14/10/24(Wed)

reported by clerk



 決断を早まったかもしれない。足元で丸まっていた毛布を引っ張り上げ、胸に抱きしめるようにベッドの上で体育座り。毛布と一緒に膝とあたまも抱え込み、わたしは深々と溜息をついた。ちら、と視線を横にスライドさせ、現実逃避したところで変わらぬ惨状を確認したところで瞬時に引き戻す。……もーあたま痛い。つーか何度言えば理解してくれるんだこのトリ頭。三歩歩いたら忘れるどころの話でなく、聞いても反対側の耳から言葉が零れ落ちているとしか思えない。いっそ家中に張り紙でもすればいいのだろうか。
 わたしが身に着けているのは使い古しのジャージに、襟ぐりがよれよれになった長袖Tシャツである。首回りが締まっていると息苦しい感じがして落ち着かないし、スカートタイプのものは足元がスースーして心もとないので、色気の欠片もない恰好であるが致し方ない。わたしの基準では、見てくれの装いは利便性や機能性より重視されるものではないのである。まあ起き抜けに背中がぺろーんと空気に触れていたのは、わたし自身の寝相の悪さが原因だろう。…だいじょうぶ、夜寝たのは間違いなくこの恰好だったし、たぶん問題ない。はず。…きっと。

「んう……、ン…」

 立てた膝の上に肘をつき、その手のひらにあごをのせて、わたしはその朝っぱらからムダになまめかしい声の主をある種の決意と共に見やる。――伴う決意とはなにか。彼を視界に入れた瞬間、苛立ちでその後頭部にチョップを入れない決意である。

「………だからなんで服着てないの…」

 ダブルベッドの空いたスペースに寝転がっているクダリさんは、割とお行儀よく毛布をかぶってスヨスヨと寝息を立てている。けれどその、すっきりとした陰影を首元に刻む鎖骨だとか、ひょろいように見えてそのくせきちんと筋肉で引き締まった肩だとか二の腕だとか、喉仏の凹凸から胸元へ続く体の稜線が惜しげもなくわたしの眼前に晒されていて、これはあれですか、写真とかに撮って小金稼ぎにでも利用させてもらえばいいんですかと、もう何度目になるか知れない押し問答があたまの中で繰り広げられる。わざわざ毛布をめくって確認なぞしないが、おそらくパンツ一枚で夢の世界を闊歩していることだろう。もう驚かない。

 高校生まで過ごした元の世界では就寝時にパジャマを着ていたし、こちらの世界でも今と同じようにジャージにくたびれたTシャツという姿で眠っていたわたしには、半裸で布団に入るということの意味がよくわからない。眠っている間、人間は割と汗をかいているという。シーツだってもちろん洗うけれどもそう頻繁に洗濯にまわすわけにいかないし、だったら洗いやすい衣服にひとまず汗を吸収させるのが効率的だ。「だってラクなんだもん」 とか知るかいそんなこと!
 なによりあれだ、――心臓に悪い。考えてもみろ、目覚まし時計にたたき起こされて、どうにかこうにかまぶたをこじ開け、さあ一日の始まりだと思ったとき一番に目に入るのが半裸のクダリさんってなんだこれ、少女マンガのサービスシーンか。どきりとするよりぎょっとする。目覚めてまず、自分の衣服の乱れを確認させられる作業のむなしさとバカバカしさったらない。

 ここに越してきて約一か月。はじめの一週間で、お風呂から出てきたときにはパンツ以外のものも身に着けるよう懇々と説得し、二週間目でわたしの寝相があまりに極悪だったため大きめのダブルベッド購入、基本的には普通に服を着てくれるようになったものの、気を抜くと半裸で居間をウロウロするようになった三週間目でいよいよ 「お前ちょっとそこに正座しろ」 と本気の説教で矯正を試みたにも関わらず、四週間目でこれだ。
 クダリさんは昨日遅番だったから帰ってきたのは深夜なはずで、翌日が通常勤務であるわたしは先に休んでいた。ということは、お風呂上りに半裸でウロウロしていてもわたしが眠っているのだから怒られることなどないわけで、忘れていたのか敢えて忘れ去っていたのかは知らないが、そのままベッドに潜り込んで就寝――疲労や眠気もあったのだろうが、仏の顔も三度までである。仏じゃないわたしが、そう何度も何度も笑って許してくれると思うなよ。

「んうう……」

 わたしがベッドから上半身を起こしたことでぽっかりとできたスペースが肌寒かったのか、背中をチョロネコのように丸めたクダリさんがもぞもぞすり寄ってくる。割と眠りが深いのか、まぶたの開く気配はない。額をわたしの腰骨のあたりにぴとりとくっつけ、満足げにふにゃふにゃ口元をたゆませて再び健やかな寝息をたてはじめる。
 出勤時刻まで余裕のあるクダリさんを起こさないよう、わたしはベッドから滑り降りた。この女タラシめ、その手に騙されるか。次やったら本気で怒りますよと言って、わかったもうしないという約束を何度交わせば気が済むのだこのやろう、もう許さん。
 とりあえず今日の朝ごはんはクダリさんの嫌いな、わかめのどろどろに溶けた味噌汁にしてくれる。




 扉の向こう、廊下をばたばた走ってくる音がだんだん大きくなる。わたしは机の脚元にしゃがみ込み、周辺の鉄道員さんたちに目配せした。しゃーないなあ、という呆れたような顔とどこか面白がるような目の色に両手を合わせ、そっと息をひそめる。

――! ……あれっ、は!?」

 大きな音を立ててドアが開け放たれ、駆け込んできたその人物は息を切らしながらわたしの名前を呼んだ。その声音には明らかな焦燥が滲んでいて、わたしはざまあみろと胸の内でせせら笑う。ぜえぜえとうるさい息継ぎが、わたしの仄暗い嗜虐心を満たしていく。

「そない急いで、白ボスどないしたんです? になんぞ用事ですか?」
「あ、えっと……ホームとか、かな? それとも他のぶしょ?」
「さあ、ちょっと前に部屋出てったんは見たけど…、便所とかやないですか?」

 おいおいおいおいちょっとクラウドさん? いや別にいいですけど、無理を言って頼み込んだのはわたしの方なんで別にいいんですけど、なんかもうちょっと他にごまかしようがあったんじゃないんですかそれ。あとせめてトイレって言って。便所って言わないで。

「あの、ボクさっき、資料のコピー頼んだので、それに行ってくれたのかもしれないです」

 ジャッキーさんナイス! 机の下から拝むように手を合わせると、チラと視線をこちらに向けたジャッキーさんがわずかに微笑んでくれる。最近の若い子って本当にすごい。こんなアホな事態に巻き込まれても嫌な顔ひとつしないし、空気を読んで咄嗟に反応してくれるのだから、まったく頭が上がらない。…よし、ジャッキーさんにお願いされていた仕事を、この後一番に片付けてしまうことにしよう。クラウドさんのは後回しだ。

「そう……。――あ、の…えっと、」
「白ボスがお探ししていたこと、さんに伝えましょうか?」
「…や、だいじょぶ。あとでまた来るから、にはなんにも言わないで」

 もう出ていかれましたよ、というジャッキーさんの言葉を受けて、わたしは机の下から這い出る。スカートの裾についたほこりを払いながら顔を上げると、「さて、じゃあ話してもらおうか」 と言わんばかりの悪役面。ジャッキーさんにそんな顔をされるならまだ納得できるが、ただニヤニヤしながら見ていただけのくせになぜキャメロンさんがその顔をする。協力してくれたことは確かなのだが、クラウドさんでもなんか微妙に腹立たしい。
 知らん顔して朝のうちにまとめた資料をクラウドさんに差し出すと、彼は 「おう」 と片手をあげて応じ、書類の表紙にすら目を通さずそれを確認書類の山の頂上に積み上げた。……いま読め、今。

「で、なんでケンカしとるんや」
「ナニナニ、浮気?」

 キャメロンさんのネクタイがコーヒーにダイブしている事実を告げるのは、もう少ししてからにしよう。

「キャメロンさんと一緒にしないでください。わたしは浮気なんて後処理が面倒くさそうなことしません」
「ヤ、が浮気したノ?ッテ意味ジャなくテ、クダリさんガついに浮気シタのカナってェエエエエ!?」
「早くしないと染みになっちゃいますよー」

 よし、ひとり脱落。トイレに駆け込む後ろ姿を見送って、わたしはため息交じりに部屋を見回す。――次のトレインの発車まではまだしばらく余裕があるし、なにかトラブルが発生したという連絡もない。トラブルの発生を願うわけではないが、どうしてこんな時ばっかり平和なのだろう。恨めしく思わないほうが無理だ。

「ほれ、ラクになりたいならさっさと話すことやな。上司に嘘つかせといて理由は秘密とか、そんなウマい話があるわけないやろ」
―――別に、ケンカしてるわけじゃないんです。わたしが一方的に腹立ててるだけなんで」

 うわ、それいっちゃんタチ悪いヤツやん…と呟いたクラウドさんの言葉が、やたらと真に迫っていた理由は今度伺うことにしよう。

「いや、あのひと何度言っても服着たがらないんですよ」
「……は?」
「帰ってきてまず何すると思います? まずズボン脱ぐんですよ。順番おかしくないですか、まずネクタイ外すのが普通じゃないんですか。ズボン脱いで靴下脱いでネクタイ外して、その状態で部屋ウロウロするんです。劣化版彼シャツ状態なんです。おっさんがしても全然萌えない!第一その脱ぎ散らかした服片付けろ! お風呂なんて入ろうものなら、それ以降ずっとパンいちですよ。割と夜冷えるようになってきたのにパンいちで出てきて 『さむいー』 とか言ってるんです、そんなん当たり前だっつーの!おっさんがしても全然萌えない!…おっさんがしても全然萌えない!!」
「いやお前言うてること、だんだん趣旨から外れてきとるやろ。……あと白ボスのことおっさんおっさん言うのヤメロ、お前はわしを殺す気か、それともわしに殺されたいんか」
「すいません、軽率でした」

 この年代のおっさんの心は繊細である、十代なんかよりずっとガラスのハートなのである。ガラスのハートを破壊したその破片で怪我をするなんて最悪だ。こういうときは、素直に頭を下げるに限る。
 わたしの意見には同意しかねるらしいクラウドさんは、低いうめき声を共に首をひねっている。周囲を見渡せば、苦笑している顔がいくつかと、クラウドさんと同じように難しい顔をしているのがいくつか。どうやらわたしが考えていたよりずっと、部屋で半裸になることは異常な事態ではないらしい。

「別にエエやん、マッパになっとるわけでもないんやし」
「まあ確かに、それでわたしが直接的な被害を受けているのかと言われると苦しいとこなんですけどね? でも落ち着かないっていうか、公序良俗には反してると思うわけですよ」
「家ン中でくらい公序良俗に反したってエエやん。何がそんなにイヤなんかわからへんわ」

 周囲の様子をうかがうに、クラウドさんの言葉に理解を示しているひと半数、いやいやいくら家の中でも、と首を振っているひと半数といったところか。いざ冷静になってみると、すこし大袈裟にしてしまったというか、過剰反応だったような気もする。けれど腹に据えかねたものがあって、しばらくあの胡散臭い笑顔を視界に入れたくないのも事実なのだ。
 落ち着いて周囲の状況を把握したところで、さて、どう消化したものか。

「つーかあれやろ、お前が腹立ててるんは、何度も何度も約束破られてることやろ」

 はーやれやれ、と言わんばかりの態度でクラウドさんがのたまう。わたしはぱちりぱちりと瞬きを数回。思いもよらなかった方向からの言葉に、目からうろこが落ちた気分だった。

「そら、白ボスの裸が見るに堪えへんとかそんなんやったら話は別なんやろーけど、そういうワケやないんやろ?」
「はあ、まあ…写真撮ったらネットとかで捌けるんじゃないかな、とは思いますけど……」
「せやったら間違いないわ。お前、白ボスに約束破られることに腹立ててんねん」





 なんとなく寝付けなくて、広いダブルベッドでごろりごろりと寝返りを打ちつつ睡魔の訪れを待った。邪魔するもののない至極快適なベッドであるはずなのに、意味もなくおさまりが悪い。意識がざわついていて、じっと目をつぶって寝転がっていることさえわずらわしい。しかしそんなわたしの身体状況の如何にかかわらず明日はやってくるわけで、そして明日も普通に仕事なわけで、いい加減眠らないとそろそろまずい。わたしは残念なことに、睡眠時間と集中力の持続時間が正比例するタイプの人間なのである。

 あと十分して眠れなかったら、ノボリさんが置いて帰ったお酒をちょこっと拝借することにしよう。そんな決意と共に目をつぶって手足を丸めこんだとき、がちゃりと玄関の鍵の開く音がした。わたしが休んでいることに遠慮しているのか、扉を開けたり閉めたりという行動に伴う音はひどく小さい。抜き足差し足でもしているようで、廊下を歩く音はほとんど聞こえず、次に聞こえたのは居間につながるドアが静かに閉められる音。
 わたしはベッドに寝転がったまま、息をひそめて聞こえてくる音を辿る。目をつぶって聴覚に神経を集中させても聞こえてくる音は本当にわずかで、その次に聞こえてきたのが、シャワーが浴室のタイルを打つ音だったことに少なからず驚いてしまった。あのひと、気配を殺す訓練でもしているのだろうか。……していたとしても、あまり違和感がないのはなんでだろう。
 それからしばらくしてシャワーの音が止まる。ドアの開け閉め。小さな足音。わたしがここを占領していたら、あのひと今日はソファで寝たりとかするのだろうか。心臓を、猫のザラザラした舌で舐めあげられるような感覚。背筋がぞわぞわして、わたしは反射的に膝を抱く。これまであんまり他人とケンカとかしたことがなかったから、どうしていいのかわからない。腹の立つことがあれば流して、嫌なことがあれば忘れて、納得できないことをうやむやにしてきた弊害が、こんなところで出ようとは思ってもみなかった。

 別に、一日中無視しようと思っていたわけじゃなかった。クラウドさんに告げられた言葉には動揺してしまったけれど、あれは自分でも驚くほどストンと胸に落ちて、得体の知れない苛立ちもだいぶ解消されたから。自分でも原因や要因がよくわからなかったからさらに苛立ちが募って、顔も見たくないなどと思っていたのだと思う。説明しないことには伝わらないわけだから、…まあ、積極的に姿を探したりはしていないものの、それ以降は無理に遭遇を避けたつもりはなかったのに。こういうときに限ってわたしも向こうもバタバタと忙しく、結局一言も言葉を交わさないままわたしは本日の勤務を終えてしまった。最近新調したばかりのパンプスが、無駄に重たい家路だった。

 ギイ、とわずかに軋んだ音を立てて開いた寝室のドア。廊下からの明かりが細く入り込んで、真っ暗な室内を静かに照らす。薄目を開けて状況を確認しながら、ドアを背中にしていてよかったと心の底から思った。だって今わたし絶対、まぶたピクピクしてる。意味の分からない緊張で心臓がばこばこうるさい。下唇をぺろりと舐めて、わたしはひたすら寝たふりを敢行する。…いや、寝たふりをするつもりでいたわけじゃないが、もう今さらどうにもならない。
 まぶたの裏に暗闇が戻る。ドアを閉めたか、廊下の電気を消したか、あるいはその両方か。……あ、でもいまドア閉めたな。あれ、じゃあヤツはどこだろう。廊下の電気消してから居間に戻った? いやそれおかしいでしょ、電気消したら真っ暗だし。――…てことはつまり、

 小さな音を拾い上げようと集中力をつぎ込んでいたためか、ベッドのスプリングが軋む音がひどく耳に響いた。あんまりびっくりして身が凍り、思わず跳ね起きそうになるのを必死で堪える。油断すると視覚から情報を得ようとするので、ぎゅうっと目に力を込めた。…背中向けてるけど絶対バレた、絶対バレてるよねこれ。つーか寝たふりしようとしたのがバレたらまずいんじゃないか、今さら気付いたところでもう遅いけど。
 マットレスが軋んで背中側に体が傾く。もうここまで来たら煮るなり焼くなり好きにしてくれ。わたしは俎上のコイキングだ、いざとなったら はねる で応戦してくれる。

―――、」

 吹き込まれた声に、息が止まる。

、ごめん。…ごめんなさい」

 ひとつひとつ、まるでぶどうの果皮を指で丁寧に剥くみたいに落とされる言葉が首筋に染みる。触れられたところからじんわりと熱が伝わって、緊張がほどけていくような、逆に体がこわばっていくような、どっちともつかない奇妙な感覚。口の中が一気に干からびていく。

「…………わたし、次やったら本気で怒りますって言いました」
「うん」
「なんで、約束やぶるんですか」
「…おこらないで、きいてくれる?」
「…内容によります」

 腹に回された腕に力がこもり、意を決したように呟かれた溜息がわたしの後頭部に触れる。

「ついうっかり、っていうのと、あと、…やっぱり、おうちなんだから別にイイじゃんって思ってて、」
「……おお、想像以上に本音出てきた…」
「だって、本当のこと言わないと、許してくれないじゃんっ。そんなのヤダ!」

 むぎゅう、と抱え込むように背後から抱きすくめられて、わたしの口から漏れたのはガマガルの唸り声だった。我ながらもうちょっとどうにかならないものかと思わなくもないのだが、わたしの肩口にうりうりと額を押し付けるクダリさんの動じなさから判断するに、もはや期待も何もされていないに違いない。……なんだろう、この罪悪感。

「あと、ぼくがあーゆーカッコしてると、気まずそうに顔あかいのかくすの、ちょっとかわいい」
「はあああああ!?」

 腕をほどいて無理やりがばりと体を起こすと、ニヤニヤとくちびるで半円を描いたクダリさんがわたしを見上げていた。鼠色のひとみが夜の中で光る。

「ちょっと聞き捨てならないんですけど、今なんつった?」
「ん、“ちょっとかわいい”?」
「そんなのどうでもいいんです。その前です、前! なんですかそのド派手な自意識過剰は!」
「だって、ぼくのことあんま見なくなるじゃん。すぐ目そらしてそっぽ向いて、眉間にしわぎゅーって寄せてすっごいしかめっ面! あれ、気恥ずかしいの隠してるカオでしょ?」
「違います。あんた今年で自分が幾つになると思ってんですか、アラサーですよアラサー! そんなひとの半裸見たってねえ、誰がよろこぶってんですか!」
「…写真とったらいくらで売れるか計算してるクセに?」

 クラウドあの野郎…! 裏で通じてやがった!
 ギリギリと奥歯を噛みしめるわたしの頬にそっと手のひらを添え、クダリさんがまぶたを伏せる。こわばった表情筋をほぐすように指でなぞり、大きな手が輪郭を包む。――ええいくそ、ここで絆されてなるものか。決意を新たに目元にぐっと力を込めると、気付いたクダリさんが苦く笑う。

「ね、。ぼくのなまえ呼んで? きょう、一回も聞いてない」
「あー…そういえばそうでしたか」
「……………………」
「……………………」
「…呼んで、ったら」
「反省したら考えてもいいですよ」

 むっとしたようにクダリさんの眉間にしわが刻まれ、反対にわたしの眉間からはしわが消える。ふふん、と満足げに鼻を鳴らすとさらにもう一本眉間のしわが追加され、鼠色のひとみに剣呑な光が宿った。……おっとまずい、自分がコイキングなの忘れかけてた。ムダな はねる で、自分の鱗を傷つけることはない。

「…牛乳プリンで手を打ちましょう、クダリさん」
――…今回安いね?」
「自分でも反省すべき点があると思ったんです。…今日、ずっと避けててすみませんでした」

 ひゅっ、と息をのんだクダリさんは目を眇め、わたしの頬に当てていた手をすべらせた。首の後ろに回った手に引き寄せられ、今度はわたしがクダリさんの肩口に顔をうずめる。息もできないほどぎゅうぎゅうに抱きすくめられて、わたしは大きく息を吐きながら彼の背中をゆっくりとなでた。ごめんなさい、と小さく空気を震わせる。

「クダリさん、あの時わたしが机の下に隠れてたの、気付いてたでしょう」
「…ん。でも、がぼくとあいたくないって思ってるのわかったから………ジャッキーには、ちょっとヤキモチやいたけど」

 くすくすと笑みをにじませるクダリさんの声を聴きながら、そこでようやくわたしは近づいてくる睡魔の足音に気付いた。それを意識した途端、瞬きの回数が一気に増えて、意識の輪郭を維持していることがいきなり難しくなる。体は自由に動くし広いし、さっきまでの方が確実に寝やすい環境が整っていたはずなのにコレだ、狭苦しいのになんでこんなに眠くなるんだろう。ぬくぬくしているのがいけないんだろうか。
 不意に押し黙り、しかも抱えている体の重さが格段に増したことに気付いたのか、クダリさんが夢の世界に片足突っ込んだわたしの顔を覗き込んでくる。彼はぎょっとしたように目を剥き、わたしの肩を揺さぶった。悲鳴にも似た声が、なんだか遠くの方から聞こえてくる、ような、こないような…。

「ちょ、ちょっと待って! ウソでしょ、このタイミングで寝るつもり!? いやいやちょっと待って、ほんとに待って、考え直してよ! もっと他に、すっごくだいじな、今しかできないことあるはずだってば!」
「あーはいはい、ソーナンスー…」

 流し方がテキトーすぎる! とやかましい口に頭突きをかまし、夢の世界に両足ぶち込みながらおさまりのいい位置を探してもぞもぞ動く。枕にする部位の高さや丸め込んだ腕や足がちょうどピタリとはまる場所というのがあって、いよいよ寝ぼけると腹を殴ったり蹴ったりするらしいからクダリさんはその状態でわたしに眠られるのを殊のほか嫌がるのだけれど、まあ今日ぐらいは我慢してもらうことにしよう。こうして寝ると不思議と眠りが深くて、睡眠時間をきちんと確保できなくても翌朝スッキリ起きられるのだ。……わたしだけ。
 クダリさんの肩を枕にしてこめかみのくぼみを押し当て、自分とクダリさんの体の隙間に腕を折りたたむ。このとき、ついでに服の裾を握っておくと枕……もとい、クダリさんに夜中逃げられないので便利である。いや、服を脱いでまで逃げられたことが無いわけでもないのだが。最後に微調整を加えて出来上がり、さて寝よう。

「……できた?」

 満足いく結果に鼻を鳴らすと、苦笑をにじませたクダリさんが枕にされているのとは反対の手を、側頭から後ろ頭にかけてそっとすべらせてくる。ずるずると引きずり込まれるような眠気のなかで、わたしはこっくり頷いた。もう声を出すことすら面倒くさい。

「おやすみ、

 わずかに湿っぽい、けれどスワンナの羽根のように軽い口づけを額に受けて、わたしはごとりと眠りに落ちる。意識が途切れる寸前、アホ程長く、深い溜息が聞こえたのは多分気のせいだろう。

リクエスト#5:同棲直後の主人公のちょっとした後悔……を書くつもりでした

2012/07/10 脱稿
2012/07/15 更新