべただけだった。月の光のように穏やかに笑む。今度は間違いなく、兄の顔で。
「と、しあわせにおなりなさい」
――自分がそう言われたときより、胸が詰まった。軽々と呼吸が奪われる。…ふざけんなこのやろう、泣くぞ、今このタイミングで。
ノボリさんの言葉を受け、クダリさんが満面の笑みをのぞかせる。
「うん。……でもねノボリ、ぼく、これまでだってずっとしあわせだったよ」
「
――ええ。わたくしもです」
…っやーめーてー! ちょ、ほんとにやめてそういうの、なんで、わたし全然聞いてない、こんな感じになるって全然聞いてない! 今ここでわたしがぐすぐす泣き出したら絶対変な空気流れるじゃない、あらあの子お嫁に行くの嫌なのかしら、みたいな感じになるじゃない! てゆーかなんかこれ、クダリさんがお嫁に行くみたいな感じになってない? 気のせい? お嫁に行くのわたしであってますよね? あれ?
ちくしょう、いいなあ家族って。掛け値なしにそう思った瞬間、扉の前でノボリさんに告げられた言葉が脳裏によみがえり、またもや息が止まった。…ああくそ、さっきのあれは、もしかしてこのための前フリだったのだろうか。いやまさか、と思う気持ちと、ああこいつならやりかねん、という気持ちが交錯して、なんだかもういっそのこと清々しい。そうか、これからはこのひとがわたしの “お義兄さん” なのか。……うわあ、なんと凄まじい存在感のこじゅう
つらつらと下らないことを考えるわたしの目前に、クダリさんが手を差し伸べる。
「、行こ?」
聞いた話によると、チャンスの神様には前髪しかないらしい。通り過ぎてから後を追いかけ、捕まえようとしたところで、後ろ髪がないから捕まえられないのだと言う。だとするなら、わたしの前に現れたチャンスの神様は、回り込んでその前髪を掴めるほど鈍足だったか、おそろしく落ち着きのない性格で、あっちへふらふらこっちへふらふら、何度も何度もわたしの前を歩いていたかのどちらかに違いない。
これまで、何度この手に引っ張り上げられ、背中を押され、支えられてきたことだろう。そしてこの先、何度この手を取り、共にたずさえ、支えあっていけるのだろう。
わからない。でもわからないことを、面白がっていけると思う。
いつか訪れる別離の時まで、このひととなら。