09/28(Fri)

reported by:temp



 「――あっ!やっぱりだ!」

 聞きなれた声に振り向いたときには、腰にタックルを受けていた。予想外の衝撃に思わず呻き声が漏れ、しんと静まり返った図書館内にわたしの情けない悲鳴が響き渡る。そのまま床にくずおれなかったのは、日ごろの成果なのだろうか。まったくもって嬉しくない。

「なっ……にするんです、危ないじゃないですか」

 うっかり職場にいるつもりで声を張り上げてしまった。ドスドス突き刺さる鋭い視線を感覚して、わたしは声を潜める。その配慮に気付いているのかいないのか、わたしを白い目に晒させた原因たるクダリさんは、へらりと笑ってごめんごめんと頭をかいた。反省の色は欠片も見えない。かわいけりゃ何でも許されると思うなよ、胸の内でそう毒づきながら、わたしは 「次からは気を付けてください」 と仏頂面で告げる。……かわいいは正義だ。

「クダリ! 図書館では静かにするようにといつも、…おや、ですか?」
「やっぱりノボリさんもいらっしゃったんですね。お疲れ様です」

 本棚の影から姿を現したのは予想通りノボリさんで、彼はクダリさんに向かって吊り上げたまなじりをついとほころばせ、お疲れ様ですと言葉を返してくれた。ああ、ノボリさんとおはなしするのは本当に落ち着くなあ。なんというか、ぽかぽかと太陽の光に満ちた縁側で、お茶をすすりながらチョロネコの背中をなでている気分になれる。……チョロネコ、あくタイプだけど。

「本日、は終日お休みでございましたね」
「はい。…午後休のお二人には、合わせる顔がありませんけど」
「何をおっしゃいます! 休日にしっかり休養を取ってこそ、仕事にも打ち込めるというものです。全力で、きっちりお休みくださいまし、

 まるで “サブウェイマスター” のような口ぶりでノボリさんが言う。すこし大げさなその物言いにわたしが小さく笑みを漏らすと、それに気付いたらしい彼は鉛色のひとみをわずかに弛ませた。なのに口角はいつも通りきゅっと引き締められたままで、妙な違和感がある。このひとは確かに表情の変化に乏しいけれど、その割にわかりやすいところがあるのだ。
「(…あ、そっか。いまのわざとだったんだ…)」
 自分でやっておきながら、自分で照れちゃったんだ。で、今はそれを必死に隠している、と――

「………………………」
「…………………ふへっ」
「わ、笑うなら、堂々と笑ってくださいまし」
「あれ、いいんですか?」
「〜〜〜〜っ、やっぱり、我慢してくださいまし…」

 信じられるか? こいつ、わたしより年上で、しかも責任ある役職の上司なんだぜ…?
 そりゃギアステーション職員による、職員のための “上司がかわいすぎて仕事が手につかない” の会が発足するわけである。活動理念はただひとつ、サブウェイマスターのお二人の言動について報告しあいながら、酒を飲むだけ。社外の人間にはなかなか、というか気味悪がられて理解してもらえないのだが、これで結構参加者は多い。老若男女を問わず参加者があるから、もはや社内レクリエーションと化してきた部分もあって、人脈を広げるにはかなり有効な場となっている。…そこで出会ったひとたちがそのまま社内恋愛へ突入、結婚、という流れも珍しくないのだそうだ。
 ちなみにわたしは一度だけ、クラウドさんに無理やり引きずられて参加したことがある。だって、気持ちはわかるが、上司の言動を報告しあって、それを肴にお酒を飲むなんてちょっと理解が追い付かない。いや、気持ちはわかるけど。

、本すきなの?」

 小脇に抱えていた本にクダリさんの手が伸びる。このひと本当に遠慮とか配慮とか、そういうのないよな、と白い目を向けるわたしに気付くことなく(…いや、気付いたうえで無視しているに5BP)、彼は自身の手元で本を広げた。どうするんだろう、もしその本がなんかこう、人目をはばかるようなものだったら。――いや違うけどね。地下鉄内で堂々と、ブックカバーなしに読める本だけどもね!

「まあ、勉強も兼ねて、読むことは多いですかね」
「素晴らしい! 自己研鑽とは、わたくし感心いたしました」
「どこで何がどう役に立つか、わからないですから」

 だめだな、ノボリさんに褒められると普通に照れる。頭をかきながらへらりと笑ったわたしを射抜く、鼠色。

「ふうん。…たとえば、次の職場とかで?」

 ―――こ、のクソガキ…!
 思わず鋭くなる視線の先で、クダリさんはいつもと同じ笑みを張り付けている。「あは! あったりー!」 とくるくる笑うそのひとの手から、民法の本をひったくるように取り戻し、わたしは漏れそうになる舌打ちに耐えた。ああそうだよ、あんたの言うとおりだ。わたしは別に、ギアステーションで働きたいわけじゃない。派遣社員として職場を転々としながら、ある程度安定したお給金がもらえればそれでいい。ギアステーションで働き始めて半年、そろそろ次の仕事先について模索し始めて、何が悪い。

「…わたしはしがない派遣社員ですから。勉強しないと、無職になってしまいます」
「そっかー。タイヘンだね?」
「ええ、大変なんです」

 わたしに対するその言動が、クダリさんの把握する “笑ってゆるしてくれる範囲” に適合するのかと思うと割と本気で腹立たしく、「それ、大きな大間違いですよ」 と言葉を叩きつけたくなる。それに、この無駄に端正なツラを引っぱたくかぶん殴るかしたら、どれだけスカッとすることだろう。
 いかん、だめだ。大人になれ、大人になるんだ。お前がならなくて誰がなる、可哀そうなこの白のサブウェイマスターは年齢と性格から判断するにもう無理だ。きっと手遅れだ。やれる、お前ならやれるよ!がんばれ!

「そういう物言いをするものではありません。およしなさい、クダリ」
「……だって!」
にはの事情というものが御座います。貴方に口出ししていいものではありません」

 そーだそーだ、ノボリさんもっと言ってやれ! 心の中でクダリさんに向かって舌を出していたわたしは、突然ノボリさんに頭を下げられて飛び上がった。えっ、なんで?なんでノボリさんが謝るんですか……っていうかそこの弟、お前はもう少し悪びれろ! 手元から本がずり落ちそうになるのを阻止しながら、わたしは両手を振る。

「不躾な物言いをお許しくださいまし、
「や、本当に気にしてないので! 顔を上げてください」
「ほらぁ、気にしてないって言ってるじゃん」

 おい弟ちょっと黙ってろ。わたしの小さな舌打ちに目ざとく気付いたらしいクダリさんは、「わあ、こわあい」 ときゃらきゃら笑いながら本棚の向こう側へ消えた。無関係なはずの兄に頭を下げられ、当事者であるはずの弟にはなんの効果もなく、わたしの苛立ちは昇華する行き場をなくして腹の底にどろりと沈む。あんまり抱え込みたくない代物ではあるが、飲み込んで、それで終わりにしなきゃならないものがこの世には腐るほどあるのだ。あきらめるしかない。
 わたしは、気遣うように眉根を寄せたノボリさんに微笑んだ。

「本当にだいじょうぶですから。…クダリさんの言いたいことも、わかりますし」
――いえ、あの子は、」
「今のことすらちゃんとできてないのに、それから先のことなんて、考えてる余裕あんのかよってんですよねえ。…まあ、余裕ないから考えてるんですけど」
―――…あの、。このあと、何か予定は御座いますか?」

 なにか、妙に思いつめたような鉛色のひとみに、わたしは目を丸くして首を振った。図書館に寄ったのも、借りたDVDを返しに行くついでに足を延ばした程度で、大した理由があったわけじゃない。
 わたしのその返答に、ノボリさんはまたほっと表情をくつろげた。でしたら、と続けられる言葉に柄にもなく緊張する。このひとの天然紳士っぷりは、TPOを弁えず、いつでもどこでもお気軽に発揮されすぎるのだ。まったくもって心臓に悪い。

「先ほどのお詫びも兼ねて、ご一緒にコーヒーでもいかがですか。近くにいい店を知っているのです」



 なぜあなたはポケモンを持たないのですか。
 手持ちはもちろん、ボックスにも一匹たりともポケモンを預けていないわたしに、よく投げかけられる質問だ。幼稚園に入る前の子どもだって、いわゆるペットとしてポケモンを所持する世界だ、小学生にもなれば自分で捕まえたポケモンを相棒としている子だって少なくないし、十歳を過ぎればポケモントレーナーを目指す子の多くは一人旅にすら出てしまう。
 ポケモンが傍らにいる生活が当たり前。そんな中、たったの一匹もポケモンを所持したことがなく、また所持しようとしないわたしは、だいぶ特異な存在であるらしい。“らしい” というのは、わたし自身が特異であるということに無自覚、かつ無関心であるせいで付随してくる語尾なわけだが、目の前の双子の上司にとってもどうやら、わたしは特異な存在であったようだ。

 目をまあるくしているご両人は口元以外本当にそっくりで、彼らがそのまましばらく動かないのに退屈したわたしは、視界に映る彼らの口元を手のひらで隠して、「おお、やっぱすごい似てる」 と遊んでみたりした。そのうち、弟のほうに 「なんで!?」 と食って掛かられ、手のひらを押しのけられた際に軽く突き指したので、心の底から後悔したが。

「なんで、と言われましても…」
「だって、ポケモンいるのふつう! みんな持ってる!」
「みんなが持っているから、持たなければならないもの、なんですか?」
「ですが、実際彼らがいないと不便なことも多いのでは…、」
「お二人はポケモンバトルを生業にしてらっしゃるので特に想像できないのかもしれませんけど、日常生活を送る上では意外とどうとでもなりますよ、ポケモンなしでも」

 学校や会社のなかには、ポケモン持参がご法度になっているところもある。ポケモンを持たなければトレーナーに勝負を仕掛けられることもないし、「そらをとぶ」 が必要なほど職場と自宅も離れていない。ポケモンなしで街の外に出ることは難しいが、ここ、ライモンシティはイッシュでも有数の娯楽都市である。基本的なことはこの街の中ですべて事足りる。他の街に行ってみたいと思わないこともないが、別にそこまでの希望もない。

「じゃあ、これまで一度も、ポケモンほしいって思ったことないの?」

 ――本当にこの人、嫌なところ突いてくるよな。

「…そういう、わけでも…ないんですけどね」
「? ほしいのに、いらないの?」

 いよいよ意味が分からないと言いたげに、クダリさんが笑顔のままで顔をしかめる。隣のノボリさんも意味を図りかねたのか、ひどく難しい顔をしていた。煙に巻くつもりはなかったが、そういう言い回しになるのはきっと、わたし自身よくわかっていない上に、あまり語りたくない内容だからなのだろう。自分に対してあきらめるのにも、もうずいぶん慣れた。

「わたしには、無理なんですよ」
「…どういう意味でございますか」
「言葉通りです。…ほら、わたし責任感とかそういうのないんで。ダメなんですよ、生き物育てるのとか」

 ここでへらりと笑って見せたのは、不謹慎だっただろうか。言った途端、ノボリさんの表情が険しいものになり、わたしは苦し紛れに手元のコーヒーカップに口をつける。せっかくおいしいコーヒーだったのに、すっかり冷めてしまった。今度また仕事が休みの時にでも、ひとりで来よう。
 ……沈黙が居たたまれない。ポケモンバトルの最中ではないのだから、ノボリさんがそうおしゃべりじゃないことはわかっていたし、この表情の険しさから言って軽妙で洒脱なトークというのは期待するべくもないが(もちろん、そんなものわたしにだって無理だ)、それにしたってクダリさんまで黙り込んでいるというのは一体どういう了見だ。こういうときこそ、若干空気の読めていないお子サマ発言で場の空気を和ませ、そろそろ出ましょうか、あ、わたしお金払います、いえそういうわけにはまいりませんここはわたくしが、みたいな流れになって解散するのが筋じゃないんですか! …ええい、ただの八つ当たりだという自覚はある。

「……、」

 どちらが言ったのか即座に判断できず、わたしはお二人を見比べるように顔を上げた。じい、と無遠慮なまでに注がれる視線の持ち主はクダリさんだ。嫌な予感はしたが、おとなしく 「なんですか」 と応じる。

「出よ」
「…はい?」
「外、いこ」

 言うが早いか、クダリさんはわたしの手をとった。ぐんっ、と容赦なく引っ張られ、わたしは咄嗟にバッグを鷲掴みにする。とてつもなく気が急いているらしいクダリさんは、まっすぐに前だけを見つめていて、その一歩後ろでややもするとこけそうになっているわたしのことなど気にも留めない。声をかけても聞き届けているのかどうか。…それでも、ここはいつもの仕事場ではない。わたしの背後には伝票がいる。

「ちょっとクダリさん! お会計がまだで、」

 ひらり、とわたしたちの座っていたテーブルで白い紙が宙に踊った。指の間にそれを挟んで、彼は苦笑しながらわずかに腰を折る。
――ここは、わたくしが』
 聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、わたしはうっかり赤面した。そうだ、忘れていた。あのひとの特性は、天然紳士だ。



 おそらくマッギョだって、もうすこしマシな移動をするだろう。
 見るも無残な姿勢のままずるずる引きずられてきたのは、近くの公園だったらしい。まだ日が高いこともあって、遊具で遊ぶ子どもたちの姿が遠目に見えた。こういう場所は、本来ならあまり近づきたくない。子どもが多いこともストレスの種なら、手持ちのポケモンを外に出しているひとも多く、わたしにとってはいろいろと気を回さなければならない厄介な場所なのだ。
 けれど、そのことをクダリさんが知るわけもない。ひたすら前だけを見て歩いていた彼が立ち止ったのは公園内にある溜め池付近で、そのときようやく腕も解放された。掴まれていた手首がうっすら赤くなっていて、勘弁してくれよと思う。

――ってうわ、何してるんですか!」

 思わず声を荒げたわたしを、クダリさんはきょとんとした顔つきで見返してきた。その手の中には、ピンポン玉サイズから手のひら大に復元されたモンスターボールが収まっている。…実際にポケモンを所持したことがなくたって知っている、これはモンスターボールからポケモンを出そうとしているときの所作だ。

に、ぼくの子たち見せてあげようと思って」
「はっ? なんで?」

 いけない、驚きのあまり敬語が吹っ飛んだ。

「だって、ポケモンほしいのにいらないんでしょ? だったら、すっごくすっごくほしくなれば、いらなくなんてならない!」

 ワオ、ものすごい理屈キタコレ。
 ――ね、いい考えでしょ? みたいな顔されても困る。いい考えどころか最悪だ。これまでにも何度かそう思ったことはあったが、今回のは群を抜いている。最悪も最悪、ド底辺だ。
 わたしは思考をめぐらせた。このままではまずい、いろいろと。どうにかしてこの図体と脳内の年齢が釣り合わないクソガキから、ポケモンを出そうという意思を撤回させなければ。……もうめんどくせーからこのまま逃げちゃおうかな、などと考え始めたわたしを覗き込む影。
 その表情は笑顔だ、いつもと変わらない。けれど匂い立つ不機嫌が、その笑顔をひどく鋭利なものに変えていた。笑顔のままアリの巣を破壊する子どもに似ている。…なんかどっかで見たことあるな、と思ったら数時間前、図書館で見たものにそっくりだった。ああそうか、このひと、あのとき怒ってたんだ。

「あの、さっきわたしお話ししましたよね? 無理なんですって、そういうの」
「むりってなに、ぼくわかんない。責任感がないとか、そういうこと言ってる?」
「それもありますけど、それだけじゃないです。…とにかく、わたしにはポケモンとか無理なんですよ。ボスに何をどういわれようと無理なものは無理なんで、ポケモンは出さないでください」
「……っ、なんでそんなかんたんに、無理とかって言うの!」

 突然怒鳴られて身がすくんだ。えっなんで、なんで今わたし怒鳴られたの? 意味がわからない、なんかわたし怒らせるようなこと言った?

「なんでもかんでも、すぐ無理、無理って言う! 、そう言ってすぐあきらめる!」
「だ…って、仕方ないじゃないですか! 無理なものは無理なんです、がんばってどうにかなる問題じゃないんです」
「そんなのわかんないじゃん! いっぱいいっぱいがんばったら、変わるかもしれないじゃん!」
「ああもう、聞き分けのない子どもみたいなこと言わないでください。第一、わたしが何をどう諦めようと、ボスには関係ないでしょう!」

 もはや、ただの売り言葉に買い言葉だ。勤務時間外だから問題ないよね、と思う反面、もうどうなってもいいやと本気で考えているあたり、わたしもだいぶ頭にきているらしい。…子どもみたいに駄々をこねて、願って、抗って、そうしていれば解決するような問題ではない。何も知らないからそんなことが言える、何も知らないから頑張れなんて――…どうせなら全部ブチ撒けてやろうか、とわたしの仄暗いところで声がする。そして後悔すればいい、「がんばれば」 なんて言ったことを。その言葉の無責任な威力を想像できないほど、このひとは子どもではないはずだ。

「……とにかく、もういいですから。ノボリさんが来るの待って、帰りましょうよ」
――――…」
「はい?」
「ぜんぜんよくない!」

 クダリさんがそう叫んだときだった。ぽんっ、という軽い破裂音が響く。

「(……っうそだろ、まじかよ…)」

 全身がこわばるのがわかった。緊張で息がつまり、恐怖で足がすくむ。口内が一気に乾いて、視線がそこに縫い付けられた。目を合わせるのが失策であることはこれまでの経験で十分すぎるほどわかっていたが、自分の意志に反して動くものをどう止めればいいのだ。ひくりと喉が引きつって、もう声も出ない。

「ぜんぜんよくないよ! …お願い、もうあきらめるのやめてよ…自分のこと、あきらめちゃダメだよ」

 なぜか涙声になりながら、クダリさんはそう言った。そしてその場にしゃがみ込み、足元に飛び出した自分の相棒のあたまをなでる。――でんきぐもポケモン、デンチュラ。マルチトレインの21戦目に、クダリさんが繰り出すポケモンのひとつ。
 モンスターボールのなかで昼寝でもしていたのか、彼は突然外に出されたことに戸惑いを覚えているらしかった。睡眠を邪魔されても不機嫌になることなく、ご主人たるクダリさんの手にすり寄る様は、なるほどよく懐いている。サブウェイマスターとして君臨するそのひとの手持ちポケモンだ、当たり前のことではあるが、手入れのされ方は尋常じゃない。

 ――もしかしたら、だいじょうぶかもしれない。そう思ったわたしを貫く、青の複眼。

「紹介する。この子、デンチュラ。ノーマルマルチでいつもぼくと一緒にたたかってる。…ねえ、だいじょうぶでしょ? むりなんかじゃないでしょ?」

 いやいやいやいや、あんたそれわたしの方からその子見ても言えんのかよ!
 そう叫べなかったのは、恐怖で舌が張り付いていたからだ。ペンドラーと対峙した時と一緒である。その目に閃く敵意に、息もできない。…わかってる、ごめん、だいじょうぶ。わたしはあなたに何もしないし、あなたの大事なご主人にだって何もしない。わたしがこの世界で異質なことはわかってる、でもわたしはあなたたちが思うほどには異端じゃない。安心して。わたしには、なんにもできやしない。

!」

 声とともに手をつかまれて、体が震えた。腕をたどった先では、クダリさんが笑っている。だいじょうぶ、しんぱいしないで。クダリさんの手がわたしのそれを掴んだまま、デンチュラのあたまに伸び――

「……ッ!」

 ピリッとした痛みに、わたしはクダリさんの手を振り払った。軽い電撃だろうか、指がぴくぴく痙攣を起こしている。この程度で済んだのは、きっとクダリさんがわたしの手をつかんでいたからだろう。ご主人思いのいい子なんだな、と思うと口の端がほころんだ。

「…っデンチュラ、なにするの!」

 クダリさんの怒りにデンチュラは応えない。彼は押しとどめようとするクダリさんの腕から這い出て、わたしとクダリさんの間に進んだ。黄色い体が電気を帯び始め、生じた斥力で全身を覆う毛が逆立つ。臨戦態勢とはまさにこのことだ。まさかバトルサブウェイに挑戦するどころか、ポケモンを持ったこともないわたしが、サブウェイマスターの手持ちポケモンの、そんな姿を見られるなんて。


 ――…ずっと、来なければいいと思ってたのに。


「やめてっ、デンチュラ!」

 クダリさんの悲痛な叫びで、わたしは逃げ出すことを決意し………たはよかったのだが、このときのわたしに余裕は欠片だって残っておらず、つまり自分たちが公園のどこにいたのかという位置関係を、すっかり念頭から消し去っていた。
 靴底を地面につけたままずるずるとずり下がる。ある程度距離を取ったらダッシュで逃げよう、そう算段を付けたわたしの視界のはしで、ようやく追いついたらしいノボリさんが叫んだ。

「だめです、そちらは――!」
「え?」

 かかとに縁石。失敗した体重移動。わあ、空が青い。一瞬の無重力。反転する世界。頭上に池。………池?