09/28(Fri)
reported by:temp
「あの、ほんと…お手数をおかけして、申し訳ありません…」
ほかほかと体から湯気を立ち上らせながら、わたしは項垂れた。「きちんと温まりましたか?」 というノボリさんの言葉に、もう一度同じセリフで返答する。苦笑している気配がした。
結局わたしはものの見事という他なく、溜め池に背面飛込みしたのだった。突然の闖入者に池に住むポケモンたちも近寄らず、もちろん公園でひと時を過ごしていた人々も近寄らず、臨戦態勢を整えていたデンチュラでさえ唖然としたようで、わたしは沈黙の中心で呆然と立ち泳ぎしていた。公園の池って意外と深いところとかあるからね、気を付けたほうがいいよ、本当に。
そのまま池を泳いで対岸に渡り、帰路に就こうとしたわたしに雷を落としたのはノボリさんで、彼は泳ぎだすわたしを器用に釣り上げ(…あの釣竿どこから出てきたんだろう)、なになさってるんですか早く行きますよと半狂乱でわたしの手を引き、その道すがら頭のてっぺんからつま先までびしょびしょのわたしに上着を貸し与え、たどり着いた先でわたしを即刻お風呂場に押し込んでただ一言、「しっかり温まるように」 とだけ告げた。
ここが彼らの自宅であるらしいと気付いたのは、藻のにおいのする髪を洗うためにシャンプーを使わせてもらったときである。
「
――ああ、やはりわたくしとクダリのものでは、大きすぎましたね」
男兄弟で二人暮らししている家に、女性物の着替えがあったら、それはそれでどう反応したらいいものか困るが、着替えとして出してくださったこれらは、やはりお二人のものなんですね……ああ、激しく居たたまれない。ちいさくなりたい。むしろとけたい。
何も言えず、うつむく私のあたまにノボリさんの手が触れた。小さな溜息。
「ドライヤーは、お使いにならなかったのですか?」
「あ、いや……。いつも自然乾燥なんで、だいじょうぶです」
追い打ちをかけるように、今度こそはっきりした溜息が聞こえる。いやだって無理でしょ、自分で勝手に池に落ちたくせに上司(モテる)のお世話になって、お風呂まで借りてあまつさえ着替えまで! しかもそのあとドライヤーだと? わたしのツラの皮の厚さはいったい何センチだ。
「クダリ、にドライヤーをかけて差し上げてくださいまし」
「
―――…はい?」
「、どうぞあちらへ」
あちら、と示されたのはソファだ。いやわたしなんてフローリングの床の上で十分です、っていうか今このひとなんつった?
「いやあの、ほんと、だいじょうぶなんで 「、来て」 はい、失礼します」
そこ座ってて、と厳かに告げてクダリさんが部屋から出ていく。そこってどこだよ、リビング広すぎだよ、居たたまれないよ。だからといって突っ立っているわけにもいかず、わたしは部屋の隅っこに正座した。なんでこんなことになったんだろう。渦巻く後悔に泣きたくなる。DVD返しに行くのなんて、明日の仕事帰りにでもすればよかった。
ドライヤーを手に戻ってきたクダリさんは、リビングの隅で小さくなっているわたしを見て 「なんでそんなとこに座ってるの」 とでも言いたげに顔をしかめ、けれど何も言わずにわたしの後ろに胡坐をかいた。珍しいなと思ったが何のことはない、近くにコンセントがあって都合がよかったらしい。ブオオ、と耳元でモーターが唸りを上げ、温風が髪の間をすり抜ける。
……これはイカン、と割とすぐ思った。髪や耳元をくすぐる長い指がひどく心地いい。ドライヤーの温風も熱さを感じるような距離で当てられることはなく、まるで美容院でしてもらっているかのようだ。 (ねむい、かもしれん。いやいやまさか) 器用な人はなんでも器用にこなすのかな、という考えも浮かんだが、ポケモン相手で慣れているのかもしれないと思った。手持ちポケモンをお風呂にいれることだってあるだろうし、きっとそういう時には自らドライヤーをかけて、彼らの労をねぎらうのだろう。 (ねむくない、ねちゃだめだ、ねむくない) あれ、ということはやっぱりわたしポケモン扱いされてるのかしら、なんつってー……駄目だ、死ぬほど眠い。
だってこれ、めちゃめちゃ気持ちいい。今日一日いろんなことがありすぎてキャパオーバーになっているのも確かだが、それにしたってこれ…うわ、やばい…これ本当にねそう…。
背後のクダリさんから見えないのをいいことに、あくびをかみ殺さないでいると、背後で笑ったような気配がした。いや、笑ったようなもなにも、クダリさんは基本的に笑っているはず。不審に思って振り返ろうとすると、ドライヤーのモーター音が静かになる。
――ああ、終わったのか。天国だったのか地獄だったのかよくわかんない時間だったな、と迫りくる睡魔とぼんやり戦いながら目尻に浮かんだなみだを拭ったとき。
背後から伸びてきた腕に、抱きすくめられた。
「……………………はい?」
これはあれですか、新手の “まきつく” 攻撃ですか。それとも “しめつける” ?
「いやいやいやいや、ちょっ、クダリさん? 何してんですか、ちょっと本当に何してるんですか? 意味わかんないですって、ちょっと、あの、…っお兄さあああん! 弟さんの様子が変ですー!」
「………………」
「はい? クダリさん今なにか言いました? っていうかあの、やっぱ離れて、」
「…っ、ごめん」
押し殺したような声が聞こえて、わたしは口を閉じてしまった。きっと本当は、とりあえず背中からクダリさんを引き剥がして、落ち着かせて、ちなみにわたし自身も落ち着いて、それから彼の話を聞くべきだったのだろう。けれどなんというか、わたしの肩口に額を押し付けてくるそのひとは、年齢不相応極まりないが親とはぐれた迷子のようで、今の状態も抱きすくめるというよりしがみつくという表現のほうが適切な気がした。
離してください、と告げるタイミングを失って、わたしはゆるゆると肩の力を抜く。
「ごめん、ぼく、っあ、あんなことになるなんて、ぜんぜん思ってなくて、…っ、すごいイヤがってたのに、だ、だめって言ったのに、ぼくが、むりやり…!」
後半だけ聞くとなんかちょっと卑猥だな、と思う程度の余裕は出てきた。
借りたシャツの肩口あたりが、じんわりとあたたかい。クダリさんが言葉を紡ぐたびに、そのあたたかさが広がるような気がした。泣く必要なんかないのになあと思う。
「が、い、池におちたとき、びっくりして…っし、しんじゃったら、どうしようっておも、思って、」
「え、クダリさんそんなこと考えてたんですか?」
わたしもびっくりである。まさか殺されかけていたとは。
「池に落ちたくらいで死んだりしませんって。なんかむしろ、怪我ひとつないわたしの立場ってもんが…」
「だって!」
弾けるようにそう言って、ようやくクダリさんが顔を上げた。予想通りというべきか、クダリさんの端正なはずの顔はなみだと鼻水でぐちゃぐちゃで、わたしは思わず笑ってしまう。しかし、それがどうも癇に障ったようで、「なんでわらうの!」 と激高したクダリさんが腕の締め付けを強くするから、わたしの口からはカエルを潰したような声が漏れた。ここはあくまでカエルである、断じてガマゲロゲではない。
「だって…っ、ぼく、に、ご、っごめんねって、言えてなかっ、た、のに、…っい、いなくなっちゃうなんてやだっ、やだよお…っ」
うわあああああん、うわあああああああん。
なんだこれデジャヴか。状況は違いすぎるだろうが、前にもこんなことがあった気が……いや、あのときよりうるさいな。わたしは身をそらし、できるだけその声の発生源から遠ざかろうとするが、腹に巻きついた腕のせいでろくに距離なんてとれたもんじゃない。むしろ遠ざかろうとすればするほどしがみついてくる力は強まるようで、状況はすでに逆鯖折り状態へと変異している。痛い、苦しい、重い、うるさい。なんだこれ四重苦か。
「…っええい、うるさい!」
今日はいろんなことがありすぎて、わたしが抱えられる容量からはもう大きく逸脱しているのだ。堪忍袋の緒が切れるのだってはやい。もうこれ以上、いい年こいたおっさんの駄々になんぞ付き合っていられるか! 上司?明日からの仕事?
――んなもん、知ったことか!
「さっきから黙って聞いてりゃ、大の大人がピーピー泣き喚きやがって、恥ずかしくないんですか! 大体、クダリさんが勝手になんかしでかして、それにわたしが腹立てるのっていつものことでしょう! 普段ごめんなさいなんて言いやしないくせに、何を今日に限って殊勝になってるんです? わたしが死んじゃう? ハッ、冗談はそのモミアゲだけにしてください。……っそれにねえ、この腕!いい加減にしてください! 気付いてるのか、敢えて気付いてないフリしてるのか知らないですけど、わたし今、ブラ着けてないんですよ!」
どんがらがっしゃーん、とキッチンの方からなにかをひっくり返したような音が響いた。おそらく、というか十中八九、ノボリさんに違いない。
「やっぱり? なんかね、やわこいなーって思ってた!」
「わ か っ て た ん な ら さ っ さ と 離 せ や! 何考えてんですかあんた!」
「だって気持ちいいんだもーん」
ぎゅうっ。子どもみたいな無邪気な笑顔で体を引き寄せられ、「えへへ」 と照れたように肩口に顔をうずめられても、わたしに宿るのは殺意のみである。これ絶対セクハラで出るとこ出たら勝てるよな、ギアステーション辞めたらその線で一攫千金狙おうかな。そんなことをつらつら考え始めたわたしの背後に忍び寄る、黒い影。
「〜〜〜っ、あなた方は何をしているのです! さっさと、離れて、くださいましっ!」
どうやら襟首を捕まえられたクダリさんは、そのまま後ろ向きに転がされたらしい。しばらくぶりの自由に心底ほっとしたし、ヨーテリーの皮をかぶったサザンドラを引き剥がしていただいたのは感謝してもしきれない。が、わたしとあのサザンドラをひとまとめにされるのは、どうしたって納得いかなかった。わたしはノボリさんに噛みつく。
「ちょっ、わたしは何もしてないです!」
「貴女はもう少し、女性としてのたしなみというものを身に着けてくださいまし! は、はしたのうございます!」
「はし…っ!? じゃあ、濡れてるの着けろっておっしゃるんですか!?」
「〜〜〜っ、いいから、これも羽織っていてくださいまし!」
投げつけられたのは、黒と赤のツートンカラーが特徴的な、件のコートだった。え、いや、でもこれは、と言いかけるわたしを見下ろす鉛色はいつか見た絶対零度にそっくりで、「何かおっしゃりたいことでも?」 と言う声音はわたしの返答をその実、欠片も求めていない。わたしは小さな声で、
「お、お借りさせていただきまーす…」
とだけ絞り出した。
なぜかぶすくれているクダリさんと、もう目すら合わせてくれないノボリさんと、そのノボリさんのサブウェイマスターとしての象徴たるコートを羽織ったわたし(ノーブラ)。
――なんだこの空間、意味わかんねえ…。ここから逃亡するためだったらお金を払うことすら辞さないが、衣服一式濡れ鼠のままで帰宅させるのは、ノボリさんのプライドが許さなかったらしい。脱いだ服は現在、洗濯乾燥機のなかでゴウンゴウン音を立てながら回り続けている。お手洗いを借りたとき、「はやくかわけはやくかわけはやくかわけ」 と念じておいた。
今はダイニングの食卓で三人、ノボリさんの淹れてくださったコーヒーを啜っている。
「あの、ひとつ、お伺いしたいんですけど……。デンチュラ、どうしてます…?」
そのポケモンの名前に、クダリさんが背を震わせた。ぶすくれた状態ながらも、目だけはこちらに向けていてくださったのに、今や完全に自分の手元を睨みつけている。…さいあくだ、わたしは頭を抱えたくなった。
「えっと、わたしが言うのも変な話なんですけど…、デンチュラのこと、怒らないであげてください」
「やだ」
「…清々しいまでの即答でしたね……」
「やだ、っていうかむり。ぼく怒ってるもん」
ぷう、と頬を膨らませてわざとらしくしているが、これは結構マジなやつだ。目が笑っていない。
「デンチュラだって、クダリさんの号令を無視したくてしたんじゃないんです。あの場は、しょうがなかったっていうか、」
「を攻撃するのが、しょうがないことだって言うの!?」
また怒鳴られた。今日はまったく、嫌になるくらいクダリさんに怒鳴られる一日だ。
今度はきっと、わたしがぶすくれた顔をしていたのだろう。小さな溜息が斜めから聞こえてきて、沸騰しそうになった場に水を差した。極めて冷静で、落ち着いた声がクダリさんの名前をたしなめるように呼ぶ。
クダリさんはきまり悪そうな顔で、おとなしく椅子に座りなおした。
「…は、なんで自分が攻撃されてもしょうがないなんて、そんなこと言うの? あのとき、なんにも悪いことしてない。なのにぼくのデンチュラ、のこと攻撃しようとした。ぼく、やめてって言ったのに」
「
――…デンチュラは、クダリさんのこと、守ろうとしただけなんです」
「まもる? なにから?」
「………………わたし、から」
息の詰まるような沈黙。空気が重くて、顔すらあげられない。
わたしはそろりと視線だけを動かし、前に座る二人を見た。片方は目を閉じたまま、いつも通り口元を引き結んだ仏頂面。そして片方は
――、
「(…うわ、あの顔見たことある……)」
バトルサブウェイに挑んで途中下車を余儀なくされたトレーナーが、負けた腹いせに自分のポケモンに当り散らした挙句、手を上げようとしたのを見つけたとき、このひとはこんな顔をしていた気がする。ちなみにそのトレーナーは、こんな細身の男にお手本のような背負い投げを決められ、バトルサブウェイへの挑戦権を永久に失うことになったのだが。
「……、ぼく今、すごく怒ってる」
「はい…」
「はデンチュラがなんであんなことしたのか、理由しってる。だから、攻撃されてもしょうがないって、自分で言う。けどぼくらには話してくれない。話してくれないのに、デンチュラのこと怒らないでって言う。……ねえ、納得できる?」
わたしは、ごめんなさい、とくちびるを震わせるので精一杯だった。
クダリさんが悲しげにかぶりを振る。
「ちがう、ちがうよ。ぼくたち、あやまってほしいんじゃない。どうしてなのかを知りたいだけ。…ねえ、どうしてポケモンは無理なの? がんばってもどうにもならない問題って、それのこと? 理由があるなら、ぼく、それ知りたい。知らないままで、あんなことしたデンチュラをゆるすなんて、できないよ」
「…少し前から、引っかかっていたことがございました。以前貴女が、ペンドラーに襲われたときのことです。あのときあのトレーナーはペンドラーに対し、“まわりこめ” という指示は出しましたが、攻撃指示は出しておりません。トレーナーの指示をポケモンが無視することは稀です、もちろんゼロではありませんが。…しかし今回、クダリのデンチュラの件と合わせて考えますと、、カギは貴女にあるように思えてならないのです」
――意外と、何の前触れもなく、やってくるもんなんだなあと思った。
もっとこう、じわじわ迫ってくる感じというか、疑われている感覚とか、周囲から浮いてしまう感じがあって、それからこういうことになるのかと思っていた。まあ、そんな自分の想像に怯えていたのもずいぶん前の話で、ああ、意外とどうにかなるもんだな、という風に考えが変わってからのほうが、ここでの生活は長いわけだが。
「(あーあ…わたし、DVD返しにきただけのつもりだったんだけどなあ)」
どこで何を間違えたのだろう。誘われたお茶にほいほいついて行かなければよかったのだろうか、ああ、それとも図書館に来たのがそもそもの? いや、図書館で遭遇したとしても、挨拶をする程度の仲だったら話は違っただろうし、ということはあのとき休憩所に立ち入らず、クラウドさんに頼まれた書類も自分でやれと突っ返せばよかったのか。お給料の良さにひかれて派遣先をギアステーションにしたが、それをやめておけば
―――…ああいや、どれも違うな。
「……わたし、このことを人にお話しするのはじめてなので、うまくしゃべれないかもしれないですけど、それでもいいですか」
「だいじょうぶ。聞かせて」
「聞かせてくださいまし」
――…わたしがこのせかいにいることが、きっとなによりもおおきなまちがいなのだ。
「じゃあ、結論から言います。わたし、この世界の人間じゃないんです」