15/09/21(Mon)
reported by clerk
わたしがルクスの恋するお相手を知ったのは、わたしの結婚式の時だった。
池にひしめくコイキングにエサを投げ入れるような様相を呈していたあのブーケトスで、わたしが後ろ向きに放り投げたブーケは美しい放物線を描き、まるで吸い込まれるようにルクスの腕に収まったのだそうだ。わたしはその様子を一切知らなかったし、もちろん小細工なぞしていないから、花束を抱えて茫然と浮遊するルクスにげらげら大笑いしたわけなのだけれど、参列してくださった方々(言わずもがな独身女性)に、あれは出来レースだったのではないかと後日詰め寄られてさらに笑ってしまった。
まあ確かに、シャンデラであるルクスの手はなにかをキャッチするのに適した形状ではなく、当のブーケも持ち手のリボンがうまいこと引っかかったと、そういうことだったらしいから、女性たちの疑念もわからなくはない。しかもそんな疑いを抱いてしまうくらい、ブーケを受け取ってしまった後のルクスの行動は、堂に入っていた。
ブーケを放り投げて、人々の歓声とどよめきに振り返ったわたしが見たのは、花束を手に凍りついたルクスと、同じくこおり状態の女性の群れ、そしてそれを囲むような形で大爆笑する男性の出席者たちで、となりで腹を抱えてひーひー笑っているクダリさんに状況を尋ねるまでもなく、わたしは自分のアホさ加減を理解してしまった。主人とポケモン揃って、なんて間の悪い。これが笑わずにいられるか。
「ね、。ルクスどーすると思う?」
「どうするって……こういうのって、やり直しとかできるもんだと思います?」
ひそひそと言葉を交わすわたしたちの視線の先で、いち早くこおり状態から脱したのはルクスだった。彼はふわりと浮きあがると人ごみの中に視線をめぐらし、ある一点で眼差しを縫いとめる。キリリとまなじりを決し、あたまの紫炎をぶわりと大きく揺らした彼は、迷うことなく一直線に、ブーケを手にしたまま人ごみの中に進んでいく。
「ちょ、あの子いったい何を…………ん?」
「わーお!」
腰のモンスターボールを手に……しようとして、そうだやばい控え室に置いてきたんだったと顔を青くするわたしをよそに、クダリさんはひゅうっと口笛を鳴らすとともに喜色をにじませる。なんでこのひと、わたしを差し置いてルクスがしようとしていることを理解しているのだろう。なんとなく面白くない。
だいじょーぶ、心配ない! とクダリさんがわたしの腰を抱く。このやろう調子に乗りやがって、思い切り振り払ってやろうか。そんなことを考えつつさあ行動に移そうと、ばさばさしてわずらわしいウェディングドレスの裾をさばいたとき、ルクスが宙に静止した。絶妙なバランスでブーケを支えながら、それをスッと差し出す。
ルクスの目の前には、ノボリさんのシャンデラがいた。
彼女もれっきとした独身女性である。しかも想い人は黒のサブウェイマスター。シャンデラのように強く優しく、しかもよく気も利いて美しい女性がどうして、とわたしなんかは思わなくもないのだが、逆に言えばノボリさんを任せられるのはシャンデラしかいないんじゃないかという気もし始めていて、でもノボリさんの介護、…失礼、世話係を任せるのは彼女の恋心を利用することになりはしないか。そんなふうに、義兄の恋路なんぞより真剣に、彼女の今後について思い悩んでいた矢先の出来事である。
おそらく彼女がこのブーケキャッチに参戦したのだって、ノボリさんを想ってのことに違いない。ルクスだって、それを知らないはずがないのに。
もらってください、とでも言うように、ルクスはブーケを差し出したまま、シャンデラの目の高さより一段低いところに身を下げる。紫炎が落ち着かない様子で、風もないのにぐらぐら揺らいだ。取り囲む人垣が静まり返り、けれどまるで水を得たバスラオのようにワッと沸き立つ。どこからともなく聞こえてくる指笛や、彼らを囃し立てる声の中で、しかしシャンデラはぴくりとも動かない。
「
――…あのバカ、」
「…ルクスのこと? なんで? カッコいいじゃん」
「あんなの、シャンデラに失礼です。いい晒し者じゃないですか、シャンデラはノボリさんが好きなのに」
ボールが手元にないことがまったく本当に悔やまれる。あのマセガキめ、帰ったら説教だ。
「だいじょぶだよ。シャンデラ強いもん」
「それはわかってますけど! でも、あんなの、」
「……ホラ、見てて?」
クダリさんが指さした先で、シャンデラの紫炎がぶわりと勢いを増した。あー、なんかああいうの見たことあるな。バトルレコーダーに記録された情報の中に、ああいうシャンデラいた気がする。そう思った瞬間、シャンデラの体内でぐぐっと凝縮された炎が暴発するように唸りを上げ、あたり一面を焼き尽く……さないようにきちんと調整しているのだから、ノボリさんのシャンデラはやはり格が違う。ルクスの手の中で、灰と化したブーケがぼろりと崩れた。
「あーあ、フラれちゃった」
「そりゃそうですよ。あんな、シャンデラの気持ちも考えないような真似しくさってあのガキ」
「、そのカッコでそーゆーこと言うと、普段の倍以上口わるくきこえる」
その翌日から、ルクスによるシャンデラへの猛烈なラブコールは幕を開けた。
朝、わたしたちと同じ時間に目を覚ました彼は一足先に家を出て、近くの公園や道端に生えていた花を一輪摘み取ってくることを日課とした。それを誰に渡すのかなんて疑問を挟むことすら気恥ずかしい。
基本的にはツユクサやヒメジオンなど、雑草と言ってしまうこともできるものの、可憐で愛らしい姿をしている草花を取ってくるのだが、毎朝毎朝血眼になって季節の花を探すルクスの姿は、早朝ランナーや庭いじりが好きな方々の目に留まりやすかったらしい。白とピンクのグラデーションが美しいガクアジサイや、大輪のひまわり、甘い香りを漂わせる金木犀を一枝など、「もうそれどなた様かが手塩にかけて育てたものですよね」 と言わずにはおれない花々を手にしてくることもあり、最近では両手で抱えるほどのコスモスをいただいて意気揚々と帰ってきたことすらあった。一緒に行こうとするとオーバーヒートを仕掛けられそうなくらい怒られるので、「花々をくださる場合には、どうぞこちらにお名前と連絡先をお教えください。後程お礼に伺います」 とか書いたプラカード的なものを持たせたほうがいいんじゃないかと、わたしは本気で悩んでいる。
だって、あれからもう三か月だ。
ルクスはこの三か月間、ノボリさんのシャンデラに毎朝毎朝、花を贈り続けている。
ヒトモシの頃はひどい人見知りで、ボールから出してもわたしの足に隠れようとしたりして、絶対わたしの傍から離れようとしなかったルクスが、シャンデラになった今はもはや、意中の相手に気に入られようとあの手この手の工作活動中である。親として手持ちポケモンの成長が嬉しくもあり寂しくもあり、どちらかというと末恐ろしい。おまえ一体誰に似た。
「…………なんでぼくのこと見るの」
「別に」
誰が悪いとか言うつもりはないが、影響は受けていると思う。確実に。
「それで? きゅーけー時間にシャンデラ呼び出して、はなにするつもり?」
机についてペンをくるくると回しながら、クダリさんが面白そうに笑う。詳細を告げることなく、「お昼休みに執務室ちょっとお借りしていいですか」 とこちらの要求だけ突きつけたから、当然の反応だろう。けれどここにシャンデラを呼んだことはマスターであるノボリさんにしか言ってなかったはずで、ということはきっと、わざとした忘れ物を取りにルクスを家に戻らせたことも筒抜けであるに違いない。まったく、耳が早いというか聡いというか。
「さあ、なんでしょうね。…どーせそこでお仕事してるつもりなんでしょう?」
「うん! ぼく、だまってるから気にしないで」
言われなくても無視します、そう返そうとしたときに響く小さなノックの音。元々わたしに割り当てられた部屋でもないし、どうぞ、なんて言うのは変な気がして、細くドアを開けて彼女を迎えた。驚いたように紫炎が大きくなり、即座に通常の半分以下にまで炎の勢いが弱まってしまう。優しく聡明で、ひとの気持ちを慮ることに長けたシャンデラだ、わたしに呼ばれた意味を理解しているのかもしれない。
「ごめんね、わざわざ時間作ってもらって」
ソファに座りながら言うと、彼女はお互いの手が届かない、けれど遠すぎることもない絶妙の位置でふよふよと宙に静止した。小刻みに首を振ってわたしの謝罪を辞退するのに、小さく縮こまっている。この、胸に襲来する大寒波のような寂しさ。泣きたい。
「…シャンデラの好きなポフィン作ったんだけど、要らない、かな」
床に落としていた視線をはっとあげたシャンデラは、勢いよく首を横に振ろう、と、して、でも再び固まってしまう。要らないわけではないが、欲しくもない
――あ、だめだ、そんな想像、するだけで涙出てくる。この子たちに嫌われたら、もうわたし生きていけない。
「あのねシャンデラ。もしもあなたが、わたしのことを嫌いになっちゃったんなら、仕方ないと思うんだけど、」
うわああああ、仮定の話をすることすらツラいいいいいい。
「
――もし、ルクスのことで、わたしがあなたをよく思ってないとか、嫌いになったんじゃないかとか、そういう風に思ってるんだったら、それは違うよ? ぜったい、絶対ちがう」
ルクスがこの三か月間贈りつづけた花は、一輪としてシャンデラの手に渡っていない。彼女が受け取ることを拒み続けている。流石に、驚きのあまりいきなり炎を仕掛けることはなかったが、振り払われていることは紛れもない事実であり、おかげでギアステーションはどこもかしこも一輪挿しの花であふれかえっている。最初のひと月こそ、ルクスを不憫がったり、季節感が出て逆にいいとか、何かしらの話題になっていたのだが、それも三か月目となればもはや目新しさの欠片もない。皆が皆当然のように、一週間たてば次の花がやってくるシステムを理解して(現在、五つの部署で分け合っているためである)、いよいよ花の水替えが当番制になった部署まである始末だ。……いや、うちの部署なのだけれども。
あの波乱の結婚式の直後こそ、わたしに対しては普通にしていてくれたシャンデラだったのだが、花を贈りつづけられることひと月過ぎふた月過ぎ、三月経った頃からわたしを避けるような素振りが見え始め、この二週間はほんの少しのスキンシップだってとってない。…ツラい。ツラすぎる。シャンデラを抱いて得られる癒しはシャンデラからしか得られないのであって、ルクスでは勿論だめだし、ドリュウズの背中に顔をうずめて得られる癒しではないのだ。もう我慢できない。
「ルクスのことがあろうと無かろうと、わたしはあなたが大好きだよ。……シャンデラは、わたしのこと、もう嫌い?」
今度こそ、ぶんぶんと勢いよく首を横に振ってくれる彼女が愛おしい。わたしは手を伸ばす。
「
――…おいで、シャンデラ。ぎゅってしよう?」
まあるく艶やかで、芯からほかほかしてくるようなシャンデラの体を抱え込む。わたしの背中にシャンデラの腕が回されているのを感じて、うっかり泣きそうになった。
――彼らにとって、わたしは異分子だ。得体の知れない、本能が拒絶する違和感を理性で抑え込んだその上で、腕に抱くことを許してくれる彼女たちをどうしてわたしが嫌いになれよう。そんなの、天地がひっくり返って海が陸になって月が太陽に変わったってあり得ない。
わたしのパートナーはルクスひとりだ。その彼からのラブコールを拒絶し続けるシャンデラにとって、わたしの存在はひどく厄介だったに違いない。わたしに嫌われることを怖がるシャンデラの姿なんて、それだけでごはん五杯は余裕なのだが、それが原因で彼女に触れられないなんて最悪だ。比べるべくもない。
「あのねシャンデラ。わたしは確かに、ルクスにはしあわせになってもらいたいし、もしあなたがルクスを選んでくれるならすごく嬉しい。あなた以上に素敵な女の子なんて、そうそういないと思う」
いやマジで。
「だから、ルクスがあなたを振り向かせられないなら、それはルクスの魅力が足りないってこと。あなたが悪いんじゃない。しょうがないこと。……ほら、わたしがあなたを嫌いになる理由なんて、ある?」
なんせ、敵が強大すぎる。顔はいいし仕事もできるしポケモンバトルは言わずもがな、表情は硬いものの物腰はやわらかく、慣れれば 「ああ今このひと、すげえ機嫌いいな」 くらいのことは簡単にわかるようになるし、佇まいは凛として美しく口調はバカ丁寧で部下たちにもよく慕われており、まあ酔っぱらうとただのダルマッカ製造機にしかならないし意味のわからないところでいきなりテンションメーター振り切れたり人見知り(重度のチョロネコかぶり)だったりと面倒くさいところもちょこちょこあるが、恋のライバルとしては最強最悪のラスボスと言ってよいと思う。
しかも彼女は、あのダルマッカ製造機の面倒くさいところも鬱陶しいところもすべて理解したうえで、それでもあのひとに恋をしているのだ。……いや正直、勝てる気がしないって。うん。
「それにね、こんなことあなたに言ったってルクスに知れたら、すごい剣幕で怒られるかもしれないけど。でも、“シャンデラ” はあなた一人じゃない。…そうでしょ?」
腕の中のシャンデラがつぶらなひとみでわたしを見上げる。チリリと心がわずかに焦げる気がしたのはきっと、罪悪感のせいだ。
「今はあなたに夢中だけど、どんなに頑張ってもあなたを振り向かせられなかったら、きっといつかは自分の中で折り合いをつけて、諦めることができると思う。でもそのとき、あなたに振り向いてもらおうって頑張ったルクスの努力は、絶対ムダになんかならない」
静かな口調を心がけ、わたしは甘い毒を吐く。悟られないように、気付かれないように。いつかきっと、この毒が彼女にとっての薬になることを祈りながら。
――ごめんね、シャンデラ。
「だって、ひとの心は変わるものだもの。時間や環境や出会いや別れで、自分でも思ってもみなかった方向に変わっちゃう……良くも悪くもね。
――自分で言うのもなんだけど、わたしなんてその典型だと思わない?」
くすっと笑いかけると、小さく笑った彼女が同意するようにうなずいた。…視界の端で 「わかるわかるー」 みたいな頷き方をしている誰かさんは、この際無視する。
「たぶん、ポケモンも一緒。…だから気にしなくていいの。あなたがルクスに魅力を感じないんだったら、今まで通りはねのけ続けてほしい。そしたらそのうち、あの子も諦めるから」
最後に手土産のポフィンを渡して、わたしは彼女を送り出した。
――さて、どう転ぶか。微妙なところではあるが、種を仕込むことはできたんじゃないかと思う。いざ種が芽吹いたとき、どんな子葉が出るのだろう。ひとまずわたしに打てる手は打った。きっと、結果が出るのはそう遠くない。
「のうそつきィ」
「…なんのことです?」
いただきます、そう呟いてわたしはお弁当のふたを開ける。昼休憩は残りあと15分。食わねば動けん。
「『しょうがない』 なんて、ぜんぜん思ってないくせに!」
机に肘をつき、その手のひらに頬をのせてクダリさんがチェシャ猫笑いを浮かべる。悪だくみをするときの顔だ、見覚えがある。わたしはすっかり冷たくなってしまったから揚げを口に放り込みながら答えた。
「そんなん当たり前じゃないですか。ノボリさんのシャンデラほど、強く気高く美しく、しかもそれでいて優しくよく気が利いて、何よりあんなに愛らしいシャンデラ、他にいると思ってんですか」
「んー…じゃあ、の予想では、シャンデラはちょっとぐらついてるってこと?」
「…ほんとのほんとにちょっと、かもしれないですけどね。最近できるだけルクスと顔を合わせないようにしてるらしいって聞いたんで、もしかして多少なりとも断りづらくなってきてるんじゃないかなあと」
シャンデラの、ノボリさんに対する愛情の深さはもはや測りようがない。慈母である。母なる海のような状態だ、到底太刀打ちできるものじゃないと思う。
でもだからといって諦められるものでもない。何度だって言うが、あんなパーフェクトなシャンデラはそうそういないのだ。ここでゲットせずに、この先ゲットできる見込みなどゼロに等しい。
――どうせ向こうはレベル補正でチートと名高い隠しボスである、わたしが助力して何が悪い。
押してダメなら引いてみろ、というやつだ。追われるとつい逃げたくなるが、追っかけてきていたものがなくなると、それはそれで物足りなくなるような気のするあれが、シャンデラにも有効ならいいのだけれど。
「それに、変化することを誰かが肯定してあげないと、新たな一歩を踏み出しにくいでしょう」
彼女がノボリさんに恋心を抱いていったいどれだけの月日が経つのかなんて、知りようがない。けれどそれが、ルクスと彼女が出会ってからの期間などとは比べ物にならないことくらいわかる。でも他人に対する感情なんて刻一刻と変化するものだし、時間の長さで想いの優劣が決まるわけでもない。……ノボリさんはほら、やっぱりこう、自力でなんとかしなきゃいけないと思う。うん。
「…へーえ? 何ソレ、経験談?」
クダリさんが面白そうに笑う。そりゃまあ、クダリさんの立場から聞けば面白い以外の何物でもないだろうけれども。
「ま、そんなところです」
「ふうん、そっか」
満足げな笑みを浮かべたクダリさんはしかし、何かを思い出したように口を尖らせた。クダリさんは割とコロコロ喜怒哀楽の切り替わるひとだが、これはどちらかというと機嫌がいいときの、“わざと” だろうと判断する。「構ってほしい」 ときのあれだ、こういうのを見て見ぬふりすると、後で拗ねて面倒くさい。
「でもなんか、奥さんの浮気げんば目撃しちゃったきぶん」
「ぶはっ! ……うわ、奥さん職場でダブル不倫してるじゃないですか」
「うん。しかもせっきょくてき。すっごいユーワクしてた」
「……自分はあんなこと言われたことないのに?」
「そ! ぼく、あんなコト言われたことないのに」
見上げる視線と見下ろす視線が交錯する。さて、言葉遊びの範囲をどこまでに設定したものか。
「それに、『ひとの気持ちはかわるもの』 なんだって。…どういういみだと思う?」
「
――そうですねえ。いつまでもダンナさんが自分を好きでいてくれる保証なんてどこにもないんだって、自分を戒めてるんじゃないですか?」
鼠色がまあるく見開かれる。弧を描いていたくちびるがぱくぱくと空気を食み、しかし言葉を見つけられずに引き結ばれる。白い歯が悔しそうに下唇を噛んだ。はああああ、と体中の空気を押し出すような、重く深いため息。……フ、勝った。
「…………クッキーアンドクリームでいいの?」
「はい。もちろんダッツでお願いします」
唸るような声にわざと声を弾ませて答えたら、積み上げられた書類が 「帰ったらかくごしててよ」 と呻いた。……さて、仕事仕事。
翌朝。わたしは通常勤務のために出社してくるひとたちを掻き分け、ギアステーションの職員通路を疾駆していた。なんだなんだと興味深そうな視線を振り払い、走ってきた勢いを殺さずに鉄道員事務室のドアを開け放つ。
「なんや、朝っぱらからうるさいねん。廊下走んなや!」
遅番の最中、酔っ払いに絡まれたらしいクラウドさんの機嫌は悪い。けれどわたしはクラウドさんの手を取った。室内にいた鉄道員さんたちの怪訝そうな視線と、なんやこいつ、と言わんばかりの胡乱な視線を痛いほど感じるが、今はそれどころではない。落ち着いて、冷静に、けれど情熱をもって伝えなければ。
「……ルクスが、花持って、かえってこなかったんです」
「…ああ? なんやそれ、ついに諦めたっちゅーはなしか?」
「いえ、今朝はトレニアの花を持っていきました」
「
―――…おい、それまさか、」
こくり、とうなずく。
…っ、よっしゃあああああ! その歓声とも雄叫びともいえる祝福の声は、室内はおろか通路を抜けて隣三つの部署にまで届き、そこから爆発的に情報が拡散することで、一瞬にしてギアステーション全職員の知るところとなった。
後からノボリさんに聞いた話によると、その日、通路ですれ違う職員に不必要なほどの深いお辞儀をされたり、一服どうですかとやたら煙草をすすめられたり、食堂ではエビフライがまるごと一本オマケされたりしたという。あれはいったいなんだったのでしょう、と首をひねるノボリさんに真実を告げてよいものか、わたしはいまだに悩んでいる。
リクエスト#2:ルクスの恋模様
2012/06/30 脱稿
2012/07/08 更新