15/02/21(Sat)
reported by subway boss
エメットは激怒した。
必ず、かの狐仮虎威(こかこい)の女を除かねばならぬと決意した。エメットには、この地におけるギアステーションの道理はわからぬ。エメットはこことは異なる場所のサブウェイボスである。笛を吹き、トレーナーたちの前に立ちふさがり、バトルサブウェイのボスの片割れとして君臨してきた。けれども女に関しては、人一倍に敏感であった。久しく訪れたノボリとクダリがマスターとして君臨するバトルサブウェイ。其処で耳にした、クダリが婚約したという噂。聞くところによると、結婚式も間近なのだと言う。エメットは祝福を述べる気でいた。我らの中で一番ちいさな末の弟(※全員同い年)の婚約である。きっと朝露に濡れる雪柳のように、美しく可憐な乙女を妻と定めたに違いないと、そう、思っていたのになんなんだあのクソ可愛くないバカ女はええいきっとクダリは騙されているそうだそうに違いない見てろよ必ずそのぶっさいくなツラの皮ひん剥いて 「エメット様申し訳ございませんでした」 とさめざめ泣かせてくれる…!
「――クダリさん、すいま…………せん間違えました」
エメットは艶やかに微笑んだ。地下を走るトレインを利用した同様のバトル施設。施設間の相互理解と交流を図る、という大義名目をぶら下げて訪れたこの地においても、サブウェイボスの証たる制帽とコートの着用は義務付けられている。背丈はエメットのほうがクダリよりいくらか高いものの、後ろから見れば自分たちの姿はほとんど瓜二つと言っても過言ではない。
だから、間違われたところで決して気を害してなどいない。エメットにとっては、むしろ好都合だった。
「ウウン、気にシないデ? クダリを探しテル?」
覗き込んできた黒髪の女性を見つめ返し、首をかしげて聞き返す。二週間足らずの滞在期間中に、どれだけの数の女性と関係できるか舌なめずりしていたから、どんなものであろうと女性との接点は大切にすべきである。旅の恥はかき捨て、と言うではないか。旅先でならどんな修羅場に発展しようと、自国に戻り、連絡先を変更してしまえばそれで大抵のことは収まる。エメットにとって、高笑いの止まらない交流事業になることは必至だった。
しかしこの時点で、なんかおかしい、とエメットは思った。なにがどう変なのかはっきりと口にできないのだが、ちょっとした違和感がある。その女の持つ空気とでも言えばいいのか、纏う雰囲気がなにか違う。それは例えば、異国の地へやってきた旅行者や、それこそ自分たちのような短期滞在者が持つ空気感に似ていた。――けれど違う。それよりもっとはっきりしていて、けれどもっとおぼろげな何か。
「ええ、まあ、そうですね」
「ボクもいっしょニ探そうカ?」
「あー…いえ、業務に関することではないので。失礼いたしました」
エメットは軽く目を伏せ、黙礼した女の手を取った。自身の肩口くらいまでしか背丈のない、小柄な女。スレンダーと言えば聞こえはいいが、いかにも凹凸の少ない扁平な体つきで、エメットにとっては物足りなさしか感じなかったものの、まあ見てくれはそこまで悪くない。もちろんよくもないが。可もなく不可もなく、という容姿のなかでただひとつ、禁欲的な漆黒のひとみはわずかにエメットの興味をそそった。舐めたら苦そうだな、と思う。
女は何も言わない。エメットが手のひらに指をすべらせ、そろりとなぞるような仕草を見せても、頬を赤らめるでもなく困惑をにじませるでもなく、されるがままに任せている。上目遣いに女の表情を覗き込み、彼はひっそり笑みを深めた。男に不慣れな女というのも、まあたまにはイイだろう。
「……ね、キミ、ナマエは?」
「……………ジェニファー」
女の胸に、あるはずのネームプレートが見つからなかった。もしかするとそろそろ終業時間なのかもしれない。好都合である。
「そう、ジェニファー。…ジェニーって呼んでモ?」
「はあ…、どうぞお好きに」
……照れると愛想がなくなるタイプ? 間近に顔を寄せ、親しげに名前を呼んでも女の無表情は変わらない。むしろ、仮面のような無表情からさらに感情の色が削げ落ちていくようで、エメットはいよいよ訝しく思った。女と遊ぶことは好きだが、人形を抱く気にはなれない。けれどまあ、無感情な女から発露した感情のしずくを啜るというのもまた、一興であろう。
「ね、ジェニー、今日の仕事はもうオワリ?」
「いえ、夜勤なんでこれからです」
「フーン…じゃあさ、ソノ後とかボクとどお? 遊ばナイ?」
「……早朝に缶けりとかやる趣味ないんで、結構です」
エメットはいよいよそこで、この女の浮かべているものが無表情などではなく、途方もないほどの “嫌悪” なのだと合点がいった。眼差しも声音も冷え冷えと凍てついていて、取りつく島もない。女とは手を伸ばせば肩に触れられる距離にあったが、その間は深く、巨大なクレバスで断絶していた。とても対岸に渡れるとは思えない――渡ろうとも思わないが。
「フーン、そう。ザンネン」
「失礼します」
エメットがぱっと手を離すと、女は悠然とその手を引いた。特に焦る様子も、殊更名残惜しむ様子もない。自分と言葉を交わしたことなど、初めからなかったことのように考えているに違いなかった。実際この女にとってはどうでもいいことだったのだろう。当たり前のように黙礼して踵を返す後ろ姿に、大した感慨をエメット自身も抱かないのと同様に。
「(――…ツマラナイ女)」
「――…!」
女が声の方向に顔を向ける。その横顔に笑みが滲むのを、エメットは見た。ふっと肩から力が抜け、口元がわずかにほころぶ。人形に命が吹き込まれた瞬間だった。…………つーかあの女、さっきジェニファーとかって名乗らなかったか。
「ごめん、さがした?」
「あー…っと、まあ少し。すいません、ぜんぜん大した用事じゃなかったんですけど。誰かに聞きましたか」
「うん。でもぼくものことさがしてたから、ちょーどよかった!」
冗談だろ、と思ったのを今でも鮮明に覚えている。
「あのね、えっと、今日…、」
「遅くなるんですよね、さっきノボリさんに伺いました。ごはんどうしますか? 帰ってきて食べるなら、なにか作っておきますけど」
「んー……たべる。コンビニおむすびだけじゃかなしい」
「わかりました。豚汁と芋の煮っ転がしでいいです?」
「うん! 何時になるかわかんないから、先にねてて?」
「言われなくてもそのつもりでーす」
「……むー、イジワル!」
こういう空気を、エメットはよく知っている。エメットの知るものはもっとスマートでこんなに所帯じみてはいないが、カテゴリとしては同様だ。赤の他人に対してひどく気安く、身内と同じか、ともするとそれ以上の信頼を寄せているこの感じ。
――ウソだろ、と心中吐き捨てる。
「あれ、エメット? そんなとこで何してるの?」
こてん、と首をかしげたクダリが、まるでいま気付いたとでも言いたげにぱたぱた駆け寄ってくる。エメットはその純真無垢なムーングレイのひとみに曖昧な笑みを返しながら、迷っちゃって、とだけ告げた。クダリの背後では、苦虫を噛み潰したような顔の女がこちらを鋭く睨み付けている。そのように警戒されずとも、無用な火種を仕込むのはエメットとて不本意である。余計なことを言うつもりはなかった。
「、こっちこっち!」
その場に立ちすくんだままの女を手招いてクダリが笑う。手と首を振ってその場を辞そうとするも、「はーやーく!」 と無邪気に笑うクダリに女の意図は理解されない。まあそりゃそうだ、クダリはあの女と自分との間で行われたやり取りを知らないのだから。そしてサブウェイマスターたるもの、自身の連れ合いをサブウェイボスに紹介するのは至極当然な流れである。
「あのねエメット、紹介する。このひと、。ぼくのお嫁さんになるひと!」
「――…どうも」
クダリの手に促され、彼より一歩前に進みだした女…もといはその瞬間、不本意極まりないといった風情でエメットを睨み付けた。漆黒のひとみには、エメットに対する嫌悪感だけが閃いている。自分の名前を告げることすら、鼻持ちならないといった表情だった。
「あのね、このひとがエメット。インゴにはさっき会ったでしょ? おんなじサブウェイボス!」
「――…ドーモ」
しかしそれは、エメットとて同じである。先にちょっかいを出したのはこちらであるが、積極的な意思があったわけではなかったし、逃げられたからといって欠片も惜しくは思わなかった。それに、ギアステーション職員であればこちらの情報は多少なりとも入っているのだから、説明するなりなんなりすればいいものを、なんだ “ジェニファー” って。客人に向かって偽名を名乗るとは何事だ、つーか咄嗟に偽名がぽろっと出てくる女なんか信用できるか。調べればすぐバレるような嘘つきやがって腹立たしい。
「……あくしゅ、しないの?」
してたまるか、という心中の叫びはおそらく同様のものだっただろう。けれど女にしてみればクダリは自らの夫となる人間であり、そのメンツを人前で叩き潰すような真似はできなかったに違いない。先程までクダリに見せていた小さな笑みを消し去り、女がエメットに見せているのは口の端の片側だけがひくりひくりと震えている、見るも無残な引き攣り笑いだった。
エメットの立場から言って、差し出された女の手を跳ね除けることは難しくない。先の一件を伏せた上で、「態度が気に食わない」 とかなんとか、適当な理由で追い払うのは可能だったが、それをすればこの女の思惑通りになる気がした。クダリから見えないところで浮かべている表情は失礼極まりなかったが、だからといって、それ以外の女の態度や言動に難癖をつける点は特に見当たらない。ここで適当な理由をつけて振り払えば、きっとこの女は “よくわからないうちに嫌われてしまった” と被害者面することができてしまう。
関わりを絶てることは歓迎すべきだが、事がこの女の優位に運ぶのだけは御免こうむる。エメットはにこやかな笑みを浮かべ、再び女の手に触れた。お互い、氷のように冷え切っている手だった。
「ハジメまして、えっと……“”?」
「…初めまして、向こうの白ボス。お会いできて光栄です」
「クダリのお嫁さんにナルんだっテ? えっと、こーゆーのナンテ言うんダッケ……んーと、確か、“玉の輿”?」
「ほんと、わたしには勿体ないくらいですよ。…それにしても難しい言葉をご存じなんですね、意外です」
「キミがどーやってクダリをオトしたのカ、いろいろ話を聞いテみたいナア」
「そんな、わたしからお話しできることなんてなんにも。クダリさんが望んでくださっただけの話ですから」
「……フーン、そうなんダ」
「ええ、そうなんです」
ぎちぎちと骨が軋むほど握手した手を締め付けても、顔色ひとつ変えないのだからまったくもって可愛くない。それどころか、指の付け根の関節ごりごりしてきやがって痛えんだよこのバカ女!
握手の手を離したあとも、視線を戦わせ続けるエメットとを見比べて、クダリが首をかしげる。「んなワケないだろ!」 とお互い言い出さなかったのは、きっと奇跡だ。
「………なんか、仲良し?」
エメットにとって、「結婚」 や 「夫婦」 の形というのは両親と、そして双子の兄であるインゴのそれが大元になっている。特に後者は、姿かたちが非常によく似ているということもあって、一般論ではない、特に自分に当てはめて考えてみた場合の具体論として認識している節があった。
インゴが結婚したのは三年前だ。人気絶頂のスーパーモデルと恋に落ち、人目を忍ぶ一年の交際期間を経て結婚。プロポーズは駅のホームで、まるで映画のワンシーンのようだったことを他人事ながら未だに憶えている。世紀の美男美女カップル、と自国ではマスコミが連日連夜の大騒ぎ。一年もせずに別れるだろうという失礼千万な見立てもあったが、二人はその派手な外見に似合わず、慎ましく堅実に、それでいて華やかな結婚生活を続けている。
そんな結婚を、エメットが望んでいるわけではない。自分の性格からして、インゴのようにただ一人の女性を愛し、慈しむことができるとは思っていないが、結婚を望まない分、自身に落とし込んだ形でイメージしたことがない。だから、身近な兄の結婚をそのまま具体論として飲み込んでいる。結婚とはそういうものなのだろう、と。
「(――…あんなちんちくりんの、どこがイイワケ?)」
クダリは元をたどればエメットの遠縁にあたるが、親戚というよりは、同様のバトル施設を統べるボスという認識のほうが強い。しかし、それぞれがサブウェイボス、サブウェイマスターという地位につく以前から施設間の交流事業で面識があったものだから、お互い双子という事情もあって、奇妙な親近感を共有していたように思う。
そのクダリが、である。お互いの兄たちと違い、積極的に女性と関係することを是としていたあのクダリが婚約などと、その一報をはじめて聞かされたときのエメットの心中といったら穏やかでなかった。自分と同類だと思っていた人間の、突然の路線変更である。驚かないわけがなかった。しかも、聞けば出来ちゃった結婚というわけでもないと言う。どんな女なのか興味がわいた。あのクダリが選ぶのだ、義姉と同じようにさぞかし美しい女なのだろう。
「ね、ってどーゆーヒト?」
別に期待をしていたわけではなかったが、エメットの想像は木っ端微塵に打ち砕かれた。見られないわけではないが、ホームに半日立っていれば、同じような顔つきの女は4,5人容易に見繕うことができるだろう。平々凡々、十人並み、普通、凡庸、尋常一様。毒にも薬にもならないとは、ああいうことを言うのだと思う。
昼休み、せっかく異国にきているのだからと外へ足を向けたエメットは、ギアステーションの制服に身を纏った三人の女性グループに声をかけた。噂話を収集するなら女に限る、それがサブウェイマスターの関わる話となればなおさらだ。断られることなど、万にひとつもありえない。
「さん? わたしたち、みんな部署違うからあんまり親しくないですけど…」
「キミたちの知ってルことでジューブン! …ね、おしえて?」
彼女たちが互いの顔を見合わせ、それなら、と頷いてくれたのを確認して、促すようににっこり笑う。
「あ、えっと……優しい、よね。いきなり話しかけても、ヤな顔しないし」
「うん、実はフレンドリーっていうか。同じ部署の先輩に聞いた話だけど、飲み会とかだと結構クダリさんの話してくれるらしいよ?」
「ああ、それわたしも聞いたことあります。いーですよねえ、聞いてみたいこといっぱいあるなあ」
「ちょっと、なに聞くつもりよー」
あはは、と顔を見合わせて屈託なく笑う姿にエメットは驚きを感じるも、笑顔ひとつでそれらすべてを包み隠す。出来るだけ情報を引き出したいが、こちらの情報は出来るだけ与えたくない。ついコロコロと違う方向へ転がりだしてしまう話の流れを本流に戻すために、エメットは口を開いた。
「クダリとのことは、ミンナ知ってル?」
「はい、知らないひとなんて多分いないと思います。このまえ専務にお茶出したとき、『あのクダリくんが結婚するんだぞ、知ってるか?』 ってにこにこお話してましたもん」
「あー、あのおじいちゃん専務? てかなんでちょっと自慢気?」
「さあ、みんな知らないと思ってたんじゃない? むしろ情報遅いっつーの。ちょうど挨拶に来た後だったみたいで、『あのクダリくんがなあ…』 ってもうそればっかり。でも嬉しそうだったわ」
「ぜったい孫みたいに思ってますよね、それ。でもそっかあ、じゃあいよいよ会社公認ってやつなんですねー」
「今までだってそんな感じだったじゃない。……ってそっか、あんた、あの壮絶な片想い期間のこと、知らないんだっけ」
「ライモン勤務じゃなかったですからねー。いろいろ噂は聞いてましたけど」
「へーえ、やっぱ本部以外でも噂になってたんだ」
「そりゃそーですよー、だって白のサブウェイマスターが片想いですよ?しかも勝算なさそうな! 噂にもなりますって。…ねえ、先輩?」
「……情報源はここか」
「いや、だってすっごい見てて楽しかったし…誰かに言いたくなるじゃん……」
「片想いって……クダリが?」
「ああ、エメットさんはご存じなかったんですね。…どれくらいになるのかしら…、一年か、下手したら二年くらいは一方通行だったと思いますよ」
「あの頃の白ボス、“恋する乙女” な空気すごかったよね。オーラがピンク色でさ」
「そうそう! 女の子連れて歩いてるのもぱたっと見なくなったし、すっごい浮かれてたけど、雰囲気落ち着いたっていうか。本気でクダリさんのこと好きになっちゃうコ、逆に増えたっていうんだからすごいわよね」
「あーでも、わたしそれわかるなー。今年から本社勤務になってすごくびっくりしましたもん、違うひとみたいになってて。いや、今も昔もかっこいいのは全然変わらないですけど」
「なんていうかさ、遊び心は忘れないんだけど、落ち着いた大人の男の色気、みたいの出てない? 最近」
「わかるー、ノボリさんとはまたちょっと違う感じの色気でてるよね。…やっぱ守るものができると、男の人は魅力増すわ」
「へえ…ミンナ、祝福してルんだ。なんであのコが、トカって言ウのはナイの?」
「? どういうことですか?」
「さんに対して? あー…ないですねー、ないない、てゆーかムリムリ!」
「白ボスも黒ボスもすごくかっこいいから遠目に見てる分には目の保養ですけど、実際どうこう…って言うのとはちょっとまた話が違いますし。それに、あの報われない片想い期間を目の当たりにしてると、“おめでとうございます!” としか…」
「こう言ったらなんですけど、ノボリさんもクダリさんも “テレビに出るひと” って感じなんで、羨ましい!とは思っても、妬ましい!っていうのとはまたベクトルが違いますよねー。むしろ、さんすごいなー、大変だろうなーとかって思っちゃう」
「え、なんで?」
「だって、あんなカッコいい旦那さんじゃ、いつ浮気されるかわかんないじゃないですか」
「……まあ…今でこそ落ち着いてるしね…聞いただけじゃやっぱ想像できないか…」
「……懐かしいなあ…駅の事務室に意気揚々と入っていって、部屋から出てくるしょげ返った背中を遠くから眺めていたあの日々…」
「えっ、なにそれズルイです!」
インゴが結婚したときには、上を下への大騒ぎだった。外野でマスコミがうるさかったのも確かだが、それより社内が揺れに揺れた。どちらも知名度が高かったから、ものすごい数の祝福を受け取ることもできたし、嫌がらせの類も半端なかった。二人とも自宅に帰れなくて、数カ月の間ホテル暮らしを余儀なくされていたほどである。直接関わりのないエメット自身も、うんざりするような手紙や言葉を受け取った。まったく、今思い出しても腹立たしい出来事である。
あの美しい義姉でそうなのだから、あの見るからに冴えない女であれば、妬みや嫉み、やっかみの類を山のように受けているかと思いきや、これである。同様のバトル施設とは言え働いている人間はそれぞれ異なるし、インゴとクダリももちろん違う。環境が異なるのだから反応が違うのは当然だとわかっているが、エメットには納得できなかった。
義姉はストレスで体調を崩し、不眠や拒食に悩まされた。しあわせの絶頂にあるはずの美しいひとが見る見るうちに肉を削げさせていくのは、無関係であるはずのエメットから見てもひどく痛ましかった。その傍らにいたインゴであればなおさらだろう。彼らはそんな苦しみの末に、今こうして暮らしているのに。
――なのに、あの女は。
「エメットさあ、さいきん、のこといろんな人に聞きまわってるでしょ?」
スーパーダブルトレイン内、順調に勝ち星を上げ続けるチャレンジャーを待ちながら、クダリが言った。エメットとクダリ以外には誰もいない電車内で、彼らは通路を挟んで向き合うように座席に腰かけている。研修という名目でトレインに乗り込んでいるエメットにバトル前の緊張感はほとんどなかったが、クダリのにこやかな声音を耳に、知らず背筋が伸びていた。対するクダリは座席に浅く腰掛け、長い両足を投げ出すようにして座りながら、手持ちポケモンの入ったモンスターボールを手慰みに指で弄んでいる。ムーングレイのひとみは制帽のツバに隠れ、エメットからは見えない。
「みんなウワサしてる。エメット、にキョーミがあるの?」
「…まあ、キョーミと言えばキョーミなのかもネ。でも、そんなんじゃナイからシンパイしなくてイーヨ。キミタチのなれそめ、聞いてるダケ」
「うん、ぼく、心配なんかしてない。する必要ないもん」
そのときようやく、クダリが手元から目を上げた。エメットを見据えてにっこり笑う。
「ふふ、変なエメット! はなし聞きたいなら、ぼくに聞けばいいのに」
「…キミタチの話を聞クのは、ついでなの。てゆーか、キッカケ? ミンナいろんな話シテくれルから、すっごく便利!チョウホウしてる」
「別にいいけど、おかしなトラブル起こさないでよねー?」
指先にふと丸い輪郭が触れて、エメットは自分の腰に手を伸ばしていたことを知る。己の手元にクダリの視線が集中していることは感覚していたが、気付かないフリで一番手前のボールを手に取った。手のひら大のサイズに復元させないまま、ボールの表面を指で撫でる。中で唯一無二のパートナーが、不安そうにこちらを見上げていた。
ガタン、ゴトン、とトレインが揺れる。チャレンジャーは46勝目を挙げた。
「――…デ?」
「? ……女のコに話しかける、きっかけにするんじゃなかったの?」
「ボクがキミから話きいタことナンテ、誰モ知らないデショ? それに、クダリから聞いタんだケド、ってナイショ話できる」
「わあ……エメットは変わんないねえ」
「クダリが勝手に変わっちゃっタんデショ?」
エメットがそう言うとクダリはぱちりぱちりと目を瞬かせ、それもそーだね、と小さく笑った。
「…コウカイ、とかは全然ナイんだ?」
「後悔? うん、ぜんぜん」
「もうずーっとオンナ遊びしてナイって、ホント?」
「あー、そういえば全然してないや」
「報わレなさソウな片想いシテたって聞いタ」
「…それ失礼じゃない? ちゃんと報われたのに!」
「ミンナそう言っテた」
「………ちゃんと報われる片想いしてたの!」
ミネズミのように頬を膨らませ、不満げに鼻を鳴らす。けれどクダリはすぐ、堪えきれないといった様子で表情をほころばせた。軽く伏せられたひとみに宿る色はやわらかい。その頃のことを思い出しているのだろう、と想像を巡らせることは難しくなかった。
暗い洞穴を映す車窓に、自分の姿が映し出されている。クダリの背後に見えるそれは、幽霊かなにかの類に見えなくもなかった。
「なんであのヒト?」
「…それ聞いて、エメットどーするの?」
「ベツに、どーもしナイ。話のネタにさせテもらうダケ」
チャレンジャーが47勝目を挙げる。
「……うーん…突拍子もないから、かなあ」
「…ナニソレ」
「何しでかすかわかんないんだもん、。自分でも “変わり者” って自覚あるみたいだけど、しょーじきそんなんじゃ足りないってゆーか。初対面のポケモンはダメだって嫌になるくらいわかってるはずなのに、近付いてって水鉄砲くらって風邪ひいたり、服の端っこ焦がして帰ってきたりしてさー」
「……はあ…」
「ぼくなんか、いっつも振り回されてばっかり。しょーじき、大人しくしててよー!って思うことも多いんだけど、だからこそ見てて飽きないんだよね。どーせやめろって言っても聞かないし、しょーがないから隣で見てよっかなって。そしたらいよいよ危ないときだけ、手を引いてあげられるでしょ?」
「……大人シク守られテルよーな女には見えナイケド」
「そーなんだよねー。こんなこと考えてるってバレたら、ぼくぜったい怒られる。だから、にはナイショね?」
立てた人差し指をくちびるに当てて、クダリが笑う。なにがそんなに楽しいのか、エメットには欠片だって理解できなかった。
「誰かのために」 なんて論理は、きっといつか崩壊する。その “誰か” が自分自身以外の何者かである限り、多かれ少なかれ見返りを期待しているし、“誰か” を理由にすることで責任の一端を転嫁しているようにすらエメットには思えるからだ。だから、テレビや本の中の、エンディングが定められているストーリーでしかうまく機能できない。連綿と続く日々の最中にあっては、いつかきっと綻びが出る。
「インゴのときも思ったケド、キミたちヨクやるよネ。ボクには考えらんナイ」
「あは! でもそー思うんならなおさら、ひとのものに手え出しちゃダメだよ? エメット」
「ダカラ、さっきモ言ったケド、そーゆーんじゃナイってば。大体キミんとこの、タイプじゃナイし」
「うん、だからぼくのじゃなくて、インゴの…………えっ、もしかしてエメット、まだ気付いてない?」
挑戦者の48連勝と挑戦の続行を案内する連絡をBGMに、クダリが口を開く。