19/08/15(Thu)
reported by clerk
――…なぜ…こんなことに……。
嗅ぎなれないシャンプーのにおいを感じつつ、白いタイルで覆われた天井をぼんやり眺める。なんでこんなことしてるんだろう、てゆーかぼくほんと何してんの? なんでお義父さんより先にお風呂入らせてもらってんの、いやなんでぼくお風呂で汗流してんの? 意味わかんない、ほんと意味わかんない。夢なら醒めて、今すぐに!
「あの、クダリさーん?」
「えっ、あ、はい!」
すりガラスの向こうに女のひとの影が見えて、思わずぼくはちっちゃくなる。少しの沈黙のあと、くすくすと笑う声が聞こえてきて、死ぬほど恥ずかしくなった。…た、たぶんこれお義母さんだ。ほとんど引きずられるみたいな形で、目を白黒させながらお義父さんのあとをついてきたぼくを見て、「あらあらまあまあ」 とそれだけ言って、にっこり笑った女のひと、のお母さん。暑かったでしょう、お風呂はいっていらっしゃい、ってぼくをお風呂場に押し込んだひと。どうやらの我が道を行く体質は、血筋的なものだったらしい。
「着替え、お父さんのだけどここに置いておくから、使ってちょうだいね?」
「いやっ、そんな、そこまでしてもらうわけには、」
「ええ? でももう、あなたのお洋服お洗濯しちゃったのよー」
「
――…あ…アリガトウ、ゴザイマス……」
せ、生命の神秘だ…。こんなふわふわしたお母さんと、ちゃきちゃきしたお父さんから、なんであんな面倒くさいが口癖の女の子が生まれるんだろう。だってこんな、見ず知らずの他人をおうちに招き入れるのなんて、面倒くさい以外の何物でもない。現にはお義父さんの発言を聞いて、呆れたみたいに目を真ん丸にしてたし。
てゆーか、怪しいと思わなくていいのかな。自分で言うのもなんだけど、今のぼくは怪しさが服着て歩いてるみたいな状態で、娘に近づくなー!って怒られても仕方ないと思ってたくらいだったのに。のあの無頓着さは、もしかしてここに端を発するのだろうか。…だとしたら、その根の深さは納得できる。
「あの、おふろ、ありがとうございました……」
「あら、やっぱりお父さんのじゃ大きかったわね」
肩幅が違い過ぎて、ずり落ちそうになるTシャツを押さえながら、ぼくはとぼとぼと居間へ向かった。周りのみんなに、細すぎるとか、もやしとか言われても大してなんとも思ったことなかったけど、お義父さんのTシャツを身に着けたぼくは、つまようじが服着て歩いてるみたいにしか見えなかった。貧弱すぎて泣けてくる。どうしよう、に見られるのすごい恥ずかしい。
お義父さんはダイニングでちびちびビールを飲んでいた。夕飯の支度のすすむテーブルのすみっこで、枝豆をつまんでいる。その手元には、ビールが注がれてもうぷつぷつ汗の浮いたグラスと、空っぽのままテーブルに伏せられていたグラス。もしかして、と思う間にちょいちょいって手招きされて、それを見るにつけせっかく流したばっかりの汗がまた首の後ろとかに吹き出てくる。
「いけるクチ?」
「だ、だいじょぶ、です。いただきマス」
お、お酒ふつうに飲めるタチでよかった…。乾杯して、そのまま一気にグラスを空けると、お義父さんが嬉しそうに笑いながら次を注いでくれる。ノボリみたいな変な酔い方はしたことないけど、用心するに越したことはない。感謝の言葉を口にしながら受けた二杯目は、半分くらい空けるのにとどめておく。
ぼくが座った席はキッチンの真正面で、お義母さんのお手伝いをしてちょこちょこ動くが見えた。なるほど通りで、自分ひとりのときは面倒くさいを合言葉に出来合いのもので済ませようとするくせに、いざとなったら手際よくお料理できるわけだ。ぼくがせがめばこっちの世界の話もしてくれるけど、家族の話はあんまり話してくれなかったから、こーゆーわけだったんだなあって実感する。
「母さん似だろう、うちの娘」
「え、あ、えっと…」
「いいんだ。俺に似たら、熊みたいになっちまう」
そう言われてしまうと、目元はお義父さんにそっくりだなあって思ってたのを口に出来なくなっちゃう。余計なこと言わないで、とでも言いたげにキッチンからお義父さんを睨み付けたは、ぼくと目が合うとまたすぐ視線を逸らしてしまった。サイズが合わなくて肩とか首回りとかほんとずるずるだし、あの年頃の女のコには特にみっともなく見えるんだろうなあ…。あーもう、ほんと情けない。
「
――で、クダリ君の言う “” ってのは、どんなひとだ?」
部活で帰りが遅いらしい弟くんの帰宅を待たずに始まった夕食で、顔を赤くしたお義父さんが言った。飲み過ぎ、と断じられたから手元にあるのはただの麦茶だったけど、気持ちよく酔っているらしいお義父さんの口は軽い。ぼくの口の中で、慣れ親しんだ味にすごく似てるきゅうりのぬか漬けが、ぽりぽりを音を立てる。
「思わず声をかけるくらいだからなあ。よっぽど似てて、しかもつい声をかけちまうくらい、クダリ君にとって大切なひとと見た」
……さすが、のお父さんである。酔ってても鋭い。
「えと…ぼくの、奥さんです」
「えっ」
驚いた声を上げたのは、お義父さんじゃなかった。
「へええ、きみ、既婚者だったのか。言われてみれば、なるほどそんな感じするなあ。子どもはいるの?」
「上の子がこのまえ三歳になったばっかの女のコで、下の子はもうすぐ一歳になる男のコ、です」
「ああ、じゃあ一番かわいい頃合いだ。目に入れても痛くないだろう?」
「…えへへ」
思い出して笑うと、同意を示すようにお義父さんが肩をぽんぽんって叩いてくる。もうこの際だから、子育ての経験談とか聞けるだけ聞いちゃおう。なんでこんなことになったのか未だによくわかんないけど、こーゆー機会はきっとこの先、ほとんどないってことだけはわかる。
意を決したぼくが口を開こうとした矢先、がたんと音を立ててが立ち上がった。ごちそうさま、と吐き捨てるように呻いた仏頂面に、ぼくの頭は真っ白になる。だ、だってあれ、割と本気で苛立ってるカオだ。
もういいの?と不思議そうな顔をするお母さん一瞥することもなく、食器をシンクに重ねたが言う。
「宿題、あるから。
――…どうぞごゆっくり」
ぼくは冷や汗ダラダラだ。もう、お風呂に入った意味なんかほとんどない。
でも、お義父さんはそんなを見てにやりと笑った。お義母さんも笑ってる。どこに笑う要素があったのかわかんなくて、きょろきょろするしかないぼくを見て、更に二人がくすくす笑う。
「拗ねたな」
「実らないのが普通なのにねえ」
バタン!と乱暴に閉められるドアの音にいよいよ二人が吹き出して、ぼくはひたすら途方に暮れた。
それからお義父さんの晩酌に付き合って、…って言ってもお互い麦茶飲んでたんだけど、次の日も仕事があるからって寝室に引き上げた背中を見送った。「明日が休みだったらよかったんだけどなあ」 って言ってくれたのがすっごく嬉しくて、思い出すだけでちょっと泣きそう。いろんな話を聞かせてくれて、たくさん話を聞いてくれた。すごく素敵な時間だったと思う。たぶん、絶対忘れない。
居間のローテーブルの上に積まれた、少しほこりっぽいフォトアルバムをもう一度膝の上に開いて、写真の縁をそっとなぞる。カメラに向かってあっかんべーしてるちっちゃなは、アオイとそっくりだ。でも、おもちゃを抱えてへにゃって笑ってるは、カケルそっくり。
「……あの、お布団敷いたんで」
「あ、うん。ごめんね」
案内してもらった客間で、お布団の上にあぐらをかく。じゃあ、と小さく目礼して部屋を出ていこうとするを、ぼくは呼び止めた。捕まえた手首が、記憶にあるのよりほんの少しだけ細い。
「あのね、ちょっとだけお話ししない? ぼく、の話もっと聞きたい」
「………っ」
「……だめ、かな?」
ふるふる、とが小さく首を横に振る。
「えっと、…は、お父さんとお母さんのこと、すき?」
「…別に、ふつう」
「じゃあ、ガッコウたのしい?」
「…そこそこ……」
「将来の夢、みたいのってあるの?」
「……まだよくわかんない」
昼間、いっぱい話したのがウソみたい。奥歯に物が挟まったみたいな言い方。にっこり笑ってみたってちらりともこっちを見ようとしないし、むしろ眉間に刻まれたしわが深くなる。ぼ、ぼくなんか変なこと言った? どうしよう、ぜんぜん身に覚えがない。
「………獣医になりないなって、思ってはいるけど…」
「じゅうい?」
「人間じゃなくて、動物を診るお医者さんのこと。…知らないの?」
ああ、ジョーイさんみたいなひとのことか。訝しげなの視線をかいくぐって、ぼくは曖昧に笑う。
…そっか。、そういうのになりたかったんだ。なら、ポケモンたちが大好きなのもすごくわかる。無理やり諦めさせられたんだもんね、しょーがないよ。
本当は諦めなくてよかったものを、失くさなくて済んだはずのものを、はどれだけ向こうの世界で捨ててきたんだろう。敬語を使わないで話す彼女すら想像できないぼくには、ぜんぜんわからない。はがんばり屋だから、このままこっちにいられたら、その夢を叶えたかも。…でもどうかな、面倒くさがり屋でもあるから、途中でぜんぜん違う方向に歩き出しちゃうかも。気の抜けた笑顔で、楽しげに。
「
――…ごめんね」
それでもぼくは、が向こうの世界に飛ばされちゃうことを望む。何にもわかんなくて、知ってる人なんか誰もいなくて、頼れる人も、何を頼りにしていいのかもわかんなくて、その上ポケモンたちには襲われるし子どもには泣かれるし、その日一日をどう乗り切るかしか考えられないような生活にいきなり放り込まれることを、ぼくは願う。血反吐の出るような日々の先で、ぼくに出会えばいい。
そしたらぼくがきみのこと、世界中の誰よりしあわせにしてあげる。つらくて苦しかったのなんて全部忘れちゃうくらい、いっぱい甘やかして、慈しんで、守ってあげる。いちばん大切にできる権利を、きみがぼくにくれるなら。きみを、守らせてくれるなら。
「(……まあ、しあわせにして “あげる” なんてゆったら、うぬぼれんな!って怒られるんだろうけど…)」
“何をしてもらわなくたってわたしは勝手にしあわせなんで、ほっといてください” ってゆーのが、の言い分だ。素直じゃないのかただつっけんどんなだけなのか、照れ隠しで言ってるのかいわゆるツンデレってやつなのか、それとも本心からそう思っているのか微妙に区別がつきにくい。
「あ、の……っ手、離して…」
あ、イケナイ。つい、いつものクセで手のひらに指絡めちゃってた。
は右手中指の爪だけ形がすこしいびつで、自分から口にすることはないけど、ひっそりそれにコンプレックスを抱いている。ぼくが知らん顔で中指の爪の縁をなぞると、ほんの少し眉をひそめて、嫌そうな顔をするのがその証拠。こっちのはなおさらそう思うらしくて、きゅうっとくちびるを引き結び、無理やり手を引き抜こうとしてくる。
――じゃあ、ひとつ教えてあげる。ココって、の “イイ所” のひとつなんだよ?
桜色のちいさな爪にそっと口づけを落とす。途端、ビクッて体全体を大きく震わせたは、今度こそ思い切りぼくの手を振り払った。見上げたはまっかなカオでわなわなとくちびるを震わせ、信じられないものを見たとでも言いたげに目を真ん丸にしている。
上目遣いにを見上げたまま、にっこり笑う。ヒュッと息をのんだが脱兎のごとく踵を返し、ドアを乱暴に叩きつけたのはその直後。逃げ出した背中に、ぼくは呟く。
「
――…ふふ、かーわい!」
……………あれ、これって浮気には入んないよね?
遠くから聞こえる目覚ましの音で目が覚める。まだ体の中心で意識がまあるくなっていて、動かそうとする手足がひどく重たい。でもそうしていつまでも鳴り響く目覚ましを放っておくと、鋭い舌打ちと共にまぶたをこじ開けたが引っ掴んだ目覚ましにちきゅうなげを繰り出すから、ぼくはあたまを振って無理やり意識を呼び起こす。
伸ばした腕で目覚ましのアラームを解除して、そのままぐぐぐっと背伸び。ぐーすか眠り続けているの背中に抱き着くと、わざとなのかどうなのか知らないが(わざとじゃないと信じたい)、寝返りを打とうとしたの肘が鼻っ柱に命中した。結構ほんきで痛い。
「んあ、くだりさん?」
「……おはよ」
「ども。…あれ、わたしまたなんかしました?」
だいじょうぶ。喉仏に頭突きくらったときより、ぜんぜんマシ。
「んー…なんか、へんな夢みた気がする…」
「変な夢ですか? 怖いとかじゃなくて?」
「うん、ふしぎな夢。どっちかってゆーと、イイ夢だった気がする…なんだろ、ぜんぜん覚えてない……」
ひどくリアルな夢だった気がする。しかも、忘れちゃいけないって思ったような……。
でも、思い出そうとすればするほど、頭の中で輪郭がおぼろになって、掴もうとしたそばから指の間をすり抜けていく。たまに指先を形あるものが掠めたりもするのだけれど、もう一度触れようとすると霧みたいになって消えていく。夢の余韻でなんとなく楽しい気分だったのに、その内容を思い出せなくて気持ち悪い。……あとなにこれ、なんでぼくに謝らなきゃいけない気がしてるの?
「、あのさ。……なんかゴメン」
はああ? 寝起きの機嫌の悪さも手伝って、ぼくを一瞥するの眼差しは凍てついている。訝しげに、「いったいコイツ今度は何をやらかしたんだ」 と罪を抉り出そうとするかのような視線をかいくぐりながらふと、もうポニーテールにはしないのかなあ、とぼんやり思った。
リクエスト#8:二次元マジックで主人公の両親に会えた三人(結婚後)、というリクを大きく改変させて頂きました。
2012/07/19 脱稿
2012/07/28 更新