15/09/15(Tue)
reported by clerk
おかしい。絶対おかしい。
なんというか、こう、口には言い表せない妙な違和感がここ最近たまにあるなとは思っていたのだが、こうしてスケジュール帳を開いてみると、やっぱりおかしいなと思う。夏から秋にかけての過渡期である今、昼間と夜の温度差にやられて風邪でも引いたのだろうか。…まあ確かに、どういうわけだか知らないが起きたらタオルケットが床でぐしゃぐしゃになっていて、朝方ちょっと肌寒いような気がしないこともないけれど、いよいよ風邪をひいてしまうほどではないはずだ。たぶん。クダリさんだって別に体調が悪いようなことは言ってなかったし。
昼休み、少し早めに食堂から引き揚げてきて、わたしは机でスケジュール帳を広げていた。薄らぼんやりと眠たくて、思考にうまく集中できない。まあ、ご飯を食べた後にまぶたが重くなるのはそんなに不思議なことではないし、週の真ん中ということもあって、腹の底にどろりと澱むような疲労感があるのも頷ける。でもこう、なんというか、そわそわと落ち着かないのにはあまり馴染みがなくて、変な感じがする。
「、ドーしたノ?」
不思議そうな顔でわたしを見下ろしていたのはキャメロンさんだった。よほど難しい顔でもしていたのか、キャラメロンさんは顔を上げたわたしを見て苦笑いを深くし、自身の眉間に指で触れる。つられるようにわたしも自分の眉間をなぞったら、それとわかるほど皺ができていた。…なるほど、どうしたのかと声をかけざるを得ない顔だ。
「俺でダイジョブな話なら、ゼンゼン聞くヨ?」
「や、ちょっと……あー…まあ、キャメロンさんならいいかな…」
ナニナニ? とわざとらしく首をかしげるキャメロンさんと、広げたスケジュール帳を覗き込む。
「いや、今月遅れてるんですよね」
「…………エ、なにガ?」
「やだなあ、キャメロンさん。女子が手帳開いて今月遅れてるっつったら、そんなんひとつしかないでしょう」
全部言い切る前にキャメロンさんがお茶を吹いた。腹を抱えるようにしてまで盛大に咳き込み、事務室中に響きわたるほどの音を立ててむせ返っている。おいおいやめてくれよ、鉄道員さんたちの視線がこっちに……あれ、なんで向こうの席でトトメスさんまでむせてんの? あんまり派手にキャメロンさんが咳き込むから、ほんの冗談のつもりで 「ツバは飛ばさないでくださいよー」 と軽口を叩いたのに、涙目で結構キツめににらまれた。…わたし、そんな怒らせるようなこと言った?
「あ、わかった。キャメロンさんそういうこと言われて、肝が冷えたことあるんでしょう」
「チ…っガわないケド、いまはソレとコレ関係ナイ!」
あ、違わないんだ。
「サッサと病院行きなサイ!」
「えええ…最近忙しかったからおうちでゴロゴロしたいんですけど……」
「イイカラ! …てコトはナニ、もしかして簡易検査トカもしてナイの!?」
「えへっ」
「今日ゼッタイ買って帰りなサイ、絶対! ……メンドくさいってカオしないで!早く帰れルよーにフォローするカラ!」
じゃあやります、と言ったら大袈裟すぎるくらいの溜息と共に、キャメロンさんがその場にしゃがみ込んだ。後ろ頭を乱暴に掻くから、綺麗な金色の髪が手袋の下でばらばらと乱れる。ありゃ、割と本気で怒らせちゃったな、失敗失敗。
「
――デ?」
「で?」
「
――…だカラ、身に覚エはあるノ?」
前言撤回、怒らせてなんぞいないわこれ。さすがにちょっと言いにくかったから、わざとらしくしゃがんで声を潜めたかっただけだわコイツ。…多分このひと、こんなふうに幾度かピンチを乗り越えるなり、やり過ごすなりしてきたんだろうなあ。
「あー……そう言われれば、確かに……あのときかな…え、でもどうだったっけな……あれー?」
「ウン、ワカッタ、もうイイ。ゴチソウサマ」
顔の前でおててのしわとしわを合わせてなーむー、じゃなくて、もう勘弁してください、とでも言いたげにキャメロンさんが白旗を振る。先に聞いてきたのはキャメロンさんなのに、と不服を装ってつぶやいたら、「俺はマダ死にたくナイ」 と赤いんだか青いんだかよくわからない顔で応じられた。またまたそんな大袈裟な、とは思ったのだけれど、去り際、
「今日早く帰れるようにフォローするから、今の話は全部なかったことにしてね」
と、やたら流暢な言葉で念押しされたので、絶対どこかのタイミングで話してやろうと思う。
家の玄関に、わたしの顔より大きいであろう革靴が二足並んでいた。…いや、厳密に言えば、きちんと並べられていたのは一足で、もう一足はぽいぽいっと脱ぎ捨てたんだろうな、という形のまま玄関のあっちとそっちに転がっている。
――ということは、先にこの家の鍵を開けたのはお義兄さんのほうで、現在の家主はそのあとに駆け込んできたということだ。だって、あの几帳面の塊みたいなひとが、この惨状を放っておくわけがない。
「…ったくもー」
腰を折り、かかとを揃えて並べていると、廊下の向こうからひょっこりと顔がのぞいた。
「、おかえ………ごめんなさい」
「次から気を付けるよーに」
「はあい」
エプロン姿でぱたぱた廊下をわたってきたクダリさんの腕が、しかし悪びれもなくわたしの腰にまわる。寄せた頬に 「おかえり」 と言葉が吹き込まれ、お決まりの言葉を返せば満足げに表情がほころんだ。ゆるゆると力を抜いて、こちらにわざと体重をかけるようにするクダリさんに抵抗すべく、彼の肩に触れた腕をつっぱり棒のようにする。小さく笑うクダリさんの息が、耳を掠めてくすぐったい。
「今日おそかったね。かいもの?」
「あー、連絡遅くなってすいません。ちょっと野暮用で…」
「ふうん。言ってくれたら付き合ったのに」
「…そーですね。もしかしたら、次からはお願いするかもしれません」
「? うん、まかせて」
開いたままで放置されたドアの向こうから、だし汁のいい匂いが漂ってくる。甘辛いしょうゆの香りが鼻腔を満たし、耳を澄ませばぐつぐつと何かを炊いているらしい音。夕食のメニューに想像をめぐらせた途端、ぐうううう、とお腹のクイタランが切なげなうめき声をあげ、あ、これはたぶんバレたな、と思った瞬間吹き出された。くつくつと喉の奥で笑う姿が腹立たしい。
「
――…っふふ、えっとね、きょうはおでん!」
「おでん? この季節にですか?」
「ノボリがね、大根たくさんもらったんだって。でも暑いだろうから、ビールたくさん冷やしてある」
「! …っくぁあああ、ビール!そっかあ、ビールいいなあ……!」
やたらとビールという単語に反応を見せるわたしを訝るように、クダリさんの鼠色が眇められ、首がこてんと傾げられる。笑顔のままではあるが表情は困惑気味で、「そんなに好きだったっけ?」 と言いたそうだ。好きか嫌いかで言ったら好きだけれども、どっちかというと清酒の方が好きなわたしだが、今この場は死ぬほどビールが飲みたい気がする、いや浴びるほど飲みたいとかいう意味ではなく。
――少しくらいなら大丈夫って先生も言ってた……けど、やっぱダメだよなあ。どうせやるなら今日からのほうが区切りがいいし、負担になることはやっぱりできるだけ避けるべきだ。
「………麦茶って残ってましたっけ?」
「え、うん。…飲まないの?」
「あー、まあちょっと」
さてと、じゃあノボリ義兄さんが夕飯の準備をしてくれている間に、ひとっ風呂浴びてきますかあ。クダリさんの腕の囲いから抜け出し、居間へと向けた足が引き留められる。捉えられた手首からたどった視線の先で、クダリさんのひとみが揺れた。きゅうっと眉根を寄せ、薄いくちびるをわずかに噛んでいる。駅のホームでよく見かける、親とはぐれた子どものような顔。
このひとは相も変わらず、不安を隠すのがヘタクソだ。
「ごはん食べたら、ちゃんとお話ししますって」
「……いまじゃ、ダメなの」
手の甲をするりと撫でたクダリさんの長い指が、わたしの指と指の間に滑り込む。なんだっけ、赤ちゃんがよくやる、指をぎゅっと握りこんで離さないやつ。ああいう感じ。
自由な方でふたをするように、クダリさんのそれに手のひらを重ねる。浮き出た筋を指でなぞると、やがてゆっくりと力が抜けてそれと共に背中が曲がり、眉が八の字を描き、絡められていた指からすうっと一気に体温が逃げていく。不安より、居たたまれなさが感情を占めはじめた証拠である。おずおずと逃げ出す手のひらを引き留めるように今度はわたしから指を絡め、ふうとひとつ息をついた。小さく跳ねた肩には、気付かないふりをする。
「話が長くなりそうだから、後でするだけです。…なにビビってんですか」
「び、びびってなんかないもん」
「…へーえ、まあいいですけど。ほら、いつまでもわたしたちがこうしてると、キッチンのお義兄さんが聞き耳立てて、おたま持ったまま固まっちゃいますよ」
「わたくしは聞き耳など立てておりませ………あ、」
ふたりはビール、わたしは麦茶で季節外れのおでんを平らげた後、食後の一服のために胸ポケットから煙草を取り出し、携帯灰皿を手にベランダへと足を向けたノボリさんを引き留めた。食器の後片付けを手伝ってくれようとするクダリさんも席に座らせて、湯気のあがる湯呑みを両手で包み、お二人と向き合う。
でかい図体を、得体のしれない緊張で縮こまらせている三十路越え×2 という姿は正直笑みを誘ったが、笑いだしたら集中砲火を浴びること請け合いだったためどうにか堪える。ス、とほんのわずかにクダリさんの目が眇められ、あ、バレたなと直感。彼が不満を口にするより先に声に発する。
「あのですね、…ご報告が、ありまして」
「はい」
「……………………」
「
―――…ろくしゅうめ、だそうです」
「「……はい?」」
「だからその、ユニラン……や、もうダブランかな、みたいな、あれ」
沈黙。
昔と変わらず、ぽかんと口を開けて驚いている顔は瓜二つである。もしかして、ぱちりぱちりと瞬きをするタイミングまで一緒なんじゃないかと思ってよくよく見てみたが、さすがにそれは違っていて安堵するやら残念だと思うやら。
「…それって、」 「…それは、」
「赤ちゃん、ってこと…?」 「で、ございますか…?」
なぜ途中までそれぞれが発していたセリフが、当たり前のように合流してひとつになるのだろう。そんな下らないことを考えながら浅く首肯した。
………? いつまで経っても返ってこない反応にいくらわたしだとて動揺を感じ、恐る恐る視線を上げたのだが、それが最後の自分を救うタイミングだったと思う。わたしは両手で耳をふさいだ。だってまだ鼓膜を失いたくない。
「ブ…ブラボーッ!」
黒が叫んだ。やかましい。勢いよく立ち上がりすぎて、割と派手な音を立てて椅子が背もたれの方向に倒れてしまっているのだが、欠片もそれを省みようとしない。フローリングに傷がついたらどうしてくれる、請求すんぞこのやろう。
「ブラボー、ブラボーでございます! こんな早期に赤ん坊を授かろうとは、まったく本当にブラボー、素晴らしい! 男の子ですか、女の子ですか? いえ、わたくしはどちらでも勿論構いません、ただ健やかであればそれに勝るものはないのでございます! ああしかし、男の子は女親に、女の子は男親に似ると申しますから、のように凛々しく、クダリのように愛らしい子が生まれることはもはや必然! …はっ、そうですとても大切なことを失念しておりました、ご芳名を考えなければ 「ノボリうるさいしばらく黙ってて」
クダリさんは一言そう吐き捨てるや否や、ガラ空きになったノボリさんのわき腹に自身の肘を埋め込んだ。しかももう片方の手のひらをきちんと添えての肘鉄である。ぐうっ、と鋭く呻いたノボリさんが床にしゃがみ込み、テーブルの影に隠れてわたしの視界から消える。平和だ。
「ウソじゃ、ないよね」
「“隠し事は時と場合によるけれども、嘘はつかない” が我が家のルールだったはずですが」
「…うん。ぼくのコ、だよね」
「ぶっ飛ばされたいんですか」
「……やばい、どうしよ…」
「なにが」
「
―――…しぬほどうれしい」
クダリさんは絞り出すようにそれだけ言うと、机に両手の肘をついて完全に手のひらで顔を覆ってしまった。隙間から、真っ赤になった耳がのぞく。
それを見て吐いた息がかすかに震え、わたしの方こそ、柄にもなく緊張していたことを知る。嫌な顔をされるとは欠片も思っていなかったし、きっと喜んでもらえるだろうとは思っていたが、それでも根拠のない一抹の不安は市販の検査薬で陽性反応が出たときから抱え込んでいたわけで、今ここでやっと、心の底から安堵できた気がする。吐息すら凍る冬の朝、湯気の昇るお味噌汁をのどに流し込んだ時のような、じわりじわりと体に染みわたるなにかあたたかいもの。……たぶん、しあわせ、とかって名前の付くなにか。
「…そりゃよかった」
「、ありがとう」
首を横に振る。だって、わたしひとりの力じゃない。
「こちらこそ。…これからいろいろ大変ですよ、おとーさん」
「うん。ぼく、すっごくがんばる! だから、いっしょにがんばろーね、おかーさん」
「とりあえず、靴をそろえて部屋に上がるところから、よろしくどうぞ」
「…はあい」
笑みと共に目を伏せたクダリさんが静かに立ち上がる。机を回り込んできて、何をするかと思いきやわたしの座る椅子の横で膝立ちになり、そろりとわたしの腰に腕を巻きつけて耳を寄せてきた。嗚呼悲しいかな、思わず下っ腹に力を入れて少しでも引っ込めようとしてしまうこの反射神経。無駄だとわかっていてもやらずにはおれない、この悲しい性。
「……ごろごろゆってる」
じゃかあしい、ごはんを食べた直後に胃腸が活動するのは、生き物として当然だ。
「…ね、男の子かな? 女の子かな?」
「わかりませんよ。まだユニランとダブランの間くらいですもん、きっと」
「はどっちがいい?」
「んー、そうですねえ……女の子、かなあ。女の子の方が手がかからないって言いません?」
らしい、と呟いて、クダリさんはそのまま目を閉じてしまう。…自分の腹の奥に、別の命があるなんて、まるで嘘みたいだ。これまでたくさんの命を消費するばっかりだったのに、今はわたしと切り離せないとしても、でも全然異なる命がそこで息づいているなんて。
世のお母さんってすげえ。心の底からそう思う。
「
――…ノボリさんもどーぞ」
「えっ、いや、わたくしは、その…!」
「床に転がったままガン見される方が気色悪いです。別に気にしやしませんから」
「…でっ、ではあの、コホン、失礼致しまして、」
「ノボリは手ぇ当てるだけだからね、言っとくけど」
「わ、わかっております!」
湯通ししたエビのようにサッと紅潮したことから考えて、多分クダリさんが釘を刺さなきゃ同じことしようとしたなコイツ。まあ別に構わないですけど、と言おうとした口は鼠色に縫いとめられる。要らないこと言わなくていーの。イエス、マイロード、仰せの通りに。
「はあ………ということはわたくし、伯父さんになるわけでございますか」
思わず吹き出してしまったわたしに罪はないと思う。クダリさんだって笑ってるし。…いやこのひとは大抵いつも笑っているけども。
ひとの腹に手のひらを添えて、あんまりにもしみじみとした、言うなれば日が西に傾き始めた縁側でカナカナカナと鳴くひぐらしの声を聴きながら、過ぎ去りし少年時代を思い返しているような声音でそんなことを言うもんだから、これが笑わずにいられるわけがない。
「ノボリ伯父さん、カノジョいないの?」
「ノボリ伯父さん、お義姉さんまだですか?」
「……あなた方に伯父さん呼ばわりされる筋合いはないのですが」
苦虫をかみつぶしたような顔でノボリさんが唸る。まあそんなものがいれば、もらってきた大根の処理に困って、弟夫婦の家に大根持参で訪れ、お手製のおでんを振る舞うわけがないとわかってはいるのだが、たまにつついておかないと、そのうち本気でシャンデラを嫁に迎えそうで怖い。ノボリさんのシャンデラはうちのルクスがお嫁にもらうのだ、ノボリさんなんぞにやってたまるか。
「みんなにほーこくしなきゃね」
「産休とかの申請も早めにした方がいいですよね。引き継ぎとかもしなきゃですし」
「ええ。全力でバックアップするためにも、早めに申請してくださいまし。
――…まあ、しかしなにより、」
なまえ、だよね。
名前、ですか。
お名前でございます。
――この日から、三つ巴の命名闘争が勃発。血で血を洗う子どものケンカが幕を開け、最終的に全手持ちポケモンたちによる厳正な審査の結果、ノボリ伯父さんの案が採択されたことをここに記しておく。……次は絶対負けない。
リクエスト#1:妊娠発覚直後
2012/06/27 脱稿
2012/06/30 更新