07/17(Tue)
reported by:temp
そのあとはもう、目まぐるしいばかりだった。
あっという間にペンドラーは降され、その場にくずおれたそのトレーナーとそのゆかいな仲間たちは、引っ立てられるようにしてずるずると駅長室に連れられて行った。彼らを先導する新人鉄道員の手には、ボスから渡されたオノノクスのモンスターボールが握られている。抵抗の余地があるはずもなかった。
ばたばたと駆けつけてくださったクラウドさんによると、あのひとを呼んできてくれたのは被害者たる女の子だったらしい。なるほど道理で、状況に不釣り合いなほど毅然とした表情でうなずき返してくれたわけである。しかもそれで呼んできてくれるのが黒のサブウェイマスターだなんて、状況判断の素晴らしすぎること。まったくや、お前なんかとは比べ物にならん。告げられた言葉に、わたしはすみませんと言うのが精一杯だった。
医務室で顔を合わせた当の彼女はもう泣いてなどおらず、両手をぎゅっとあわせて「間に合ってよかったです」 と微笑まれてしまった。感謝の言葉を口にするのはむしろわたしの方である。
「でも、おかげでわたし、初めてノボリさんとお話しできました! ありがとうございました、なんて言われちゃって」
と、照れた表情で語る彼女は、どうやらノーマルシングルに挑戦中の身であるらしい。…あれこれ、わたし要らんことしたんじゃね?なんて考えたら負けだ。あなたならきっと勝てると思います。なんの根拠もないが、万感の思いを込めてそう告げると、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。すべての思いが報われた気分だった。
――なんて風に、ここ二時間くらいの状況を走馬灯しているのにはわけがある。
わたしが今立っているのはサブウェイマスターの執務室の前だ。ついさっきノーマルのダブルトレインが発車したはずだから、室内には黒ボスしかいらっしゃらない。らしい。
「
――他にもお前さんにはいろいろ言いたいことあるけど、俺からはこんくらいにしといたる」
いやもうだいぶ絞られましたけど。こんくらいで勘弁したる、みたいな、なんですかそれ。
「黒ボスが、お前を執務室でお待ちや。…ま、覚悟していくことやな」
えええええええ。覚悟ってなに、どういうことなの…。
クラウドさん以外にも、がんばれよと言葉をかけられたり、肩を叩かれたり拝まれたりご焼香されたり(シンゲンさんあんにゃろう)、得体の知れない恐怖は大きくなるばかりだ。こういうときばっかりクダリさんはいないんだもんな、とトレイン乗車中の彼を詰ってみるが、いたらいたで面倒かもしれないと思い直した。うん、やっぱいいや、たぶんあのひとめんどうくさい。
「…………………」
ノックしようと掲げた手が、いざ扉を叩こうとして止まる。何度目だこれ。さすがに情けな 「、いるのでしたら早く入ってきてくださいまし」 はい、失礼します。
黒ボスは、席について資料に目を通していた。わたしが部屋に入ってきたことはわかっているはずだが、こちらには一瞥もくれない。どこに立ったものか迷い、けれどこうして出入口に突っ立っているのもなあと考え、とりあえず部屋の奥へ進んだ。事務机を間に挟むようにして、黒ボスの前に立つ。
「お呼びですか、ボス」
あ、このひと事務仕事片づけるとき、眼鏡するんだ。
「……怪我は、本当にないのですね」
「はい。ボスとシャンデラのおかげです。ありがとうございました」
「…………………」
―――えっ、ここわたしがなんか言葉つなげるとこ? ふっつりと黙り込んでしまった黒ボスを前に、わたしは途方に暮れる。覚悟しろっていうのはもしかして、居たたまれなくなるような沈黙に覚悟しろよってことだったのだろうか、いやまさか。
黒ボスは手元の資料に依然目を落としたままだ。立っているわたしからは幾分斜め下に見下ろす具合になることと、見慣れない眼鏡のせいで、ボスの表情がよくつかめない。もともと無表情であることも考慮に入れれば、わたしにはもうお手上げ状態だ。どう出ても、何を言っても地雷を踏む気がする。せめて一度目が合えば、なにかしらわかると思うんだけど
――、そう思ううち、ご自身の目元をボスの手のひらが覆った。外された眼鏡の下から伏し目がちなご尊顔がのぞく。ばさりと乱雑に放られた書類が、机の上を滑った。
「…。わたくしが前、貴女に申し上げたこと、覚えてらっしゃいますか」
「えっ……と、挑戦者の対戦成績でしたら、今まとめているところで、」
「もっと以前の話です」
ぴしゃり、という擬音語が適切だろう。わたし自身、これは違うだろうな、と思いながら言ったことではあったので大して驚きはしないが、それにしたって弾き返し方がガチだ。とりあえず、なにかジョークの類で和ませられるような空気でないことは把握した。
「わたくしは貴女に、あまり無理しすぎず、皆の力を借りるようにと申し上げたはずですが」
「あ、はい。…覚えています」
だって、忘れるはずがない。
名前を含めて挨拶したのは入社時のたった一度。なのに至極当たり前のように名前を呼び、お疲れ様と声をかけてくださったときの、あの鼻がムズムズするような感動を忘れられるはずがない。それにあの日以来味を占めたクラウドさんは、わたしにしょっちゅう書類を預けるようになり、おかげでこの黒ボスとちょこちょこ話ができるようになったのだ。
「
――嘘をつくのは、お止めくださいまし」
だから、黒ボスが吐き捨てたセリフに、わたしは言葉を失うしかなかった。いつもと口調は変わらないのに、声音は絶対零度だ。研ぎ澄まされた刃のようなそれに、喉を切り裂かれる思いがする。
「な…っ、嘘なんかじゃ、」
「では何故! わたくし共に一言、ご連絡くださらなかったのですか!」
叩きつけられた言葉に、あたまが真っ白になった。耳の奥でぐわんぐわんと音がして、脳みそが頭蓋の中でぐらぐら揺れて、まるで本当にぶん殴られたみたいだ。心臓が燃えるように熱くて、全身をめぐる血が沸騰したみたいに痛いのに、指先からするすると体温が逃げていく。
立ち上がり、わたしを見下ろす鉛色のひとみは怒りに燃えていた。眼差しを受けて、喉が焼ける。
「す、すみませ…、」
「形だけの謝罪など、聞きたくありません」
ノボリさんのその言葉を受けてなお、震える口からこぼれるのが謝罪であることに、我ながら情けなくて泣きそうになった。でもそれ以外に何を言えば、どうしたらいいのかわからない。形だけのつもりなんかない、なのにそれをどうやって伝えればいいのかわからない。
ひくり、と喉が震える。体の中心はどろどろに溶けたマグマみたいに熱いのに、風邪を引いた時みたいに悪寒が止まらず、ひどく寒い。口の中で奥歯がガチガチと音を立てる。向けられた感情の大きさに飲み込まれそうになる。
「トレーナー相手に、ポケモンを持たない貴女が、太刀打ちできるとでも?」
首を振る。
「いいえ、トレーナーでなくとも、向こうは男三人。万が一、彼らが乱暴な手に出ても、貴女一人で対処できたのですか?」
無理だ。だからこそ、ひとりで声をかけたのは失敗だったかもしれないと思った。でもそう思ったときには既に声をかけてしまった後だったし、あんなことになるなんて思ってもみなかった。このギアステーションにいるのだから、トレーナーかもしれないという意識はあった。けれど、まさかポケモンを出していたなんて知らなかった。あの女の子に実質的な被害が及ぶ前になんとかしなきゃいけないと逸る気持ちもあったし、“ちょっとしたトラブル” 程度できっとなんとかなると思ったのだ。
このくらい、なんとかできて当たり前だと思ったのだ。
「
――つまり貴女は、わたくしたちを信用していないのです」
「……っ!」
「信じるに足らないと、頼るのに値しないと、そう判断しておられるのでしょう?」
「ちがっ、ちがいます! ほんとうに、そんなこと、」
「貴女がなさったことは、そういうことなのです」
こどものようにあたまをかかえて、ちがう、そうじゃないと、なきじゃくれればいいのに。
わたしはそれすらできない。喉を震わせて馬鹿みたいにノボリさんを見上げ、鉛色の眼差しに打ち殺される言葉を、それとわかっていながら馬鹿みたいに紡ぐことしか。そのひとみが失望に染め上げられるのを心の底から恐怖しながら、けれどその恐怖に怯えて、目をそらすことも。
「…おそらく貴女のことです、被害に遭われたお客様の身を案じ、一も二もなく飛び出してしまったのだと思います」
ちがう、そうじゃない。
あのときのわたしは、ただあなたたちにみとめられたいだけだった。
これを武勇伝として語って聞かせるつもりはなくても、わたしがわたしとしてこのひとたちの部下であるためには、ひとりで対処できて当然なのだと。このくらいで力を頼って、やっぱり、なんて思われたくなかった。まあしょうがない、なんて思われると想像するだけで、屈辱感で視界がゆがむ気がした。
そんなことを考える人たちじゃないことは、わかっていたはずなのに。
「ですが、どうかひとつだけ、忘れないでくださいまし」
いつの間に机の向こう側から回り込んでいたのだろう。片膝をついてわたしを見上げるノボリさんに、息が止まった。あたまの中がごちゃごちゃでもう何もわからなくて、けれどもし名前を付けるとしたらきっと 恐怖 が一番近い、そんな感情が心臓で爆発して、もう息をするのも苦しくて、わたしはずり下がろうと竦んだ足を動かす。
ノボリさんはわたしの手をつかんだ。両手をそれぞれ捉えられ、おへその前あたりで両手合わせてぎゅっと強く握りこまれる。仕事中、ずっと着けているはずの白手袋はなかった。直に触れたノボリさんの手はすこしごつごつしていて、わたしの手なんかすっぽり包み込まれてしまうほど大きくて、それでいてひどく熱かった。
「わたくし共サブウェイマスターは、このギアステーションを利用される方の安心と安全を、ひいてはその笑顔と日常を守ることこそが、その使命に御座います。…お客様はもちろんですが、」
――火傷するかと、思うくらいに。
「、貴女たち職員も、わたくしたちが守りたいと思うもののひとつであること。…これだけはどうか、心に留めておいてくださいまし」
もうこれ以上は、むりだった。
ウレシイのかコワイのか、カナシイのかクルシイのかイタイのか、何が何だかわからないのにぼろぼろとなみだがこぼれてきて、わたしは今度こそ子どもみたいに泣きじゃくった。考えることより思うことより、何よりも先になみだがあふれて止まらない。感情も理性もあふれるなみだに追いつかなくて、なんだかもうひたすら苦しい。からだのどこで、何がどう爆発したのかがわからず、修復することすらままならない。
その状態で、わたしはノボリさんに喉を震わせ続けた。さっきと同じように跳ね除けられてもいい、でもどうしても伝えたくて、何をどう言葉にすればいいのかわからないまま、何度もしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。引きつる喉から漏れるわたしの言葉にならない声に、「わかってくださればいいのです」 と応じたノボリさんは、そのまなじりをそっと細めた。
「わたくしこそ、到着が遅くなって申し訳ありません。…貴女に怪我がなくて、本当によかった」
なんなんだよもー、こいつわざとやってんじゃねえのー! また堰を切ったようにこぼれだすなみだを、わたしは為す術なく滂沱のように流し続けた。だってもうこれなんで泣いてるのか、正直よくわからないもの。なんで泣いてるのかわからないものを、どうやって止めればいいの、止める方法なんてあるの。…つかわたし、今気付いたけど鼻水めっちゃ出てる。ノボリさんの目の前で鼻水めっちゃ出てる! ちょ、マジでか、ティッ……てか手ぇつないだまんまかよおおおお。
あたまの中は割と通常運転なのだが、いかんせんなみだが止まる気配を見せない。事ここまでくると、涙腺だけ別の生き物になって、わたしの意志から離れて勝手に旅に出ていってしまったみたいなきぶ 「ヒクッ」 んだ。……ちょ、ちょっと待てこ 「ヒック」 れ、まさ 「ヒグッ」 ………。
「ああ、ついにしゃっくりまで…。大丈夫でございますか、。苦しくありませんか?」
正直言うとだいぶ苦しいです。馬鹿みたいにぼろぼろ出続けるなみだと、ペース早めなしゃっくりの二重奏だ。ちなみにもう鼻も詰まって使い物にならない。ちょっとこれどこから息吸えばいいの、と混乱しかけたわたしを、そっとたしなめるように響く鼓動にも似たあたたかなリズム。
「落ち着いてくださいまし、。だいじょうぶ、だいじょうぶですから」
ぽん、ぽん、と背中をやさしくノックする手と、静かで穏やかな声音。
――もうやだこの天然紳士…!再び込み上げてくるなみだにいよいよ、自分がなぜ泣いているのかという理由を見失う。萌えとともに、体中の水分を目から絞り出そうかとでもしてんのかな、といい加減なことを考えはじめたわたしの目元を、ノボリさんの指がなぞった。
「このように泣かれていては、クダリが戻ってきたときにわたくし、きっとどやされてしまうでしょうね」
「…? な、んで、」
「クダリはたいそう、貴女のことを 「ノーボリー! ただい…ま……」
噂をすれば何とやら、ノックもなく執務室の扉を開け放ったクダリさんは、わたしたちを見て笑顔のまま時を止めた。顔に張り付いた笑みは変わらない、けれど目だけがバスラオのようにぎょろぎょろと動いて、わたしとノボリさんを見比べている。なんかめんどうくさいことになりそうだなあ、と思いながらわたしは鼻をすすり、ノボリさんはいつもの冷静な声で 「入室時にはノックをするようにと、いつも申し上げているでしょう」 とため息をついた。
「!」
ぐんっ、と二の腕をつかまれて体が傾いだ。思わずよろめくわたしを、クダリさんが覗き込んでいる……ちょっ、近いな。近すぎるぞオイ、わたしいま鼻水出てるから本当に勘弁してほしいんですけど。
「どうしたの、どっかいたいの?悲しいの?苦しいの? それともノボリになにかされた?」
「クダリ、人聞きの悪いことを言わないでくださいまし」
「ぼく今に聞いてるの、ノボリはだまってて! ねえ、どうして泣いてるの?」
それが分かりゃ苦労はしないんですけどね。そう言いたいのは山々だったが、そんな長台詞をしゃっくりによる中断なしに言えると思えず、わたしはただ、ノボリさんの関与を否定するために首を振る。…まあ厳密に言えば、ノボリさんに泣かされた、ということになるのかもしれないが、ニュアンスが違いすぎる気がする。
「ノボ、り、さん、っわるく、ない、です…っ」
「でも、じゃあなんで泣いてるの? あたまいたい?おなかいたい?」
「わ、っかん、な…」
それだけ言ってうつむくわたしの頭を、クダリさんの手がゆるゆるとなぞる。いつもの、髪をぐしゃぐしゃにかき回すようなそれではなく、たまごから孵ったばかりのポケモンをやさしく慈しむような。無遠慮にのぞきこんでくる鼠色のひとみは、しかし本当に心配そうな色をたたえている。いつもと変わらない弧を描いた口からは、まるで子守唄のように、「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」 と言葉が紡がれ続けていて、なんなんですかここは天国ですか、と通常運転に戻りつつある思考が羞恥に叫んだ。役得ではあるが、ちょっとばかし走る電車に飛び込みたい気分だ。恥ずかしすぎて死ねる。
「あっ、そうだ!」
心配そうにわたしを覗き込んでいたクダリさんは、そう言うや否やぱっと満面の笑みを浮かべた。その変わり身の早さたるや、アギルダーに勝るとも劣るまい。
――この時点ですでに、嫌な予感はしていた。このひとがこういう突拍子もない行動に出るときは大概ろくでもないことを考え付いたときで、その結果ろくなことにならないのだと相場が決まっている。
そしてそういう場合、往々にして、わたしに拒否権は与えられないのだ。
「あのね、なみだの止まるおまじない」
なんのことだ、と眉根を寄せるわたしのまぶたに、マメパトが餌をついばむようなキス。
「………………………」
「………………………」
「……あ、ほんとにとまった!」
よかったー、やっと泣き止んだー!
きゃあきゃあと子どものようにはしゃぐ上司を押しのける。ちょっと待て、なんだ今の。いやいやいやいや、ないないないない。だっておかしいだろ、泣いてる部下を泣き止ませるためにキ……って、おかしい!絶対おかしいよねこれ!ここ仕事場ですけど、仕事中ですけど!?いや、じゃあ仕事場でもなく仕事中でなければいいのかって、そういうわけじゃねえよアホなこと抜かすなボケェ。わたし間違ってない、間違ってないよねこれ!
「……………………」
視線を感じてはっと顔を上げると、その先には黒のサブウェイマスターが突っ立っていた。先ほどまでの無駄に洗練された仕草をうっちゃり、あの、ええと、その、とこぼれる言葉はしどろもどろだ。…制帽をかぶりなおして必死に隠そうとなさっているのかもしれませんけど、耳、真っ赤ですよ。だいばくはつでもされるおつもりですか。
「わ、わたくしは、何も見ておりませんので…っ!」
失礼しますっ、と若干裏返った声を残し、ぴゅーっと逃げ出してしまったノボリさんを呆然と見送り、わたしはため息をつく。とりあえず、「ノボリ、いってらっしゃあい」 と甘えた声を出す白にボディブローを打ち込み、それからクラウドさんに書類を一枚提出しよう。
本日は体調不良により、早退させていただきます。
たぶんこの天使、扉の向こうで二人の話ぜんぶ聞いてた。
2012/04/11 脱稿