09/28(Fri)

reported by:temp



 「え、じゃあは処女なの?」

 赤ワインの注がれたグラスを手の中でそっと揺らし、天使の微笑を浮かべながらきょとりと首をかしげてクダリさんが一言。アルコールのせいだろうか、透けるような白い肌にはうっすら赤みが差していて、なるほどその姿は天使と呼ぶにふさわしいと思う。……思う、ほんとにそう思う。顔だけは。

「く…っクダリ! 貴方はいきなり、いったい何を…!」

 げほごほとむせかえり、目の端になみだすら浮かべてノボリさんが声を荒げた。双子なだけあってノボリさんとクダリさんは本当によく似ているが、いつも笑顔のクダリさんが天使なら、いつも仏頂面のノボリさんはなんというか、仁王像を彷彿とさせる強面である。
 怒られると本当に恐いんだよな、とわたしは過去を思い出して首をすくめるが、ダルマッカにも負けず劣らず顔を真っ赤にして口角から泡を飛ばすノボリさんのほうが、その実、本物の天使である。異論は認めない。だって天使はふつう、夕食時にひとの処女膜の有無を聞いたりしないはずだ。

「いや、ほんといきなり何言ってるんですか……さすがに唐突すぎますよ」
「だって、元の世界でもこっちでも、カレシいなかったんでしょ? だったら、もしかして?って思っただけ」

 ノボリさんお手製のビーフシチューをごちそうになりながら、お二人に問われるままにわたしは答えた。元の世界のこと、家族のこと、友人のこと、こちらの世界へ来てからのこと。もう思い返すことすら珍しくなっていた記憶を掘り起し、話して聞かせられるように並べ替え、声として喉を震わせる作業はわたしの想像に反して楽しいものだった。
 このひとたちが相手だったからなのだろうか、だとしたらそれは、すごく素敵なことのように思う。そう思えることになんだか少し感動して、気が付いたら口がくるくる回っていた。元の世界でもこちらの世界でも、お付き合いした特定の異性という存在がいなかったことを話しながら、「あれ、なんでわたし上司にこんなこと話してんだ?」 と思ったときには時すでに遅し。グラスの赤ワインは三杯目だった。

 ちがった? と天使の微笑を浮かべたままクダリさんがわたしに問う。
 ――それがあんまり普通で、「おかわりする?」 みたいな、ごくごく当たり前のことを聞くかのような口調だったから、うっかり口が動いていた。酔っていたことは否定しない。

「彼氏はいなかったですけど、でも、処女じゃないですねえ」
「えっ」
「えっ」
「えっ?」

 刹那の沈黙。笑顔のまま時を止めたクダリさんと、顔を真っ赤にしたまま目を見開いて固まっているノボリさんを見返し、あれなんか変なこと言ったかな、と考え直して、わたしも凍りつく。いや、うん…食事しながら話すことじゃないよね、うん。少しお酒も飲んでいたとはいえ、異性の上司に。

「…じょ、じょーだんに決まってるじゃないですか。本気にしないでくだ」
、ぼく、嘘きらい」
「すみません事実です」

 ねえねえ何それどういうこと? と矢継ぎ早に質問、というか尋問を繰り出すクダリさんに対し、目を合わせてくれないどころか口すらきいてくれなくなったノボリさんが怖い。ナイフとフォークを機械的に動かす様子は素晴らしく流麗だが、血が通っていないというか温度を感じないというか…今度こそ心底あきれられてしまっただろうか、いや、今回は全面的にわたしが悪いのだけれど。

「あ、あの、違うんです。これには深いわけがありまして、」
「ナンパ? ナンパしたらついてきてくれる?」
「じゃかあしいですクダリさん。そういうのじゃなくてですね…、」

 あれ、このままだと処女喪失にまつわるエトセトラを話さなきゃならなくなるんじゃないか、と口をつぐむわたしを射抜く、鉛色。

「よもや、事件に巻き込まれたなどということは、」
「だいじょうぶです、それもないです。本当に」

 気遣わしげな表情を浮かべられて、かえってわたしが申し訳なくなる。……だって、

「いや、だいぶ前の職場で、派遣先の上司に関係を迫られまして……、」
「えっ」
「えっ」
「どうせわたしは契約社員ですし、断ってたんですけどね。でももうあんまりしつこくて鬱陶しかったんで、一回だけってことで、その…」
「……わあ……」
「………………」
「いえ、バカなことしたなって思ってます。別になんかこう、夢見てたわけじゃないですけど、それにしたってこれはひどいなって、はい…」

 ちなみに向こうには妻子があったはずだが、これを明かしたところでわたしの立場がよくなるどころか、さらに悪化するとしか思えなかったので黙っておく。口当たりいいな、と思っていたはずの赤ワインがなぜか妙に酸っぱくなっている気がした。黙りこくっているノボリさんが怖い。

「えー? でもさあ、ハジメテに夢もってる女の子って多くない? いろいろ大変だったもん」
「…なんかクダリさんが言うと生々しいですね」
「えへへ、そーお?」

 照れたようにクダリさんが頬をかくが、一言いわせてもらうなら 「褒めてねーよ」 に尽きる。
 ブロンド美女に黒髪美人、はちきれそうな若さが売りの女の子からいかにも百戦錬磨っぽいお姉さんまで、“上司がかわいすぎて仕事が手につかない” の会で報告された女性の数は、もう片手で足りないらしい。『まあ、特定の誰かとお付き合いしているわけではないようだし、それはそれでいいんじゃないか』 というのが会員の総意であるというから、ここの職員はサブウェイマスターにとことん甘い。

「いやでも実際知らないですよ? いつか夜道で刺されても」
「えー、ぼくそんなヘマしないもん」
「……そういうのって、めんどくさくないんですか?」
「うーん? でも女の子みんなかわいいし優しいし、やわらかくてきもちいーもん。ぼく、女の子ぎゅってするの好き」

 臆面もなくそういうことを言えるのがすげえよ、と本気で思った。横目でちらりとノボリさんの表情をうかがい見ると、知らぬ存ぜぬを貫きつつも眉をしかめている。きっとわたしと大差ないこと考えているんだろうなと思ったが、矛先を向けると一緒くたにして怒られそうな気がしたので、わたしはクダリさんに向き直る。
 割と下種な話をしているはずなのに、このエンジェルスマイルである。これで幾分、内容のくだらなさが緩和されて聞こえるのだから、まったくもって美人は得だ。

は? ぎゅってされたら嬉しくない?」
「わたしですか? ……別に…ぎょっとはしますけど、嬉しいとかっていうのは考えたことなかったです」
「…考えること、なのかな…それって」
「えっ、違うんですか?」
「えっ、……ぼく、よくワカンナイ」

 なんだか暗い顔をして(しかしエンジェルスマイルのままであることは言うべくもない)、クダリさんが黙り込んでしまう。この状態でクダリさんに黙られてしまうと、あとは食器同士の擦れる音が響くしかない空間になるわけだが、それはちょっと勘弁してほしい。
 どうしたものかと話題を探していると、それまでひたすら食べることに専念していたノボリさんが顔を上げた。その頬にはクダリさんと同じく、アルコールが原因と思しき赤みが差していて、普段よりどこか幼く見える。ああ、これがいわゆるあれですか、ギャップ萌えってやつですか。

「では、はこの世界に来てから、異性に好意を抱いたことはない、ということでございますか?」
「……………………」
「……あの、わたくしの顔になにか…、」
「いえ、すみません。ノボリさんがこういう話題に突っ込んでくると思わなかったので、意外だったというか、」

 正直な感想を伝えると、ぽんっと破裂するようにノボリさんの顔が赤くに染まった。自分より図体のでかい男の人が、恥じ入るように身を縮こまらせるのはなんというかこう、ミスマッチのようでいて眼福である。駅で迷子を保護しようとして、泣かれることに定評のあるノボリさんは確かに強面だが、あのクダリさんの双子のお兄さんなのだ。顔を羞恥に染めたときの見目麗しさといったら、女のわたしで太刀打ちできるとは到底思えない。いやまったく、眼福である。

「も、申し訳ありませんっ。立ち入ったことをお聞きしました」
「いや、ノボリさんにそうおっしゃっていただくと、クダリさんの立場が…」
「ぼく別になんとも思わないもん」

 いやそこは多少気にしろよ、と言いそうになってどうにか飲み込んだ。うっかり答えたわたしが言えた義理ではない。

「異性に好意…っていうのはやっぱり、恋愛的な意味合いでの “好意” ですよね?」
「……あーうん、聞いてくる時点で、もうなんか答えわかった気がする…」
「だ、だって、どうせ帰るんですよ? わざわざ好きになろうとなんてします?」
「ですが、恋とは 『落ちる』 ものではございませんか?」
「………………あの、クダリさん、」
「うん、ノボリ、すっごくロマンチスト! きしょうかち高いと思う」
「ひとを化石かなにかのように言わないでくださいまし!」

 なるほど、恋とは 『落ちる』 ものかあ。なんだか鼻がムズムズするような気恥しさを伴うものの、ノボリさんのその言葉はわたしの中にストンとはまる。まあ、四捨五入すれば三十になる、彼氏いない歴=年齢の異世界人が口に出すにはもう少しアルコールの手助けが必要になるものの、言い得て妙というか、改めて考えてみると確かにその通りのような気がする。
 ――だからそう、落ちることができなかったのだから、しょうがない。

「そういうノボリさんは、最近 『落ち』 たりされました?」

 にやりと笑ってそう言うと、ノボリさんは驚いたように目を丸くし、そしてわずかに口の端をほころばせた。伏し目がちに首を振る仕草が、掛け値なしに素敵だなあと思う。

「わたくしは、仕事に恋をしておりますから」
「わっ、ずるいなあ、その答え。…部下としては、頼もしい限りですけど」

 手の中で赤ワインをくるりと回して、一口含む。適度な酸味とほどよい渋みが舌の上に心地よい。あとで銘柄教えてもらおう、とあたまに付箋したわたしは、目の前から注がれるキラッキラした視線から逃れるように残りの赤ワインを飲み干した。
 ノボリさんがそつなく次をグラスに注いでくださるのを感謝の言葉とともに見守りながら、わたしは顔をそむける。視線が痛い。

「ところでノボリさんは、…っいたい!」
 おい今こいつ、テーブルの下で足蹴りやがったぞ!
「(……くっ、届かない…!)」
、なんでぼくのこと無視するの」
「無視してるんじゃないです、興味がなかっただけです」
「なにそれヒドイ! ノボリにはキョーミあるけど、ぼくにはないって言うの?」
「まあ、有体に言えば」
「否定してよ! てゆーか、ノボリも顔赤くしないでっ。ぼくの居場所なくなっちゃう!」

 涙目で訴える姿も、いやまったく本当に天使である。自分より年上の男性に向かって、天使天使と連呼するのもどうなんだと思わなくもないが、実際そうなのだから仕方がない。女の子たちが夢中になるのも道理である。

「でも、だってクダリさん、恋に 『落ち』 たりとかされないでしょう?」
「えっ、なんでそんなこと決めつけるの…? ぼくだって好きなひとくらいいる!」
「クダリ、この場合の好きな方というのは、一晩だけのお相手のことではありませんよ?」
「ノボリまで!? …二人とも、ぼくのことなんだと思ってるの……?」
「チョロネコ」
「ゾロアーク」
「どっちもあくタイプ! なんなの、ぼく、なにか悪いことした?」

 悪いことはしてないですけど、ねえ? と二人で顔を見合わせていると、見る見るうちにクダリさんの頬が膨れていく。まるでミネズミだ。指でつんつんしてみたい衝動に襲われるが、やったらきっと噛まれる。第一関節くらいまで持ってかれる。
 実際、悪いことをしているわけではないと思う。複数人の女性と親しくしているだけで、浮気しているわけじゃないし、相手がそれを了承しているなら別に構わないだろう。もし何らかの問題が起きた時に責任をとれないならするべきじゃないと思うが、その点、クダリさんはうまいことやりそうな気がする。――まあ、だからこその “あくタイプ” なのだと思うが。

「それにぼく、ほんっとうに好きになったひとは、大事にするもん」

 膨れっ面のまま、空になった食器に目を落としてぼそぼそとクダリさんが言葉を紡ぐ。鼠色のひとみが、ちらとわたしを映した。

「浮気とかもぜったいしないし、ぼくを好きでいてもらえるように、すっごくがんばる。とっても大切にする」
「へえ、なんかそれっぽいですね。これまでにそういう方がいらっしゃったんですか?」
「い、ない…けど……」
「なんだ、じゃあ本当に大事にできるかなんて、わかんないですよ? 遊び癖は抜けにくい、なんてのもよく聞きますし」

「ぜったいする。――…ぼくが守るよ」

 へえ、と思った。主に女性関係における生活態度が、悪いとは言わないが決してよろしくもないクダリさんが、お付き合いすることに関してそんなふうに考えているとは意外だった。案外まじめというか、割と真剣というか、そういうのはノボリさんの専売特許だと思っていただけに目から鱗な気分である。まあでも、このノボリさんと幼いころから一緒に育ってきたのだし、根本のところはひどく似通っているのかもしれない。
 まったく本当に、怖いものなしだな、この双子。

「ノボリさんも、お付き合いしてる方とか、大事にされそうですよね」
「わ、わたくしですか? わたくしは、」
「ノボリ、大事にしすぎて引かれるタイプ。けっこうキビしい」
「ああ、いますよね。度が過ぎて、第二のお父さんみたいになっちゃうひと」
「『わたし、お父さんが欲しかったんじゃないんです』 って言われてたことあった」
「大事にしてくれるのは嬉しいけど、わたしのことも信用してよ!…って気分になっちゃうんですかねえ? よくわかんないですけど」
「あー、それも言われてた」
「……だいじょうぶですよ、ノボリさん。きっといいひと見つかりますから」
――…わたくしは何も言っておりません!」

 真っ赤な顔で怒鳴られたところで、かけらも怖くなどないのである。

「そういうは、どうなのでございますかっ」

 わたくしたちばかり、不公平でございます! とおっしゃられますがノボリさん、わたし、処女膜の有無について口にしてるんですけど――…なんて、もちろん言えるわけもない。絶対怒られる。
 四杯目のワインを飲み終え、わたしはグラスをテーブルに置いた。次を注いでくださろうとするノボリさんに首を横に振って応える。もうずいぶん前から、あたまがぐらぐらして顔が熱い。足元もなんだか少しふわふわする。たぶん飲み過ぎたのだろう。時計を見て、そろそろかえらなきゃなあと思いながら目を閉じる。ああ、なんだか唐突に眠たくなってきた。明日も仕事だ。こうこうではない。バトルデータの解析の続きをやろう。ああでも、さんかくかんすうとか、びぶんせきぶんあたりは、もうまるで駄目だろうな。こてんもわかる気がしない。
 うちにかえりたい。かえらなきゃいけないと思う。…でもじゃあ、かえったところでなにが――

「…? ねむいの? もう帰る?」
――はい。わたし、かえってから考えます。かえらなきゃ、なんにもできない…」
「……………………」
「あの、すいません。今日はほんとうに、ありがとうございました」

 翌日、激しい二日酔いと後悔がわたしを襲ったことは言うまでもない。

いい年こいた大人三人で恋バナなう。

2012/04/24 脱稿