15/04/15(Tue)
reported by clark
――あ、これダメだわ。
クダリさんの腕をすり抜けるようにして上半身を起こし、立てた膝に額をうずめる。薄皮一枚で意識と感覚が遮断されていて、まるで夢の中にいるような気分だ。でもこめかみからズキズキと走る痛みは脳みそを丸ごと包んでいるかのようで、目の奥がぐりぐりする。腰から駆け上がってくる悪寒に、ぞくぞくと背筋が震えた。
「(――…仕事休みでよかったー…)」
二か月後に迫った結婚式の準備やら何やらでちょこちょこ有給を使わせてもらっていたり、早めに帰らせてもらうことが多かったから、風邪で急な休みを取るのはさすがにちょっとやりづらい。予定では今日のうちに招待状を終わらせてしまおうと思っていたのだが、微妙なところだ。午前中のうちにしっかり休めば、午後は普通に動けるようになるだろうか。
「……ん…、…?」
声に視線を向けると、薄目を開けたクダリさんが夢に片足突っ込んだまま、わたしをぼんやりと見上げていた。ひどく緩慢なまばたきの下で、鼠色のひとみがゆっくりと光を取り戻していく。バニラアイスがとろけるような笑みをのぞかせるクダリさんにうっかり手を伸ばしかけ、けれどできるだけ不自然にならないような所作になるよう気を付けつつ、わたしは伸ばした手で目覚まし時計の予約を解除した。
触ったら絶対バレる。熱はまだ測っていないが、このわたしが目覚ましのアラームが鳴る前に自力で起きてしまうほどだ、結構本気で体調が悪いのだと思う。じゃあバレたらどうなるか。仕事を休む、とまでは言い出さないにしても、やろうと思っていたことの大半について No を突きつけられるに違いない。…ああめんどくさい、なんでこのクソ忙しいときに風邪なんか引くかなあもう。
「…ふふ、が自力でおきてるの、めずらしい」
「今日はきっと槍が降りますよ」
「ギギギアルに守ってもらわなきゃだ」
漏らした笑みを枕に染みこませながら、クダリさんが言う。毛布の中からごそごそ腕が出てくるより先に、わたしはベッドから滑り降りた。ぐぐっと背伸びをするふりで、立ちくらみをやり過ごす。
「ほら、そろそろ起きないと遅れますよ」
クダリさんからの返答がない。目覚ましが鳴ったってなかなか起きないわたしが自力で起きているのだ、違和感はあるだろうが、それにしたってもうバレたのだろうか。でもそんな、この程度で?まさか! …と、そうは思うものの、振り返るのは怖い。一日中隠し続けられなくてもいい、せめてクダリさんが出社するまでの間だけ堪えよう。
できるだけいつも通りに、という決意を新たに振り返る。抉り出すような鼠色の視線に向き合い、わたしも仏頂面を作った。溜息をひとつ落とす。
「わたしははやく寝なおしたいんですー。ほら、さっさと準備してください」
「…はあい」
いってきます、という言葉に笑顔を返し、玄関のドアが完全に閉まったことを確認してわたしはその場にくずおれた。あーもう、頭痛であたまがいたい。訂正する気も起きやしない。腹痛や吐き気がないのは幸運だったが、だからといって食欲もない。頭痛に伴う眩暈で視界が回る。できることなら、この場で眠り込んでしまいたい気分だった。
腰のモンスターボールが弾けて、表情を曇らせたルクスがわたしを覗き込んでくる。この子にまで隠し事をするのは無理だと判断し、手を貸してくれるよう言葉をかけた。
「どうしよう、風邪ひいちゃった……」
言われなくてもわかってると言いたげに、ルクスがまなじりを吊り上げる。冬眠から覚めたばかりの熊みたいな足取りのわたしを支えてくれる腕は優しいのに、表情はもはやノボリさんだ。そんな要らんとこ見習わなくていいのにと思ってしまうのを止められない。キリリとした眼差しが、言葉より雄弁に彼の意志をわたしに語る。
「…だって、言ったらぜったい、ねてろってうるさいじゃん…」
今のルクスみたいに。
「わかってる、もーわかってるってば! 午前中はしっかり休むよ、休めばいいんでしょ…」
風邪薬を口に放り込んで、まだぬくもりの残る布団にもぐりこむ。ちんたらちんたら新しいパジャマに着替えているうちに、枕元には水が用意され、氷の浮いた洗面器とおしぼりがセッティングされていた。…いいなあ、サイコキネシス。わたしも使えるようになりたいなあ。そしたら、せっかく準備したのにサイコキネシスで取り上げられた本(現在地は身長プラス80センチの棚の上だ)、サイコキネシスで取り返すのになあ…。
いいかげん寝ろ、と言わんばかりに投げつけられたおしぼりが、わたしの額でべしゃりと音を立てる。目元まで冷やしてくるそれを自分の手で移動させ、わたしは渋々まぶたを閉じた。…ちら、と薄く目を開けると、そこにあるのは腕組みをして、わたしがきちんと眠っているのを監視するかのようなルクスの姿。視線がかち合うと紫炎を大きく燃え上がらせて威嚇される。
これならまだ、クダリさんの方がマシだったかもしれない。ずるずると泥濘に引きずり込まれるような眠りに落ちながら、いま何してるかなあとぼんやり思った。
自発的な意識の浮上と共にまぶたを無理やりこじ開ける。自然光に満ちた部屋の明るさがそのくせひどく眩しくて、眠っている間に忘れかけていた頭痛を呼び起こすかのようだ。熱い。熱いけど寒い。眠い。痛い。体が重い。……だめだ、これもう全然よくなんかなってない。
明るさから逃げるように寝返りを打つと、寝ている間に額から落ちていたらしいおしぼりが枕元で丸くなっていた。さわるとぬるい。それでも熱を持った目元には濡れた感触が心地よく、汗を拭くように顔をすべらせながら、ルクスが新しいおしぼりを差し出してくれるのを待った。
「………ルクス…?」
――なんでいないの。
ぐっと喉元を押さえつけられたような感覚に、息が詰まった。まるで心臓をひねり上げられたような痛みでずくりと胸が軋み、口内が一気に干からびる。ベッドから引き剥がすように体を起こし、頭蓋に走る痛みをおして周囲を見回す。喉を焼く焦燥感。ひりつくような渇きが、過去に経験し、けれど記憶の底に押し込めていた飢餓感をそっと逆撫でする。
「―――…っ」
胃の腑からせりあがる吐き気をぐっとこらえる。朝、腹になにも入れなかったのだから、吐くものなどどうせ何もないはずだ。大丈夫だ落ち着け、こんなところで吐いてたまるか。
喉の奥から広がってくる酸っぱい臭いを水と共に飲み下し、ほっと息をつく。この臭いに誘発されて再び吐き気など催されてなるものか。自分のものではないかのように重たい体を引きずって、もう一度顔と口を洗おうと寝室のドアを開ける。
「あ、ゴメン。起こした?」
ワイシャツにエプロン姿のクダリさんが、キッチンからこちらを覗き込んでいた。シンクを流れる水の音が止まって、エプロンの裾で手についた水気を拭いながら歩み寄ってくる。
「熱はどお……てゆーか、なんで何もはおってないの。体ひやしちゃダメ!」
カーディガンは?と問われて、そういえば昨日どこで脱いだっけ、と首をひねる。その途端、クダリさんの眉根がぎゅっと顰められ、鋭い溜息と共にその苛立ちがあらわになった。足元に忍び寄る飢餓感は、まるで底なし沼だ。ずぶずぶと足を取られて、抜け出そうとたたらを踏めばその分だけ体がうずまっていく。
ごめんなさい、という言葉が喉でかすれて声にならない。また怒らせてしまっただろうか、呆れられてしまっただろうか。……ああ、困ったな…ひとりきりは、もういやだ――
「はい、とりあえずコレ着て? まだ熱下がってないんでしょ?」
わたしには大きすぎるカーディガンが、肩にそっとかけられる。ついさっきまで水を扱っていたせいだろうか、額に押し当てられた手はひんやりと冷たく、その心地よさにまぶたを閉じずにいられなかった。鼻の奥がツンとする。わたしはずるずる鼻を啜った。
「……なんで…、」
「うん? なんでぼくがここにいるのかって?」
こくんと頷く。苦笑したらしい気配に目を開けるが、クダリさんはなぜか誇らしげな笑みをのぞかせていた。自慢げに胸を張って、にやりと口の端を吊り上げる。
「朝、ぐあい悪そうだなーって思ったから。お昼休みにかえってきた! どーせごはん食べてないんでしょ?」
「……ばればれ…」
「バレバレです。…ぼくとしては、なんで隠そうとするのか聞きたいんだけど」
「……………………」
「いちばん大切にしていい権利、ぼくにくれたんじゃなかったの?」
何も言えず、黙り込んでうつむくしかできないわたしの頭に、ぽんぽん、と軽く手が触れる。そのままゆっくりと髪を撫でられて、汗かいてるから汚いのになあと思う反面、痛みが和らぐ気がしたせいで “やめてくれ” と言えなかった。むしろ、もしかしてこのままぎゅうしてもらえたら、このだるさも消えるのかなあと我ながら荒唐無稽な考えが浮かぶ。…やはり想像以上に、わたしは参っているらしい。
「、ぼくもうそろそろ戻らなきゃいけないんだけど……だいじょうぶ?」
おかゆを温めて食べること、水分補給をしっかりすること、買ってきた冷えピタは一袋終わらせる勢いで使ってしまうこと、招待状なんか放っておいて午後もちゃんと休むこと。幼い子どもに言い含めるように何度も説かれて、わたしはこくりこくりと頭を揺らすことでそれらに答えた。もういいわかった、と言うだけの気力もない。
「できるだけ早く帰ってくるから」
べつにだいじょうぶ、という言葉が声にならず、わたしは小さくうなずいた。クダリさんの笑顔がくしゃりと歪み、まるでノボリさんのそれのように口の端が引き下ろされる。今にも雨の降りだしそうな、曇天を模した鼠色。
へらりと笑って、今度こそ大丈夫と伝えようと顔を上げるも、クダリさんの表情は曇ったままだ。むしろ、わたしが笑おうとすればするほどクダリさんから笑みが削げ落ちていく。
――…あ、そうか。このひとのまえでなら、つらいときに、つらいかおしてもいいんだ。
「(…じぶんはいっつも笑ってばっかなのに、へんなの)」
「…? ごめん、もしかしてすごくつらい?」
変なの。だって、他人がつらいときばっかり、つらそうな顔するなんて。
「だいじょうぶです。…ぜんぜん大丈夫なんで、クダリさん、できるだけ早くかえってきてください」
おかしなゆめをみた。
わたしが結婚とかしようとする夢。しかも笑えることに、笑えるほどきれいな顔立ちをした男の人と。…そうそう、モミアゲの形が冗談みたいでさあ…逆にあれが違和感ないっていうか、似合ってすらいるんだからすごいと思う。イケメンは何してもイケメンってことですねわかります、※但しイケメンに限る、みたいな。
あんないい思いをするなんて現実世界じゃありえないんだから、もっと堪能しておけばよかった。人間って、血も繋がらない他人のことをあんな大切にできるもんなんだなあって感じ。いやー正直信じらんないですよねー、あのひともどんだけ見る目ないんだっていう。まあ夢の話なんだけど。
……え、どんなひとだったのかって? だから、呆れるほどきれいな顔立ちした男の人だってば。ウソみたいなモミアゲ付きの。…性格? 夢の中の話なんだから、そんなのはっきり覚えて……いや、覚えてるわ。覚えてる。なんか、変なひとだった。子どもっぽいけど妙にしっかりしてて、要領がいいっていうかちゃっかりしてるっていうか…。で、いっつもにこにこしてて、顔に笑顔が貼り付いてるみたいな。怒ってるときも悲しいときも、寂しいときも笑ってて、甘え上手なくせに甘え下手で、わかりやすいんだかわかりにくいんだかって感じの……だから変なひとだって言ったじゃん、わたしと結婚なんかしようとするひとだよ? 変なひとに決まってるでしょ、夢の中ですら。
てゆーか、そろそろ行かなきゃ仕事遅刻すんじゃないの? ザンネンでしたー、今日は二限目からの講義だからわたしはゆっくりでいいんですー。イエイ、大学生万歳! ……うん、わかってるって。じゃあいってらっしゃい、
「―――――」
「――…おはよ、」
目を開けると、馬鹿みたいにきれいな顔立ちをした男の人、が、わたしを覗き込んでいた。部屋が暗い、一体いま何時なんだろう。細く開いたドアの隙間から漏れてくる光だけが光源で、視界がはっきりしない。光源に背を向けているその人の表情はなおさらだった。銀色のひとみだけがゆらゆらと光っていて、まるで水鏡に浮いた月のようだ。
「…おはようございます、クダリさん……いま何時ですか?」
「ん、いま夜の八時。具合どーお?」
「すーごく楽になりました。…今日はすいません、いろいろご迷惑を、」
くしゃり、とクダリさんの表情がゆがむ。――ああそうか、これが違うのか。
「…気にかけてくださって、ありがとうございます」
照れたように軽く目を伏せ、ゆるく首を振りながらクダリさんが微笑む。額に押し当てられた手のひらが頬に滑り、汗で肌に張り付く髪をよけた。ぺたぺたする感覚が申し訳なくて逃げようとするが、骨ばった指は当たり前に追いかけてくる。横目でちらと様子を窺うと予想通りのチェシャ猫笑いだ、チクショウ遊ばれている。
「どのくらいに帰ってこられたんです?」
「うーん、七時くらい? ノボリに押し付けて帰ってきちゃった」
「えっ。…だ、だいじょうぶなんですか、それ」
「だいじょーぶだいじょーぶ! ノボリもひとりでお仕事くらいできるよ」
「や、わたしが言いたかったのはそういう意味じゃ……まあいいや」
この調子なら明日は普通に出社できそうだし、そのときお礼を言いに行けばいいか。そう思いながら視線を巡らせた先で、ルクスがクダリさんの枕にうずもれるように眠りこけていた。眠気や夢とごっちゃになっていてはっきりとは覚えていないが、そういえば甲斐甲斐しく汗を拭いたり冷えピタを替えてくれたりしていた気がする。この子へのお礼も考えておかねばなるまい。
「“ごめんなさい” なんてゆったら、たぶんルクスも怒るとおもうよ?」
「……気を付けます」
ごはん食べられそう? というクダリさんの言葉にゆるく首肯する。朝から晩まで眠り続けていたせいでお腹の中はからっぽだ。
「あー…でも先にざっとシャワー浴びちゃいたいんですけど、」
「ん、わかった。じゃあその間に、よーいしといてあげる」
――ああ、そうか。
「…わたし、じぶんでやらなくてもいいんですっけ」
「そーだよ? もうぼくがいるもん」
腹からせり上がってくる衝動を、ぐっと奥歯でかみ殺す。落ち着けバカ、自分の状況考えろ。体中、汗でべたべたなんだぞ。せめてシャワー浴びて着替えてからにしろ、つーか頭を冷やせ。
「……。いくらなんでも、今日はエッチなことは、」
「誰がんなこと言ったんですか。そうじゃなくて、わたしはただ、」
あ、マズイ。いま絶対要らんこと口走りかけた、というか口走った。
いまさら気付いて言葉を飲んでももう遅い、クダリさんのくちびるがにんまりとした弧を描き、鼠色のひとみが弓状に引き絞られる。ああもう、頭痛であたまがガンガン痛い。この頭痛や疲労感や発熱の、なにより重大かつ決定的な原因は、他のなんでもないコイツのせいなんじゃないかと思わずにいられないが、それを言ったらかえって喜びそうな気がしないでもないので黙っておく。
「…………シャワー浴びてきます」
「はあい。――あ、そうだ。ねえ?」
「…なんですか」
「あのね、結婚してー、もし赤ちゃんできても、ぼくのこと名前で呼んでくれる?」
……いきなり何を言い出すんだコイツ。
「あ、たまにでいいから! おとうさん、っていうのと使い分ける感じで!」
「……はあ、いいですけど…。いきなりなんです? 突拍子なさすぎませんか」
「んーとね、ないしょ!」
そう言ってころころと笑ったクダリさんに小さな違和感。はやく入っておいで、と言い残して部屋を出ていく背中を見送りながら、わたしは首をひねることしかできなかった。なんとなく聞きづらく、しかも多分、聞いても答えてくれないような気がして。
――変なの。
「(……なんで 『ごめんね』?)」
「おとうさん」
2012/08/01 脱稿
2012/08/11 更新