14/12/09(Tue)
reported by clerk
一日の業務を終えて家に戻ると、あるはずのない革靴がきちんとつま先をそろえて並べられていた。玄関や靴箱に、このサイズの靴が存在していることにはようやく慣れてきたが(正確には、この玄関で 「ただいま」 と声をかけることにようやく慣れてきたと言った方が正しい)、先ほど職場で別れてきたはずの靴が玄関の隅っこにちょこんと鎮座している事態は、まだうまく飲み込めそうにない。まあ、唖然とはしているが愕然とはしていないので、多分この状態にもすぐ慣れるのだろうが。
「
――…、おかえりなさいませ」
「…ただいま戻りました」
リビングの電気をつけると、暗さに慣れた目がわずかに眩んだ。荷物を適当に置きながら振り返ると、ダイニングテーブルでノボリさんがのびている。手で目元を覆っている様子からするに、どうやらノボリさんも明るさに目が眩んだらしい。そりゃ夜八時にダイニングの補助灯だけを点けて飲んでりゃ、普通の明るさで眩暈も起きるでしょうよ。
「……少し、ご帰宅が遅かったようですが…、」
「最後の最後に、ホームで失せ物をしたと言うお客様がいらっしゃって。手が空いていた職員総動員で探し物です」
「見つかったのですか?」
「ええ、ご自宅で。
――…持ってくること自体、お忘れだったそうです」
他には特に異常なく、とそう言えば、アルコールで赤らんだ目元が安堵したようにくつろぐ。休みの日、しかも滅多にない連休の日くらい仕事のことなんか忘れればいいのに、とわたしなんかは思うわけだが、そういうわけにもいかないのだろう。生きがいや遣り甲斐と仕事が直結しているのは、ある意味大変そうだなあと思う。わたしにはちょっと無理そうだ。
「ノボリさんなんか食べました? 今夜はひとりだし、面倒だったんでわたしお惣菜買って帰ってきちゃったんですけど」
「……ああ、クダリは本日夜勤でございましたか」
「食べてないなら、諦めて適当になにか作りますが」
わたしの物言いに、ノボリさんは小さく笑った。ノボリさんの手の中で、グラスに浮かんだ氷がカランカランと涼やかな音を立てる。…飲むから要らないってかこのやろう。ラベルから判断するにどうせいいお値段のお酒に決まっているのだ、自分ひとりで飲み続けようなんてそうは問屋が卸すまい。
「
――…夕飯にするつもりだったお惣菜提供したら、わたしも飲んでいいですか」
「…ふふっ。どうぞ、お好きになさい」
半額のから揚げと三割引きのポテトサラダ、あと冷蔵庫のなかにあった残りわずかな切り干し大根ともらい物の生ハム、それにさけるチーズ。いざテーブルの上に並べてみたら、高級ウィスキーの肴にするに相応しくない品が居住まい悪そうに顔を突き合わせていて(もらい物生ハムのデカい顔ったらない)、出したわたしも流石にこれはないなと思ったのだが、ノボリさんが嬉しそうに切り干し大根をつついていたのでもういいことにした。このひと相手に外ヅラを繕ったところで何になる。
「、どうされます?」
「あー…明日も仕事なんで、水割りで」
「かしこまりました」
かち割り氷をグラスいっぱいに転がし、濃い琥珀色の液体を注ぐ。トクトクとガラス瓶の口で奏でられる音がどこか艶めかしく、わずかに溶けた氷がグラスの中で軽やかに砕ける様子に思わず喉が鳴った。マドラーでかき混ぜられるたびに、果物のように甘く、華やかな香りが強さを増していく。溶けた分だけさらに氷を追加し、冷えたミネラルウォーターを注いで出来上がり。「どうぞ、」 という言葉と共に与えられる時間の、この優雅さと言ったら!
「いただきます」
「ええ、どうぞ」
――…あー…疲れた体にアルコールが染み渡るわあ…。思わず感嘆の吐息を漏らしたわたしを見て、ノボリさんが穏やかな笑みをにじませる。どうやらわたしの反応にご満足いただけたらしい。肘のあたりまでワイシャツを腕まくりしたノボリさんはご自身のグラスを空け、次の一杯に取り掛かる。……休日前のオン・ザ・ロックが、これほど似合うひともそうそういまい。つーかコイツ、今夜自分の部屋に帰る気ねえな。
「……今度は、デパートの販売員の方でしたっけ」
「…………………」
ノボリさんはへの字に口をつぐんで何も言わない。けれど手元で、アイスペールから取り出し損ねた氷がグラスに爆ぜる。
「綺麗で優しそうなひとですねって、クダリさんとも話してたんですけど」
「………お綺麗で、心優しい方でした」
「ほほう。それで、なんて言われたんです?」
「
―――…『ノボリさんは、お仕事とポケモンのことばかりですね』 と、言われました…」
あちゃあ。わたしは水割りのグラスを手にしたまま、片方の手で額を覆って溜息をつく。おそらく “仕事とわたしと、どっちが大切なの” と言いたいのを成人女性の理性とプライドでぐっと堪えた結果、このセリフになったのだろうがこれはいけない。だってこんなの、「ツマラナイひと」 と言い放っているも同然じゃ……あ、そこまでは言ってない?
「観劇や食事をご一緒した時も、相手の興味に合わせようとわたくしなりに話題を選んだつもりだったのですが……またダメでございました」
「はあ…それだけ注意してそう言われるって、たぶんよっぽど………なんでもないですすいません」
ユラリと鉛色のひとみが閃く。いかん、ちろちろと舐めるように燃えていた火に油を注いでしまった。テーブルの上に勢いよく置かれたノボリさんのグラスが、ガシャンと大きな音を立てる。
「はポケモンに対して異常な執着心があるから気にならないだけでございます。クダリだって、口を開けばバトルとポケモンのことばかりではございませんか!」
「ちょっと、言うに事欠いてわたしを異常呼ばわりするのやめてくれませんか。ここが誰の家だと思ってんです?」
言外に追い出しますよと言い放てば、ぐっと言葉をのんだノボリさんが不満げな顔でグラスを煽る。そういう、いかにも納得できませんって表情はまったく嫌になるほど兄弟そっくりだ。一番最近ケンカしたとき、その表情にあんまり腹が立って何の前触れなく目つぶししようとしたら本当の本当にガチギレされて、「もう二度といきなり目つぶししません」 という我ながらバカバカしい内容の誓約書まで書かされたのだが、お兄さんにも同じことしたら同じように怒られるのだろうか。好奇心でちょっと手がむずむずする。
「てゆーか、クダリさんってあんまりわたしにバトルとかの話しませんよ」
「……えっ」
「だってわたし、ポケモンは好きですけどバトルはよくわかんないですもん。だから、よっぽどすごい挑戦者が来たときとかだけ興奮気味にわーってまくし立てるの聞いてますけど、でもそのときもわたしが分かりやすいように、技の構成がどうのっていうより、繰り出されたポケモンがどれだけ魅力的だったかってことに主題をおいてお話ししてくれますし」
「…………………」
「“相手の興味に合わせる” って、自分にとって興味のあることを、相手の興味にすり合わせて、相手の興味関心を引き出していくってことじゃないんですか?」
「…………………」
苦虫をどれだけ噛み潰せばそんな顔になるのだろう。子どもが見たら五秒で泣き出しかねない顔だ。般若だ、般若がここにいる。
つやつやとして、光をまあるく反射し始めた氷の浮かぶ水割りを一口。こんなにおいしいお酒を合わせられて、顔の造作もよくて収入も安定してて、性格だって決して悪くないひとが、なんでわたしを相手取って女にフラれた愚痴なんぞをこぼしているのだろう。世界はまったく、どうしてこんなに難しい。
……まあでも、だからこそうまくいかないのだろうな、ということもなんとなくわかる。一度クダリさんと一緒に紹介されて、四人でご飯を食べに行ったことだってあるひとだったのだが、そのときも見たところこう…クダリさんがいたことやお酒も少し入っていたことで、幾分くつろいでいた様子のノボリさんにちょっと驚いていたようだったし。たぶん、“サブウェイマスター、ノボリ” というイメージが先行しているのだろうと思う。おあつらえ向きに口調も表情も硬いひとだから、イメージを固めやすいというか。
で、他人の感情や思考の機微に聡く、基本的にチョロネコかぶりなノボリさんのことだ、無自覚に自分が相手に持たれているイメージを崩すまいとして振る舞い、けれど割と簡単にぼろが出るからそこで向こうに違和感が発生してしまう。それだってうまくやれば “ギャップ萌え” だなんだとリカバリーはできるはずなのに、無理に繕おうとするから負のループが見事完成。あとは落ちるところまで緩やかに螺旋階段を下っていって、はいサヨナラだ。不器用にも程がある。
「、教えてくださいまし。わたくしの何がいけないのです?」
「えええ…なんですかそれめんどくさい……」
「次にまた面倒くさいなどと申しましたら、しばらくオノノクスとは会えないと思ってくださいまし」
「いや、何がいけないってことはないと思うんですよね」
チーズの一端をつまんで、繊維の方向につうっと裂く。顔を上向きにして垂らしたチーズを口で迎えにいけば、スモークされたチーズの香りが口中に広がり、目の前には不機嫌そうなノボリさん。「お行儀が悪うございます」 と顔にでかでかと文句が書いてあって、けれどご自分でも無理難題を押し付けているとわかっているのか、口にするつもりはないようだ。交換条件というやつである。…まあ、目が口ほどに物を言っているけれども。
「またそのような、思ってもいないことを……」
「いやいや、本当ですって。ノボリさんは大変素敵で、魅力ある男性だと思いますよ、うん」
そう言いながらグラスを傾けるわたしの視線の先で、鉛色のひとみがすうっと細められる。片手にグラスを掴んだまま、もう片方の手がご自身の首元にのび、ネクタイの結び目に触れた。わずかにくつろげられていたネクタイを、手とは反対の方向に首を傾けて乱暴に緩める。
――…いやいや、わたしに対して 特性:メロメロボディ を発動してどうするんですか、と言おうとしたわたしのくちを視線で縫いとめ、ノボリさんがやおら口を開いた。乱れた髪を撫でつける腕のラインがなまめかしい。
「……でしたら、」
ノボリさんのグラスの中で、小さな音を立てながら氷がはぜる。
「
――…わたくしと、一晩の過ちを犯してみますか?」
「…………………」
「…………………」
「………あ。朝出したしば漬けの残りが冷蔵庫にあるんですけど、ノボリさん食べます?」
「……………頂きます…」
なに馬鹿なこと言ってんだ、あのひと。女にフラれすぎて、遂にあたま沸いたんじゃねえの。
冷蔵庫から目的のものを取り出してダイニングを振り返ると、ノボリさんは焼いたモッツァレラチーズのように、テーブルの上で溶けていた。そんなにひどい自己嫌悪に襲われるくらいなら言わなきゃいいものを、なんであんな、わたしに強請るネタを与えるようなことを言うのだろう。アルコールの力って本当に怖い。でも、酒癖がそんなに褒められたものじゃないと自覚があるはずなのにそれでも飲むのだから、やっぱり本当に厄介なのはノボリさん自身なのだろう。
「何かおっしゃりたいことがあるなら聞きますけど」
「………申し訳ございませんでした…」
「他には」
「…あの、クダリにはできればご内密に…」
「そうおっしゃられましても、わたし、できるだけクダリさんに隠し事したり、嘘ついたりとかしたくないんですよねえ」
テーブルにべったりとうつ伏せたまま、ノボリさんがぐすぐすと鼻をすする。椅子に座り直し、わたしはパリポリとしば漬けをかじった。
「あ、そういえば新しい炊飯器欲しいなあ。なんかあの高いやつ」
「………明日にでも買ってまいります…」
まあ、家にやってきた新しい炊飯器を見て、「これどうしたの?」 と言うに決まっているクダリさんに、事のあらましを一から十まで説明するだろうから、ご内密にというわけにはいかないんですけどねてへぺろ! だって別に、クダリさんには言わないという約束をノボリさんと交わしたわけじゃない。わたしはただ、新しい炊飯器が欲しいなあと独り言を言っただけ。……そうでしょう?
「はあ……、踏んだり蹴ったりでございます」
「冗談でも、そーゆーこと言うから悪いんですよ。どうするんですか、わたしがその気になったら」
「…なるんですか?」
「ならないですけど」
このタイミングで、安心した、とでも言いたげにうんうん頷くのもどうなんだ。いや、残念がられても気色悪いけれども。心底気味が悪いけれども。
「つーか、さっきのあれなんなんですか。ホストにでも転職なさるんです?」
「……最近、ドラマでああいう場面を拝見しまして、その…」
「はっきり言わせてもらいますけど、ドラマの再現を現実でやってる時点でイタイです。ノボリさんはなんもしなくたって女性に対するセックスアピールは十分なんで、そういうとこをこれ以上レベルアップさせなくていいんです。様になりすぎててドン引きしました」
「………申し訳ございません…」
「いいですかノボリさん。世はギャップ萌えの時代ですよ、ギャップ萌え。普段バカみたいにきっちりしてるノボリさんがそういう一面を見せると、女子は “わたしに気を許してくれてるのかな?” って自分で勝手に想像して自分で勝手にキュンとする生き物なんです。そういうところに引っかかる女子を、さっきみたいにうまいこと引っかけてください。そしたら必然的に、お仕事以外の話でも沈黙を埋められますし、“思ってたようなひとじゃなかった…” とかって、退職理由みたいなこと言われるの、少しは減ると思いますから」
「わ、わたくしは別に、引っかけようとして引っかけているわけでは…」
「へーえ、じゃあなんでドラマの再現なんて痛々しいことなさってるんですか」
「……………………」
「下手な鉄砲、数撃ちまくるより、これと定めたひとを確実に、一撃で仕留めるようにしてください」
はい、と神妙にうなずいたノボリさんだったが、しばしの沈黙を挟んでぽそりと言った。
「…それだとまるで、クダリとのようでございますね」
「ぶっ飛ばしますよ」
執務室の前でノックを三回。やや間があって、ふあい、と聞こえてきたあくび交じりの返答に苦笑が漏れた。どうやら机にべったりとうつ伏せているらしく、出入口のすぐそばからはその姿をきちんと確認できない。時計を見やり、まだ既定の就業時間に至らないことを確かめてから、わたしは机に近づいていく。
「オハヨウゴザイマス。クダリさん、もうとっくに朝ですよ」
「んー……わかってるけど、ねむいものはねむいんだもん…」
「……仮眠は、一応とられたみたいですけど」
おそらく寝癖だろう、後ろあたまからぴょこんと飛び出ている灰色の髪をそっと掬う。何度撫でつけてもわたしの意に添おうとしない髪の一束を、最後にぴんと指ではじいた。うつ伏せたままの状態で、クダリさんがもごもご言う。
「いーの。ぼうしかぶれば、どーせわかんないもん」
「…位置的に微妙なラインなんで、うまいことやってくださいね」
しょうがない、襲いくる眠気をどうしても堪えられないという鉄道員さんたちに評判の、特別苦いコーヒーを後で持ってきてやろう。含まれているカフェインで眠気を抑えるというより、しばらく口に残るほどの苦さで眠気が飛ぶという代物である。
ようやくむっくりと体を起こしたクダリさんが、わたしを見上げて 「おはよ」 と笑う。
――今日もとりあえず元気なようで、一安心といったところである。
「ね、ノボリまたフラれたの?」
興味津々、というよりはオイオイまたかよ、という呆れをにじませた声音だった。ご不在であるノボリさんの机に書類を重ねつつ振り返ると、机に肘をつき、そこにあごをのせたクダリさんがわずかに眉根を寄せている。お世辞にもご機嫌とは言えない表情であるがまあ、そんな顔になる気持ちは痛いほどわかる。
「みたいです。昨日、家に帰ったら食卓でウィスキー煽ってました」
「はーあ…、やっぱり」
「ノボリさんから連絡入ってたんですか?」
ちらり、とクダリさんが不可思議な視線を投げてよこす。
「うん。メール来てた。……『一晩をお借りします』、だって」
「…言い得て妙ですね。クダリさん、それになんて返信したんです?」
「『ひさしぶりにハッシュ・ド・ビーフ食べたいなあ』 って」
「おー! ぐっじょぶです、クダリさん」
ハッシュ・ド・ビーフで売り渡されたことは、むしろ光栄である。あの約束を本当に果たしてくれるなら、ちょっとお高い炊飯器も我が家にやってくるはずで、ということはおそらく帰り着いたころにはおいしいごはんと、素敵に煮込まれたハッシュ・ド・ビーフが我らを迎えてくれるはずである。
――何の打ち合わせもしていない上に、お互いが自分の欲望に添った行動をとっているだけにも関わらず、なぜか利害が一致する。運が良かっただけとも言えるこの関係が、そのくせどうしようもなく心地いい。
含み笑いを漏らすわたしに、椅子に座ったままクダリさんが腕を伸ばしてきた。手袋ごしの長い指が口の端に触れる。
「なあに? すっごいしあわせそーなカオ」
「あれ、そうですか? 今日も一日がんばろうと思っただけだったんですが」
「…ゆーはんのかいもの、行かなくていいから?」
「…夕飯の買い物、行かなくてよさそうですから」
ちら、と鼠色が部屋の壁掛け時計をとらえる。つられるように視線を時計に向けたわたしににんまりと笑ったクダリさんが、音もなく椅子から立ち上がった。スッと視界に影が差す。細められた鼠色が伺いを立てるようにこちらを見上げつつ、時間を確認して苦虫を噛むわたしを見て、吐息を震わせるように笑う。
「なにがおかしいんですか」
「……別に、なんにも?」
体温を伴った影が近づいてくる。言い訳が立たないのだから、勝ち目はない。
ため息交じりに、わたしは大人しくまぶたを伏せる。
リクエスト#3:ノボリさんのその後(part.1)とさんのデレ
2012/07/05 脱稿
2012/07/08 更新