19/08/15(Thu)

reported by clerk



 目が覚めたら、そこは見知らぬ場所でした。

「――…ウソ……なに、ここ…」

 ちょ、ちょっと待って、なにこれ、どーゆーこと? ぼくは乾いた笑みを浮かべながら周囲をうかがう。本当を言うなら、周囲をうかがえることがもうすでにおかしい。だって、ぼくはいまベッドに潜り込んでいるはずで、周囲はシーツの海なはずで、手の届く場所でがこっちに背中を向けてぐうぐう眠り込んでいるはずなのに。
 ぎらぎらと容赦なく照りつけてくる太陽や、青い絵の具を刷いたような空、そこに浮かぶモンメンみたいな白い雲は変わらない。でも頭上を飛び交うのは鳥形ポケモンによく似た、けれど彼らより小さいサイズのコたち。目の前には青々とした稲穂の繁る田んぼが広がっていて、風に吹かれてうねる早緑色がまるで絨毯みたいだ。さわさわと涼しそうな音を奏でているくせに、頬を撫でる風はうだるように熱い。道路を通り過ぎていく車の熱気にあたまがクラクラする。
 何にもわかんないけど、これだけはわかる。――ここ、ライモンシティじゃない。

「てゆーか、たぶんココ、ポケモンいないよね……?」

 ぼくはなぜか、白のスラックスに半袖ワイシャツというサブウェイマスター一歩手前みたいな恰好をしていた。腰のホルダーにみんなはいない。たまにすれ違うひとをそれとなく観察してみたところ、だれもモンスターボールを所持している様子はないし、ヨーテリーにすっごく似てるコは首輪とリードにつながれてお散歩してた。向こうじゃポケモンにリードを付けて散歩するなんてそうそう見ない光景だから、それまですっごく可能性の低い案だと思って頭の奥底に沈めていたものが、じわじわと浮かび上がってくる。

「…っや、やめよう!」

 一気にいろんなことを考えはじめてしまいそうな頭にストップをかけた。喉元に冷たい手を押し当てられたみたいな悪寒が背筋を駆け抜けたのを、額に浮かんだ汗をぬぐうことでごまかす。ネクタイを緩めてワイシャツの胸元をぱたぱたさせ、空気を送り込みながらわざと独り言。今ここで考え込んだら、たぶんきっと、すごくマズイ。一歩も動けなくなっちゃう。

「それにしてもあっつーい……とりあえず、どっか日陰に…、」

 そう呟きながらぼくが首を巡らせたそばを、一台の自転車が通り過ぎる。


 いきがとまった。
 ほんの一瞬、だけど絶対。見間違うことなんか、あるわけない。


―――っ、!」

 考えなしに、ぼくは振り返って叫んでいた。心臓がばっくんばっくんうるさい。暑さ以外の原因で、汗が吹き出る。口の中が干からびて、ごくりと飲み下そうとする唾すら喉に張り付くような感覚。時間の流れがひどく緩慢で、通り過ぎる車の音すら遠ざかっていくような。
 キィッ、とつんざくブレーキ音と共に、赤い自転車が停止する。

「……………はい?」

 ぼくを振り向いたその顔に思わず声を上げそうになって、あわてて口を手で覆う。うわあうわあうわあうわあ、だ、すっごい若いけどぜったいだ! えっ、何歳くらいだろ…14、15歳くらい? 水兵さんみたいな襟のついた服は白を基調に明るい水色があしらわれてて、ぼくにはあんまり見慣れない服だけどなんだか涼しげな感じ。でも膝くらいまであるスカートがちょっと暑そう。…てゆーか髪、髪長い! うわああああ、ってもしかして昔は髪の毛伸ばしてたのかな、ポニーテールすっごくかわいい!
 感動と動揺がいっしょくたになって、お腹の底からこみあげてくる。でもそんなぼくを振り返る夜色のひとみはひどく冷え切っていて、ぼくが言うのとはまるっきり反対の意味で、今にも 「うわあ…」 とかって言いそうだった。ドン引きの上、心底警戒されている。嫌でもわかる、だってこういう目、向こうでもされたことあるもん。あのはもっと大人だったから、もう少し包み隠してたけど。

 どうしよう、何か言わなきゃ。…でもなんて?
 「ね、ぼくのこと覚えてる?」 ……なんかナンパしてるみたい。
 「あのね、ぼくクダリ!」 ……まちがいなく 「だから何?」 ってカオされる。
 「ダンナさんです!」 …………ジュンサーさん呼ばれなかったら、むしろラッキーだ。

「あの、なんですか?」
「えっ、いや、あの、」

 なにコイツうぜえ、との顔にでかでかと書いてあるように見えた。このは、向こうのより考えてることがわかりやすいみたい。ぼくがの表情を読むことに慣れてるってのもあるだろうけど、でもそれを抜きにしたって素直な感じがする。…若いから、かな。それとも、こっちにいるせい?

「……なんでわたしの名前知ってるんですか? わたし、あなたのこと知らないと思うんですけど」

 ――…うん、やっぱりすっごく素直。素直っていうか、辛辣で勇敢だ。言葉の裏にある “うわなんでこのひとわたしの名前知ってるの、気持ち悪い” がヒラッヒラの薄皮一枚に透けて見える。もし本当に、ぼくがのことをひそかに調べ上げて、付け回すようなヤツだったらどうするつもりなんだろう。そんな言い方じゃ逆上されたっておかしくないのに、それより自分の嫌悪感を前面に押し出してくるところとか、すっごく若い。向こうのなら、きっとこんな言い方しない。

「あ、ごめんね。ぼくの知ってる人に、きみがとっても似てたから。……もしかして、きみもっていうの?」

 よそいきの顔でにっこり笑う。目を眇めて嫌そうなカオして 「ちょっと、なに企んでるんですか?」 って、いつものなら言うところだ。

「……はい。そうです、けど…」

 …うわあ、この年頃のになら、ぼくのにっこり笑顔も効果あるんだ……。イイコト知ったような、知りたくなかったような、フクザツな感じ。目元がサッと赤くなって、居住まい悪そうにひとみが泳ぐ。ちらっとぼくを見上げてすぐ逸らされる視線とか、初々しすぎてニヤニヤしちゃう。
 だって今のは、気恥ずかしいのを不機嫌そうな顔で隠すし、なによりもう、ぼくに対して気恥ずかしいと思うこと自体少なくなってきてるんだもん。たまーにお風呂上りとかパンツ一枚で出て行ったら、アオイとどっちがいちばん大きな音が鳴るかって、背中全力で叩いてきたりするし。…いや、それはそういうカッコを当たり前みたいにしちゃったぼくが一番わるいんだけど。

 口元を抑えて思案顔を浮かべるぼくを、が困ったように見上げている。あんまり関わり合いにはなりたくないけど、話をしちゃった手前放っておくのも気が引ける。面倒なことになっちゃったなあ、ってカオ。見覚えのある面影にうっかり手を伸ばしそうになって、どうにかこらえる。あぶないあぶない、せっかくよそいきの笑顔で警戒心をほんのすこしでも和らげたっていうのに、ここでほっぺた触ったりしたら絶対逃げられる。どういうわけだか知らないが、ぼくの知らないがここにいるのだ。仲良くしない手はない。

「あのね、ぼく、このへん初めてで迷っちゃったの。だから、きみに案内してもらえると、すっごく嬉しい!」

 少し腰をかがめて、記憶にあるより背の低い、こっちのを覗き込む。ぼくがと出会ってから彼女の背はほとんど変わってないはずだから、きっとそれまでの間に伸びたんだ。そんなことを考えると、なんだかすごくわくわくしてくる。いろいろわかったつもりになってたけど、ここにはきっと、ぼくの全然知らないがたくさんいるんだろう。
 ――あ、でも、ぼくの上目遣いに弱いのは一緒!

「……だめ?」
「や、だめっていうか…別にこのへん、案内するとこなんて……」
「んーとね、じゃあガッコウ! ガッコウ行ってみたい!」

 寝物語の中に出てきたところを挙げてみる。その話をするときのは苦笑交じりで、でもなんとなく楽しげだったからよく憶えてる。…あ、そうか。もしかして今のこの恰好が、セーラー服ってやつなのかな? 「ダサい上に暑苦しいから正直好きじゃなかったですねー」 って言ってたけど、ぼくは結構かわいいと思う。上の服の丈がおへそのちょっと下くらいまでしかなくて、中に着てるTシャツ?がちらちら見えてるのとか、なんかイイ感じ。つい目がそこいっちゃう。

「学校? え、見て楽しいんですか?」

 意味が分からないってカオでが言う。まあ、興味がないわけじゃないけど、どうしてもガッコウに行きたいってわけでもないから、ぼくは曖昧に笑ってごまかす。
 だって、と一緒にいられれば、別にどこだっていいんだもん。



「ふーん、は陸上部なんだ。走るのはやいの?」
「…大会で成績を残すほどじゃないですけど、まあ、そこそこ……」
「スゴイ! ぼくなんか、ふだんほとんど走ったりしないもん。カッコイイよー!」

 ぼくが手放しで褒めると、すこしびっくりしたような顔をして、それから嬉しそうに小さくはにかむ。少しだけ下唇を噛んで、堪えきれないみたいな照れ笑い。反応が素直すぎて、もうたまんない。なにこの生き物、おうち連れて帰りたい。

ー! ばいばーい!」

 遠くから友達と思しき女の子たちに声をかけられて、大きな声で手を振りかえすとか、ちょっと…いや、だいぶ新鮮だ。知らないうちににこにこしちゃう。一歩退いてその可愛らしい光景を眺めていると、ふとぼくに向けられる視線を感じた。から目を動かすと、彼女に手を振ってきた女の子たちが二、三人集まって団子になっている。誰を集団の矢面に立たせるか、おしくらまんじゅうしてるみたい。――ふふ、かーわい!
 にっこり笑って、胸の前でちっちゃく手を振りかえす。途端、きゃあって空気を裂くような歓声で場が沸いて、女の子たちがまるでバチュルを散らすように逃げていく。のことを好きになってから、こーゆーのほとんどなかったからすっごく久しぶり。なんだー、ぼくもまだまだ現役じゃん、とかってちょっと楽しくなっちゃう。

「うん? なあに?」

 友達の反応にびっくりしたのか、目をまんまるにしてがぼくを振り返る。「どうしたの?」 みたいな顔でにっこり笑いながら首をかしげると、すぐにまたの目が泳いだ。うつむき加減で進む歩調が少しだけ速くなる。このがどうしてああなるのか、不思議でならない。人間って変われば変わるものだなあと感慨深く思いながら、の後をついていく。

 視界の隅っこで、こっちをちらちら見ながら集まって話す男の子たちが見えた。を見て、こそこそ顔を突き合わせて喋って、ニヤニヤ笑ってる。こーゆー年頃の男の子と女の子って、後で振り返ると顔を覆ってあなをほるしたくなるような出来事にあふれてるってわかってるけど、それでもなんだか嫌な感じ。ぼくが何か言われるんなら別にいいけど、ぼくのせいでが嫌な思いしたり、からかわれたりするのはいやだ。
 だから目元に少しだけ力を込めて、軽く睨みつける。この程度でしっぽ巻いて逃げ出すよーなヤツにどうこうされるじゃないってわかってるけど、でも、このはぼくのよく知ってるとは少し違うわけで、だとしたらほんの少しだって傷つく可能性は消しておきたい。

「……ね、はさ、好きな男のコとかっているの?」

 ――なんて、ウソ。全部が全部ウソじゃないけど、本音はそんなんじゃない。あんながきんちょ共にはあげないって思ってるだけ。今も昔もこれからも、はぼくのだ。

「は、えっ?」
「だからあ、好きなコ! あ、もしかしてもうカレシとかいたりする?」
「いやいやいやいや、そんなのないです! あり得ないです!」
「なんで? かわいーのに」
「か…っ」

 息と一緒に言葉をのんで、がフリーズする。かああって首から耳からほっぺたまで真っ赤になって、トサキントみたいにぱくんぱくんと空気を食む様子なんか、もう言葉になんない。こんなコがすぐ傍にいるのに、あんな遠巻きにニヤニヤしてるだけなんて、あいつらバカなんじゃないのかな。見る目なさすぎ、節穴なんじゃないの? ……いや、なくていいんだけど。

「……か、からかわないでください…!」
「ええー? そんなつもりで言ったんじゃないのにー」
「…うちのクラス、男子と仲悪いんで、そういうの絶対ないです!」
「そうなの?」
「だって、掃除とかもすぐサボるし、やめてって言ってもやめてくれないし……あんまり話したことない」

 ………ダウト、それ絶対ダウト。いやの言ってることが、っていうわけじゃなくて、そのガキの方が。それ絶対仲良くしたいと思ってるよ、間違いない。女のコにすっごいきょーみある時期だし、もしかしたらに気があるのかも。なんてぜったい教えてあげないけど。

「…ふうん、ヤな子だね」

 わかった、なんとなくわかった。このは、なるべくしてああなったんだ。てゆーか、そうじゃないと多分ぼくたち出会えてない。

「あの、とりあえず学校案内しましたけど、わたしそろそろ…」

 あ、マズイ、これからのことなんにも考えてなかった。なんにもわかんない、って顔で首をかしげて次行きたい場所、聞いた話を思い起こしてみるけど、ぼくを見上げるの表情がくしゃって歪むのを見て居たたまれなくなっちゃう。こんな得体の知れないオジサンといつまでも一緒にいるわけにいかないよね、わかってる。おうち、帰りたいよね。
 ――でも、そしたらぼくはひとりだ。行く場所なんてどこにもない。話せるひとも勿論いない。ここがどこだかもよくわかんないのに、今晩どうすればいいんだろう。どこで寝ればいいの、ごはんは?

 ぼく、帰れるの?

 考えないように、できるだけ考えないようにしてたけどもうムリだ。一度あたまのなかではっきり言葉にしちゃったら、せきを切ったように不安や恐怖がこみ上げてきて、足が地面に縫いついたみたいに動かなくなる。だって、そんなの困る、すっごく困る。ぼくにはもう、ノボリ以外にも家族がいて、みんなを守っていかなくちゃならないのに。アオイは三歳になったばっかりで、カケルはやっともうすぐ一歳なんだよ? ぼくがみんなから離れていいわけない!

「……あの、どうかしたんですか? 顔色すごく悪いですけど…」
「あ…、ウン、だいじょうぶ。ごめんね、ぼーっとしちゃってた」

 帰らなきゃ。なんでここにいてどうやってここに来たのかもわかんないけど、なんでもいいからとりあえず帰る方法を探して、あたまひねって、足うごかして、どうにかして帰らなきゃ!
 心配そうな彼女ににっこり笑う。ぼくのよく知ってるとは少しずつ違うけど、だ。最初はすごく驚いたけど、絶対に知りようのない、お話の中に想像するしかなかったを見られてよかった。言葉を交わせて楽しかった。……要らない心配をいっしょに抱え込んじゃった気もするけど。

 「ぼく、帰らなきゃ!」――そう言おうとした耳に、短いクラクションの音。びっくりして振り返ったぼくたちをよそに、車がそろりと横付けされる。思わず言葉を飲んじゃったぼくと対照的に、は安心したように力を抜き、溜息をつきながらそっとつぶやく。

「なんだ、お父さん」

 ああそっか、お父さ…………お義父さん!? えっ、え、ちょっと待って、のお父さんってことはつまりぼくのお義父さん?だよね? ああなるほどね、こーゆーパターンもあるんだあ……っじゃなくて、こ、心の準備ぜんぜんできてない! わっ、待って、待って待って!あんまり暑くてぼくさっきネクタイとっちゃった…!
 ぶわって吹き出た冷や汗が、こめかみを流れて首筋を伝う。あわてて衿元をただそうとバタバタし始めるぼくを不思議そうな目で一瞥する、の視線が恥ずかしい。そ、そうだよね、別にけっこんの挨拶しに行くわけじゃないし…てゆーかもうしちゃってるし……大体このにはまだまだ遠い話なわけで、でもお義父さんのぼくに対する印象が悪いのは嫌だ、すごく嫌だ。…………すんごく怖いひとだったらどうしよう……。
 パワーウィンドウが滑るように開く。口の中はからからで、ゴクンと飲み込んだのは空気がほとんどだった。あ、やばい、緊張しすぎて足震える。

――おう、今かえりか」

 運転席から少し身を乗り出してきたそのひとは、を見上げて快活に笑った。ニコニコっていうより、カラカラ笑うってほうがニュアンスとして近い感じの笑い方。窓枠に預けた腕はより日に焼けてて、けっこうがっしりしている。そういえば、休みの日には少年野球のコーチしてるって言ってたっけ。恰幅もよくて、いかにも頼れる大黒柱って感じのお父さんだ。目尻のしわがすごく優しそう。

「ん、そちらさんは?」
「あ、っあの、ぼく、」
「なんか、道に迷ったんだって」

 ……うん、まあ、その通りなんだけどね? ぼくの最高潮に達した緊張に冷や水をぶっかけるみたいなの声が、冷静さを取り戻させてくれる。とりあえず落ち着かなきゃだめだ。いまのぼくは、とは縁もゆかりもない赤の他人で、ちょっと道案内してもらってるだけ。緊張しなきゃならない理由なんて、なんにもない。

「あの、ぼく、クダリっていいます。バックパックは…持ってないんですけど、その真似事、みたいなのしてて、それで道に迷っちゃって…」
「そこにわたしが通りかかったの。知り合いがわたしにすっごく似てるんだって。名前も一緒だっていうんだからすごくない?」
「へーえ、そりゃすごいな」

 父娘仲はふつうにいいみたい。割って入って挨拶するのも変な話だし、交わされる会話を見守ってぼくはひっそり影に溶け込む。敬語じゃないがすごく新鮮な感じだ。今じゃもうクセみたいになってて、変にやめようとするとものすごく口調が荒くなるから、こういうは初めて見る。自然で、ぜんぜん無理のない感じ。きっとそれは、が向こうで失くしたもので、失くさざるを得なかったもの。

――で、クダリ君って言ったっけ?」
「あ、はいっ」
「今日、泊まるとことか決まってるの?」
「……や、まだ、これからです…」
「じゃあ、うちに来たらいい」
「あ、は……――ハイ?」
「近くのホテルまで送ってあげることもできるが、のことと言い、これも何かの縁だ。うちに泊まっていったらいい、うん」

 自分で言って自分の発想に納得しているのか、お義父さんはこくこく頷きながら言う。

「な!」