14/04/09(Wed)

reported by clerk



 片割れのいない執務室で、バトルレポートの作成と舞い込む確認書類を黙々と処理していたノボリのバトルレコーダーが唸り声を上げた。何事かと画面に目をくれれば、表示されているのは実弟のそれである。時刻はもう23時に差し掛かろうという深夜。ノボリは小さく息をつくとともにペンを置いた。よもや洗濯物が見つからないなどという連絡ではあるまい。

――クダリ?」
『ノボリ、……今ちょっといい?』
「……仕事中ですので、手短にお願いいたします」

 小さくうなずいたクダリはなんというか、疲弊しきっているように見えた。連絡してきたのはそちらのくせに、口を開けたり閉めたりして何事かを言いよどんでいる風だし、着ているものもきちんと襟があってどう見ても寝間着のそれではない。クダリ自身は光源の真下にでもいるのか変に明るく、一体どこにいるのかうかがえないほど周囲の闇が濃い。とりあえず、仕事終わりにも関わらず家にいないこと……それも、おそらく外にいることだけをノボリは理解した。
 何があったか知らないが、ここで突き放すのは酷だろう。クダリをここまで疲弊させることのできるのが誰かなんて、どうせ目星はついている

「クダリ、なにかあったのですか?」
『………あのさ、いまからそっち行っちゃダメ?』
「…は、職場にですか?」

 予想外のクダリの反応に、さすがのノボリも動揺を隠せない。というか、何を考えているのかよくわからなかった。サブウェイマスターという仕事が天職であることは間違いない。けれど仕事はあくまで仕事だし、簡単に代役の立つ職務でもないから、休めるときにしっかり体を休めておく必要があることに疑問を挟む余地などなく、それはクダリも十分よく理解しているはずなのだが。

『ゴメン。ちょっと、眠れそうにないっていうか…おちつかなくて。どーせ寝付けないなら、おしごとしようかなって思ったんだけど、』

 やっぱダメ? へにゃり、と眉を八の字にして困ったようにクダリが笑う。血を分けた双子であるせいか、それともおよそ30年に及ぶ付き合いのせいか、ノボリにはほとんど泣いているように見えた。こういう時のクダリは厄介である。ここで駄目だと言うことは簡単なのだがそうすると、常にない素振りで大人しく従ったかと思えばひとりで抱え込み、決して表に出さなくなる。
 それでいいことも勿論あるし、そうすべきだと言われればそうなのかもしれないが、掴める手をわざわざ振り払うのは趣味じゃない。それがたとえ血を分けた兄弟であろうとなかろうと。

「……さっさとなさい。仕事は掃いて捨てるほどありますから」
―――…うん、じつはね、職員玄関のすぐそばまでもう来てたりして…』
「…………………」

 ノボリさんって、軽くブラコンこじらせてますよね――そう、いけしゃあしゃあと言い放った、おそらくこの原因たる部下の声が脳裏にまざまざとよみがえり、軋むような頭痛がした。

 執務室に滑り込んでくるなり、クダリは机の上に積み上げられた書類を猛然と片付け始めた。うっかり驚いてしまって、何があったのか尋ねるタイミングを逃したほどである。決して迷惑をかけられているわけではないが、大なり小なり巻き込まれているのは確かなのだから、何がどうしたのか聞く権利くらいは持ち合わせているだろうに、こうも集中されてしまうと声をかけづらい。がりがり処理されていくクダリの仕事と、途端に進みが遅くなるバトルレポートの作成。……なぜこうなる。

「……さっき、がうちに来てさあ、」
「え、…は?」

 唐突にしゃべりだしたクダリの言葉を受けて、うちってどこの、と我ながらとんちんかんなことを言いそうになってしまった。しかしクダリはそんなことに意識を配る余裕もないのか、矢継ぎ早にセリフを放つ。

「キスしちゃった」

 よしわかった、仕事は後でまとめて片付ける。今は無理。
 潔くペンを置いたノボリの視線の先で、クダリは書類に目を走らせ続けている。スニーカーを脱いで椅子の上で両足を抱え込み、キャスターをころころさせながらそれでも文字を追いかけ続ける集中力といったら。なぜそれが普段のデスクワークで生かされないのだろう、まったくもって惜しいことである。

「それはつまり、を落としたということですか?」
「うん? うーん…びみょう……」
「…どういうことです?」

 のことだ、無理やりしようものなら、間違いなくそれ相応の反撃を受けるだろう。しかし見たところクダリの頬に赤く色づいた紅葉の痕はなく、疲れ切ってはいるものの精神的な大打撃を受けたわけでもなさそうだ。安堵感にほっと息をつくとともに、どんどん訳が分からなくなってくる。今どきの若者の恋愛はよくわからない。

「たぶん、はぼくのことすきなんだと思う……けど、まだそれを認められてないっていうか、認めたくないって思ってるっていうか…」
「元の世界のこと、ですか」
「ん……わかってたけど、わかってるつもりだったけど、やっぱりはいつも “もし帰ったら” とか、“もし帰れることになったら” とか考えてて、…それが、なんていうか、」
「…悔しい?」
――…うん、そう。“悔しい”。だってはいまココにいて、ぼくのことが好きで、ぼくも好きって言ってるのに、そのの首根っこずっと押さえてるんだもん。…あんなのズルいよ……」

 机の天板に額をごりごりと押し付けながら、絞り出すようにクダリはそう言った。ノボリはそれを横目で見ながら、転がしたペンを再び手に取る。吐き出したかったことは、おそらくこれだったのだろうと合点がいった。どうしようもないことではあるが言わずにはおれなくて、でもに言うわけにもいかないこと。
 ノボリはペンを動かしながら口を開く。吐き出すことに協力してやったのだ、これ以上甘やかすつもりはない。

――フフ、は想像以上に難敵でしたか」
「こーりゃくムズかしすぎ。も、ぜんぜん笑えない」
「おや、でしたら諦めるのですか?」

 こちらに向けられる視線の鋭さを感覚しつつ、けれどノボリは口元に近親者にだけわかる笑みをのぞかせる。それを見てさらに視線の温度が下がることはわかっているものの、止まらないのだから仕方ない。吐き出される刺々しい溜息。

「ノボリまでぼくのことバカにしてる? あきらめるわけないじゃん、やっとここまできたのに」

 それを聞いて安心いたしました、と続けようとしたノボリの言葉を遮ったのは、膨らませた紙風船を手で押し潰したときに出る音のような、「ぶふっ」 と吹き出す笑い声だった。つい五分前まで落ち込んでいて、ついさっきまで苛立ちすら滲ませていたくせに、今度は突如として笑いだすのか。まったくもって意味が分からないが、ノボリの視線の先ではクダリが額を机に押し付けたままの姿勢でくつくつと肩を震わせている。血縁者だろうとなんだろうとこの際だからはっきり言わせてもらう。気味が悪い。

「…クダリ? なんです、突然」
「っふ、くく……だってノボリ、考えてもみてよ。――…ちゅーだよ?」

 いや、だよ?とか言われても。

「あー、やっばい。べろちゅーしたわけでもないのに、すっごいきもちよかった。…ね、ちゅーってこんなよかったっけ? ここ最近そんなのしてなかったからさあ、止めるのすっごいツラくって、ぼくもーすっごいがんばったんだから! …っはあ、べろとか入れたらどんだけきもちいんだろ……ワケわかんなくなったりとかするのかなあ? ………あーもう、あんな約束するんだったら、しちゃえばよかった!」
「クダリ、貴方死にたいんですか」
「…死にたくなかったから今ここでこーしてるんでしょ、ノボリのバカ」




 くるりと踵を返し、閉じたばかりのドアに背中を預けてわたしはその場にずるずるとしゃがみ込む。衣服を挟んで感じるドアの冷たさが心地いい。…つーか熱い、めちゃめちゃ熱い。春先の夜気はひんやりと冷たいはずなのに、まるで 特性:ほのおのからだ な気分だ、おい卵もってこい。

「……っのやろ、」

 くちにじゃないから、ちゅーじゃないもん。
 触れられた額を押さえて、言葉もなくくちびるをわなわなと震わせるしかないわたしに、ヤツはエンジェルスマイルでそう言った。――…っええい、なにがエンジェルスマイルだバカ野郎、あんなんエンジェルでもなんでもない、ただの女タラシである。うっかり動揺して、「ということは、これくらいはどこの馬の骨とも知れない殿方としても文句ないってことですよね」 くらいの反撃を即座に思いつかなかっ…………駄目だ。これが反撃になりうると思っているところがダメだ。この期に及んで自意識過剰なんて言わないが、そうやってわざわざ嫉妬心を煽ってどうする。ヤキモチを焼いてほしいとでも?

「……あーもー…」

 うずくまったまま両腕で頭を抱え込んでいると、頬にぺちりと平たいものが触れた。今この状態で顔を上げたら恐ろしく心配させてしまうことがわかっていたから、こうして少しでも頭を冷やそうとしたのだけれど、まあ冷静に考えればこっちのほうがよほど心配させますよねハイ。とはいえ、親としての矜持で顔を上げることをためらっていると、ぺちぺちぺちぺちと意識の有無を確かめるかのように頬をはたかれた。割と痛い。なんで今日ばっかり優しくないんだろう、と顔を伏せたまま考えて、無理やり留守番させたことを怒っているのだと思い至った。べしべしばしばし。面積の少ない方でチョップされないことが、もしかして彼なりの優しさなのだろうか。

「………ごめんなさい。ただいま戻りました」

 顔を上げてそう呻くと、目の前のルクスが腕組みをしてふんっと鼻を鳴らす。黄色のひとみは鋭く眇められているし、体内の紫炎は普段より一回りか二回りほど大きく猛っている。腕組みした先でせわしなく動き続ける指先?に、ポケモンも貧乏揺すりするんだなあと妙なところで感心してしまった。…わたしの思考がまたわき道にそれたことを感じ取ったらしいルクスが、さらにいっそう炎を猛らせる。

「…すいません、反省してます」

 ――その言葉が疑わしい、と言わんばかりの目つきである。ポケモンに信用されないトレーナーの立場ったら、妻に浮気がばれた夫のそれより情けない。崖っぷちで自白を迫られている犯人の方がまだマシだ。

「もう二度と、無理やり留守番させたりしません。ごめんなさい」

 彼がヒトモシの頃は所構わず甘えたがるのをしばしば嗜めたりしていたのに、今やランプラーにまで進化した彼の前で正座せんばかりの勢いで謝り倒しているのはわたしの方である。どうしてこうなっ……すいません、本当の本当に反省してます。ごめんなさい、もうしません。
 そろりと手を伸ばして、まあるいボディに手をすべらせる。しょーがねえな、とでも言いたげに渋々すり寄ってきてくれるルクスをそのまま腕の中に閉じ込めて、わたしは溜息をついた。だってもう、それしかできない。



 ――…すき、なのだろうか。


「………そうなんだろーなー…」

 はあああああ、どうしてこんなことになったのだろう。色恋沙汰とかめんどくせえ。こんなふうに他人の言動で心を揺らして、自分のことを省みて赤くなったり青くなったり、嬉しくなったり悲しくなったり、そんなこととはきっと無縁のままだと思っていたのに。少なくとも、こちらの世界に間借りしている限りは。
 わざわざ律していたわけではないが、まあそんなことにはなるまいと高を括っていたらコレだ、何が一番信用ならないって自分が一番信用できない。容姿と性格のどちらを重視するかと聞かれたら、おそらく経済力だと答えていたのは確かにその通りだったらしい。でも、その次に重視するのは性格だとばかり思っていたのに、いざ蓋を開けてみればあのひとはあんなだし、これじゃあ面食いだと言われても否定できないではないか。…いや、別に性格が悪いって言ってるわけじゃないけれども。

「…あんなさあ、ほっといても買い手がつくようなひとじゃなくていいじゃん……こっちの世界のひとが傍にいるのがいいに決まってんのにさー、なんでわたしが、」

 差し伸べられる手を、手放しがたく思っているのだろう。頬に触れる手のあたたかさを知っていて、なんでそれが心地よいなどと、そんなことを。
 なにが本当にたち悪いって、あんな目で見られるのに自分は適さないとわかっているくせして、自分以外の誰にあの眼差しが注がれることは、耐えがたいと思っていることだ。…っああもう、自分の中の矛盾がひどすぎて吐き気がする。こんなことを考えていると向こうに知れたら、なんて考えるだけで顔から火が噴き出そうだ。羞恥と言うより自己嫌悪でだいばくはつできる気がする。

「ねえ、ルクスはさあ、好きなコとかっているの?」

 やれやれコイツは、みたいな態度でずっとわたしの背中をさすっていてくれたルクスの動きがガチリと止まった。まあるく見開かれた目は泳ぎまくり、視線はウロウロとあたりを彷徨っている。この子の動揺は、なぜかひどく人間くさい。

「ルクスは、やっぱりその好きなコとは、ずっと一緒にいたいよね?」

 ぎゅうぎゅうにしがみついていた腕を解き、少し距離をあけて彼を見下ろす。ルクスは意味を測りかねたように少しだけ目を眇め、けれどしばらくして首を横に振った。するりと、わたしの首の後ろに回されるルクスの手。

「……元気にしててくれれば、それでいいってか」

 わたしのほっぺたに体をすり寄せて、ルクスがこっくりと深くうなずく。……ああもうどうして、わたしの周りはこんなんばっかりなんだろう。ひとりだけ覚悟の決まっていないわたしがひどく惨めで、情けない生き物みたいじゃないか。

 でも、今のまま決断したら、それを誰かのせいにする気がした。求められたからとか、それでもいいって言ってくれたからとか、そういう理由で決断を下したくない。あの手を取るにせよ取らないにせよ、わたしがどうしたいのかに基づいて判断しないと、結局あのひとの前に立てない気がする。笑顔を向けられたところで笑い返せないし、触れられたところで居心地の悪さしかきっと感じない。そんなの嫌だ。
 わたしは、自分で望んでクダリさんの手を取りたい。それ相応の覚悟と、決意を持って。

「なんか、ルクスに名前をあげようと思ったときみたい。…あのときも嫌になるくらい悩んだもんなあ」

 彼の手を借りて立ち上がる。ずっと膝を抱え込むようにしゃがんでいたせいで、足にびりびりとした痺れがはしった。痛いのもつらいのも苦しいのも、情けないのも嬉しいのも全部、わたしがここで生きている証拠なのだろう。向こうでできて、こっちでできないことなんて、きっとない。……お父さんとお母さんには、紹介できないけど。

「あー…さっさと明日がくればいいのに」

 そう呟きながら自分のベッドに崩れ落ちたわたしはもちろん、執務室で書類を枕に寝落ちしたクダリさんが、同じようなセリフをこぼしていたことなど知る由もない。

リクエスト#4:4月9日直後の二人

2012/07/06 脱稿
2012/07/15 更新