11/20(Tue)
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その知らせは、お客様からもたらされた。
『ギアステーション建物内で、青白い光を見た』。
――普通であれば見間違いか電気系統の故障を疑うところだが、なにせここはポケモンという種族の住まう土地である。一番に疑うべきはポケモンの侵入、もしくは定められた場所以外でのポケモンバトルの勃発あたりが筋だろうか。
見間違いであればそれでいいのだが、ポケモンが絡んでいるとなるとわたしにはどうしようもない。ポケモンを所持していないことを理由にクラウドさんの同行を求めると、彼はすこし驚いたような顔をした後、「ん、わかった。ちょっと待っとれ」 と書類に向き直った。ちなみにそれ、今週中なんで。手元の書類をひょいと覗き込んでそう言うと睨まれた。おおコワ。今日はまだ火曜日だし、これ以上しつこく言う必要もないだろう。
「で、お前さんはやっぱ、ここの仕事続ける気はないん?」
ふたり連れ立って廊下を歩きながら、なんでもない世間話でもするような口調でそう言われ、わたしは思わず返答に詰まってしまった。どうしたものかと逡巡しているわたしに気付いたのだろう、クラウドさんが苦笑交じりに手を振る。
「ああ違う違う、構えんでええ。わしの純粋な興味関心っちゅーやつや」
「…はあ……」
「いや、人事部のやつが、『またフラれた〜』 って言うてるの見かけてな。…あれ、お前のことやろ?」
情報管理しっかり! と声を大にして言いたかったが、名前を出していたわけではないようだし、クラウドさんだからこそピンときたのだろうと思うことで納得する。それに事実は事実だ。別にやましいことがあるわけでもない。
「…そう、なんですかねえ?」
「ボスたちとも親しくしとるみたいやし、来年も続けたらええやん。お前がおると、わしも助かるし」
「
――…っそ…んなこと言って、あいついなくなって清々したわ、とか言いそうですけど」
「まあ、期限にやかまし奴、おらんなるからな」
クラウドさんはそう言ってにやりと笑い、わたしの髪をぐしゃぐしゃとかき回した。クダリさんから鉄道員のひとたちへと感染が拡大したこの行為に、わたしが抵抗しなくなってもう久しい。ぐらぐら揺れるあたまをされるに任せながら、なんか今日機嫌よさそうだなあと思う。
最後に軽く、ぽんっと叩くようにして手が離れていくのが、クラウド流だ。
「悪い、答えづらいこと聞ィたな。そんな顔させるつもりはなかってんけど」
そんな顔、と言われるほどひどい顔をしているのだろうか。思わず頬に手を当てるわたしを見て、クラウドさんはからからと快活に笑った。
「お前さんのことや、なんや考えあってのことやと思う。…けど、もし心変わりすることあったら、すぐ言いや? できるだけなんとかしたる」
「……ありがとう、ございます」
――まただ。わたしは何か変なことでも言っただろうか。
柄にもないことを言ったのはクラウドさんの方なのに(こんなことをわたしが考えていると知れたら、チョークスリーパーのひとつでもかけられるに違いない)、なぜかクラウドさんの方が驚いた顔でわたしを見下ろしている。仕事もポケモンバトルの腕も一流なくせに整理整頓が苦手で、本当は情に厚いけれどつい憎まれ口を叩いてしまうツンデレ属性なこの上司が、こんなにわかりやすい気遣いの言葉をかけてくださるのは稀だ。わたしが 「クラウドさん珍しいですね、なんの木の実食べたんですか」 とか言えば、「アホ言うな」 と照れ隠しすることは間違いないのに、なぜかこの顔。ツッコミ待ちじゃないのか、とわたしは首をひねる。
クラウドさんはへらりと笑った。まるで手持ちポケモンが、新しい技を覚えたときみたいな顔で。
「お前、変わったな」
「……わたし今まで、“ありがとうございました” のひとつも満足に言えないような人間でしたか」
「アホ、そないなこと言うてるんと違うわ。…でも、せやな。こういうとき、昔やったら “ありがとう” なんて言わへんやろ、お前」
「…………言いますよ、お礼くらい」
「嘘やな。お前は “わたしなんかにはもったいないですぅ” とか言いよるヤツや」
なんですかそれ、モノマネのつもりですか。うっわ、へったくそですねえ。
言いたかったが言えなかった。モノマネは似ていない。欠片も似ていないが、クラウドさんの発言は的外れどころか、ど真ん中に的中しているとしか思えなかった。なんだかひどく情けない。そんなにわたしはわかりやすい人間なのだろうか、どちらかというと 「さんって何考えてるのかあんまりわからないですよね」 って言われてきたのに。いや別に、それを誇ってきたわけでもないけれど。
「ま、ええんちゃうん? 少なくとも俺は、昔のお前さんより今のがええと思うで」
「
―――…っあの、お気持ちは嬉しいんですけど、わたし、妻子ある方とのお付き合いは…」
「照れ隠しの方向性、もちっと考え直せアホ」
「善処します」
コツコツと革靴が廊下を叩く音が響く。
照明の落ちた部屋をのぞいて回りながらふと、思いついたようにクラウドさんが言った。このひとの思いつきも、わたしにとって大概都合が悪い。
「そういえばお前、白ボスとケンカしとるんやって?」
思わず足を止めたわたしを振り返る、クラウドさんの顔といったら。今の今まで忘れていたくせに、にやにや笑いがひどすぎる。ずいぶん集音性のいい耳ですねと吐き捨てるように唸ると、「褒めても何もでぇへんぞ」 と返された。褒めてねえよ。
お聞き及びのとおりである。クダリさんとけんかをした。
事の発端は、休憩所での立ち話を盗み聞きされたことだ。…敢えて言おう、あれは立ち聞きなどではなく、盗み聞きであったと。
『へーえ、ってけっこうモテるんだ』
じゃあ、よかったら前向きに考えてみて。
それだけ言い残し、見慣れない背中が廊下の先へ消えた途端である。物陰から投げかけられた言葉に、わたしは顔をしかめずにはいられなかった。だって、姿を見なくたってわかる。にやにやにやにやしやがって、ろくなことを考えていないのがその声音から丸わかりだ。
物陰からひょこっと顔をのぞかせたクダリさんは、胡乱な目を隠そうとしないわたしを見返してにんまりと笑った。まるでチェシャ猫みたいだと思う。『にやにや笑いなしのノボリさんならよく見かけるけれど、でもクダリさんなしのにやにや笑いとはね!生まれて見た中で、一番へんてこな代物だわ!』 …このひとなら、にやにや笑いだけを残して姿を消せそうだな、と割と本気で思う。しっぽとか生えていても、あんまりびっくりしない気がする。
『……なんのことですか?』
『さっきもらってたの、遊園地のチケットでしょ?』
『…………どこから聞いてたんですか』
『設備部のひとかあ。、ゆーめいじん!』
ほとんど最初からじゃねえか。こめかみにはしる鈍い痛みを知覚して、わたしは顔を手のひらで覆う。
確かに。確かに、こんな誰が来るとも誰がいるとも知れない休憩所で、そんな話をしたほうがいけなかったのだろう(ただひとつ言わせてもらうなら、わたしに場所を選択する権利はなかった)。でもそれでも、少しの間場所を離れておくとか、せめて聞かなかったふりをするとか、そのくらいのマナーとか心遣いを期待したっていいはずだ。仮にもこのひとは、わたしより勤続年数も長く、立場も異なる上司である。
それがどうだ、この笑顔。チェシャ猫笑いを張っ倒してやりたくて、右手がうずく。
『ね、それでどーするの? 行くの? 今週末?』
『…………………』
『あれ、行かないの? なんで? せっかくのデートなのに!』
ぱっと花が咲くような笑顔。まるで熟れ過ぎたざくろみたいだな、と思った。
『だから、行かないんです。…ま、どこぞの白いお方と違って、デートに誘われることなんかめったにないですからね。惜しくはありますけど』
『…なんか、トゲがあるね?』
『気のせいじゃないですか』
『デート行けばいいのに、って言ったの、おこってる?』
『…別に、答えは最初から決まってますからね。クダリさんは関係ないですよ』
わたしはこの世界の人間ではない。それをこのひとたちに告げて、もう二か月くらいになる。
だが、だからと言ってなにが変わるわけでもない。このひとたちに知れてしまったからといって、すぐに職場を変えるつもりはなかったが、ここで長く働くつもりもさらさらない。これまで通り、一年契約の派遣社員としてそこそこのお金を得て、いつかきっと戻るその日までなんとなく食いつないでいければいいと思っている。
それはわたしの、他人との付き合い方という点においても変わらない。複数人の女の子と親密な関係にあるらしい白のボスとは違い、こちとら年齢=彼氏いない歴系女子だ。さらに言うなら、異世界系女子だ。彼氏なんて、いつ消えるとも知れない世界でそんなもの、めんどうくさい以外のなにがある。
『
――…の、ばか…』
『はあ?』
『ばかばかばか!の分からず屋!あんぽんたん! この、っヘタレ!』
『ヘタレ? なんでそんなこと言われなきゃならないんです? …意味わかって言ってますか?』
『だってヘタレじゃん!、やりもしないのに怖がって、やってみようともしない! そーゆーひとのこと、ヘタレって言うんでしょ!?』
『……すみません、ガキみたいに大声でキーキー喚くのやめてもらえませんか。不愉快です』
『…っ前から思ってたけどさあ、、ぼくとノボリとで態度ちがいすぎない? ぼくのことバカにしてるの?』
『ハッ、バカになんてしてませんよ。ただ、ノボリさんとは似ても似つかない振舞いが多すぎて、ガキの相手はしてらんねーなと思ってるだけです』
『ひっどい…、そんなこと思ってたの!? ノボリの前じゃいっつもにこにこして、なのにぼくのこと、そんな風に!』
『ご存じでしょう? わたし、子どもは嫌いなんです』
『……っぼく、もう怒った…!』
『じゃあ、ポケモンでもけしかけますか?』
『バカにしないで、そんなことするわけない。……もう、デンチュラのこと、絶対ぎゅってさせてあげないから!』
――その瞬間、ぐらんぐらんに心揺らいだのは秘密である。
あれから三日、クダリさんとのけんかは依然継続中のままだ。不承不承ではあるが周囲の目というものもある、廊下ですれ違えばわたしから挨拶するものの、向こうからの返しはない。わたしは彼のお望み通り、ノボリさんに対するような、むしろそれより丁寧な敬語を心がけつつも、会話は業務上最低限のことのみで終了。そういえば事務室でも休憩所でも姿を見ていない気がするから、向こうも向こうでわたしのことを避けているのだろう。好都合だ。
「この年になってケンカて…っくく、笑えるわあ」
したくてしてるんじゃない。そう言いたかったが、あんまりおかしそうに言うから、わたしはばつが悪くなって口をつぐむ。だって、本当はわかっている。二十代後半にもなって言い争うような内容じゃないことも、相手が上司であることも。というか、上司だからこそ、言い争いになるような話じゃない。いくら頭に血が上っていたとはいえ、年上の男性を捕まえてガキってお前、そりゃねーよ。
「仲がよろしくてええやないか」
「…ケンカするほど、ってやつですか? やめてください、わたし今、自己嫌悪で死にそうなんで」
「なら、さっさと謝ってまうことやな。自分から謝ってまうほうが、すっきりすることもあるで」
頭をわしわしかき回されながら、わたしはうなずいた。わたしだけが悪いとは決して思わないが、わたしが悪くないとも思わない。あのひとの言動が子どもっぽいのは今に始まったことではないし、あの程度で腹を立てるのは狭量だろう。それに冷静になった今、いきなり馬鹿呼ばわり、ヘタレ呼ばわりされた真意を知りたい気もする。
わたしは気を取り直すようにため息をつき、上司に向き直った。
「クラウドさん、これ確認して事務所戻ったら、少し席外してもいいですか?」
「おォ、ちょうど休憩時間やし、行ってこい。…テンション低い白ボスなんて、正直あんま見てられへん」
クダリさん、テンション低いのか…。ここ数日、顔を合わせても挨拶するだけで終わりとか、書類を渡して終了とか、そういうことばかりだったから気が付かなかった。目を見て話をしたのは、あれが最後だった気がする。ざまあみろ、と思わないこともないが、それより周囲の人たちに対する申し訳なさの方が先に立つ。ノボリさんあたりにはもう筒抜けなのだろうな、と思うとなおさらだった。
「……おい、あれ見えるか?」
どこか緊張感をはらんだクラウドさんの声。それの指し示す方向に目をやると、薄暗い部屋の奥で紫色を帯びた光がぼんやり瞬いているのが見えた。まるでろうそくに灯した火のように、ゆらゆらと不規則に揺れている。
「下がっとれ。ありゃポケモンや」
「……ヒトモシ、ですか」
「当たり。このあたりに野生のヒトモシいうんは珍しいから、きっと迷子かなんかやろうと思、」
不自然に途切れた言葉を訝るより早く、わたしの前にあった体がぐらりと傾いだ。驚きの声をあげる暇もない、崩れ落ちようとするクラウドさんをどうにか抱き留めて、わたしは床にしゃがみ込む。ちょっと待って、なに、何がどうなってんの? なにこれ?
「……っ、クラウドさん! クラウドさんしっかりしてください!」
呼吸はある。脈もしっかりしている。けれど呼びかけには応えない。
はたと顔を上げると、部屋の隅に揺らめく紫の炎が見えた。ろうそくポケモン、ヒトモシ。暗い室内を照らす煌々とした炎の下で、黄色く光る眼がわたしたちを見据えている。
ザアッ、と血の気の引く音がした。意識のない成人男性を抱えてポケモンと対峙して、事がうまく運ぶなんてとてもじゃないけど思えない。逃げようにも、ここでクラウドさんを置き去りにするわけにもいかないし、だからといって彼を連れて逃げるなんてもっと無理だ。クラウドさんの手持ちポケモンを使うという手は、わたしに限ってはあり得ない。バトルサブウェイに勤める廃人鉄道員の手持ちだ、ヒトモシを退けることくらいわけないだろうが……でも、クラウドさんが自分の手持ちに襲われることはないだろうから、いよいよどうしようもなくなったらそうしよう。わたしはクラウドさんの腰のホルダーにあったモンスターボールを手に取った。
とにかく、はやく誰かに連絡を
――、
「
―――…なあに? ぼく今、すっごくいそがしいんだけど」
「す、みません、すみません、っごめんなさいクダリさん……た…たすけてくださ、っ」
「? っどうしたの、なにかあったの?」
落ち着け、落ち着け落ち着け! だいじょうぶ、なんとかなる、このひとたちがいるならこわくない。
わたしはゆっくり息を吐いた。錯乱していい場面じゃない。冷静になれ、なんとかなる。
「場所はB棟西側、三階の小会議室。野生、もしくは迷子と思われるヒトモシを発見したため保護しようとしましたが、クラウドさんが意識を失って倒れました。応援をお願いします」
「…クラウドはポケモン出したの? ヒトモシそこにいる?」
「いえ、ポケモンを出す前に倒れて、呼吸・脈拍はありますが意識が戻りません。ヒトモシの姿は確認できます」
「わかった、すぐ行く。ヒトモシ逃げても、追いかけないでそこにいて。いい?」
「わかりました」
「すぐ行くから。待ってて」
それから彼らが駆けつけるのには、十分もかからなかった。
おとなしくというのも変な話だが、じっと立ち竦んだようにその場を動かなかったヒトモシは、ばたばたと人間の集まる気配に怯えたのか、わたしたちをちらりと一瞥してするりと影の中に消えた。廊下の向こう側から、鉄道員の皆さんと思しき 「あっちだ」 とか 「見つけたぞ」 とかいう声が響いていたから、きっと程なくして保護されることだろう。
なんとかなった
――。達成感より疲労感より、虚脱感が体をつつんだ。腹の上にクラウドさんの頭を抱えたまま、わたしは背中から会議室の固い絨毯に沈む。……おい、今なんか軽いいびきみたいの聞こえた気がしたんですけど。ちょっとクラウドさん、あんたもしかして寝てんのか。
「ちょっ、クラウドさ、」
「
――…っ、!」
そんな勢いでやったらドア壊れますよ、という力で開け放たれた扉の向こうに白い影。首だけ起こして、「どうもー」 なんて手を振ろうとしたわたしの視界は直後、真っ暗になる。
なにかがぎゅうぎゅうと顔に押し付けられる感覚。細い腕がわたしの背中にまわり、強い力で引き寄せられる。甘えるようにすり寄られて息がつまり、身も心もとろんとなる……うん? ちょっと待て、このもふもふ感は覚えがある!
「デンチュラ!」
たまらずわたしも両腕を回すと、腕の中でマイスイートラバー、デンチュラが甘えた声で鳴いた。ぐりぐりと肩口にあたまを押し付けてきてくれるのがうれしくて、わたしもそのもふもふボディに額をうずめる。爽やかで清潔感のある、いい匂い。胸の奥がきゅうんとなって、わたしはさらに強くデンチュラを抱きしめた。みなさんの天国はどこにありますか、わたしの天国はここです。
「ああ、デンチュラ! 大好き
――…ってうわ、なにするんですか」
腕の中にいたはずのハニーがいきなり赤い光になって消え、わたしの腕は宙をかく。いつの間にやら傍らにいらしていたらしい白い影は、床に座り込むわたしの隣に屹立し、鼠色のひとみで睥睨するようにわたしを見下ろしていた。コツコツと規則正しいリズムを刻む靴底のそれは、あの、貧乏ゆすりってやつですよね、いわゆる……。
うわあ、機嫌めっちゃ悪い。体中でそれを感じ、わたしはそれ以上の文句を噤む。
「あ、えっと、クラウドさんは…?」
「がぼくのデンチュラといちゃいちゃしてる間に、担架ではこんだ。…とりあえず、だいじょうぶそう」
「ああ、よかった。……あ、じゃあ返し損ねちゃったな」
右手に握りしめたモンスターボールを、……って、え、ちょっ、あれ? なんで、手が、うごかな、
「
――どうしたの?」
わたしの明らかに不審な行動を見咎めたらしいクダリさんが、手元を覗き込もうとしてくる。わたしは反射的に手を引いた。見られたくなかった。自分でもよく理解できていないもの、しかも推察するところ、とてつもなく情けないものを露呈するようで、ひどく耐え難いと思った。
すうと細められた鼠色のひとみに、抉り出そうとするような鋭さが宿る。わたしはそれから逃げるように視線を逸らした。
「やだな、なんでもないですよ」
「見せて」
その声音にも、わたしの右手首を掴んだ手にも、有無を言わせない力があった。数秒の押し問答。「、」 と低い声で名を呼ばれて、わたしが折れた。これ以上やると本気で怒るよ、と言われた気がした。
わたしの手は、ピンポン玉サイズのモンスターボールを握りしめた状態のまま、凍りついたように固まっていた。動かそうとしても、ぶるぶる震えるばかりで指はピクリともしない。まるで手首から先だけ別人のものか、制御のきかないロボットにでもなった気分だ。自由なはずの左手で指を剥がそうとしても、その左手も震えているから使い物にならない。なんだこれ、不良品にもほどがある。切り落として二股のアームみたいなやつ入れたほうが、まだ利用価値があるんじゃないだろうか。
クダリさんは何も言わない。ただじっとわたしの不良品どもに鼠色の視線を落とすから、情けなさと居たたまれなさで消えてしまいたくなる。腹の底がムズムズうぞうぞして、ああもう、いっそのこと掻っ捌きたい。
やがて、手袋をしたままのクダリさんの手が、石つぶてみたいになったわたしのそれをするりと撫でた。長い指を私の手に添わせてしばし逡巡したクダリさんは、白手袋の指先を咥えてそれを脱ぎ取ってしまう。いったい何事かと目を丸くするしかできないわたしの手に、クダリさんの指が触れる。指の一本一本が長く、少し骨ばっていて、ひどく冷たいのが印象的だった。
「、このモンスターボール、どうしたの?」
「…クラウドさんの、です。いざとなったら、使おうと思って」
「そっか」
骨の代わりに極太の針金が入っているか、もしくは指そのものが鉄骨にでもなったかのようだ。ガチガチに凝り固まったわたしの指を、クダリさんがゆっくり丁寧に、一本ずつ剥がしていく。それをただ黙って見ているしかないわたしは、クダリさんの表情をうかがった。その白皙にはいつもの、張り付いたような笑みが浮かんでいる。何を考えているのかさっぱりわからないが、怒っているわけでも、ないらしい。
「
――でも、こんなんじゃ、いざっていうときにも使えないですよねえ」
一瞬、クダリさんの鼠色がわたしを映した。しかしそれも本当に一瞬限りで、彼はすぐ視線を手元に落としてしまう。
「こんな状態で、一体なにをどうするつもりだったんだか。ほんと、情けないっていうかバカバカしいっていうか、使い物にならないですよねえ」
「そういう言い方しないで」
「………………」
「は、にできることちゃんとやったし、やろうとした。だから自分のこと、そんな風に悪く言うのやめて」
わたしは、ぐっと下唇を噛みしめる。なにか言いたいことがあるような、言わなければならないことがあるような気がしたが、言葉にならない。喉の奥で、なにかがカッと燃えるような感覚。思わず黙りこむわたしに、クダリさんはふっと表情をほころばせた。「それにね、」 と続ける口の端に、穏やかな笑みがのぞく。
「ぼく、これでよかったって思ってる」
「“これ” …?」
「こうやって、の指が固まっちゃって。だって、これ投げたら、きっとケガしてた」
「……でも、」
「わかってる、はそんな自身のこと、いやがってるって。…でもぼく、がケガするほうがイヤだから。…ごめんね?」
なんでこのひとが謝るんだろう。なんだかとても不思議な気分だ。
わたしだって、怪我をするのは嫌だ。痛いのは嫌いだし、もちろん自傷癖もない。だから今回このモンスターボールを手にしたのだって、最後の最後、本当にどうしようもなくなったら、という条件付きのことである。けれどそのわたし以上に、わたしが怪我をするのを嫌がってくれるひとがいるというのは、なんというか、少し居心地が悪い。だってそれらはわたしにとってひどく懐かしく、遠い日々の中でしかお目にかかれない代物だったから。しかもそのひとが白のサブウェイマスターだなんて、居心地悪く感じないほうが無理な話だ。
「……よし、できた。ぐーぱーできる?」
促されて、わたしはぎこちなく指を動かす。しばらくそうやって指をほぐしている間に、クダリさんはわたしの手の中にあったモンスターボールを自身のコートの内にしまった。静かな口調で、これはぼくから返しておくからと告げられる。
中のポケモンが反恐慌状態にあったことは、ボールの不自然な揺れからわかっていた。いきなりご主人であるクラウドさんと引き離され、見ず知らずの、しかも見慣れぬ気配を伴った女の手に掴まれて、混乱しない方がおかしい。このままわたしが所持しているより、クダリさんの手にある方がポケモンにとってずっといいはずだ。
「お手数を、おかけします」
そう言って小さく頭を下げると、クダリさんは困ったような顔で秘めやかに笑った。普段のぱっと華やぐような、きらきらにこにこしたそれではない。なんだかひどく痛々しく見えて、思わず目をそらしたわたしの頭に、クダリさんの手。
「帰ろっか」
「…はい」
―――…うん、まあね。もしかしてこんなことになるんじゃないかってね、嫌な予感はしてたんですよ。手があんな状態だったのを見たときにね、よもやってね。でもさあ、本当になるとは思わないじゃない。本当になんてなってほしくないじゃない。わたしだって自分のこと、少しくらい信じてあげたいじゃない。
「……?」
「だいじょうぶです。なんでもないです、問題ありません」
ここまでで情けなさは十分頂点を極めている。今更これに情けなさを上書きしたところでなんてことない、のも言われてみればその通りなのだが、できれば最小限にとどめておきたいと思うのも本心で。……腰が抜けて立てないなんて、ああああいっそこの場で殺してくれ!
「…もしかして、立てないんじゃ、」
「違いますそんなんじゃありませんちょっと足が痺れてるだけですから、ええ何の問題もありません」
「…へーえ…」
「だからクダリさん、わたしはだいじょうぶなので先に戻ってください。ひとりでだいじょうぶですから」
はあ、とクダリさんが深い溜息。え、ここ溜息つかれるところ? ていうか、えっ、なに、っあたま痛い痛い痛い!
「ちょっ、何すんですか! 締まってます、手ぇ締まってますって!」
「もう、嘘つくの下手すぎ。そんなんじゃ、心配しないほうがどーかしてる」
「えっ……」
「ねえ、ぼくじゃ頼りにならない? だからそんな風に、ひとりでやれるって言うの?」
「ちっ、違います!それだけは絶対に違います!」
「うん。だったら、こんなときくらいぼくに頼って? ぼく、の力になりたい」
間近で微笑まれて、わたしはただうなずくことしかできなかった。大人しく首肯したわたしに満足したように、クダリさんの手が最後にもう一度くしゃくしゃと髪をかき混ぜて離れていく。
ああもう、本当に情けない。わたしは一体なにをしているのだろう。こんなの、ただの子どもみたいだ。しかも聞き分けのない、自己主張ばっかりでわがままな、わたしの一番大嫌いなクソガキ。
――…このひとの優しさに甘えちゃだめだ。ここのあたたかさに慣れちゃだめだ。だってわたしは、いつか絶対、
「はい!」
「……え?」
「ほら、はーやーく!」
「や、すいませんクダリさん。クダリさんが何をしたいのか、わたし全然理解できないんですけど」
「ええー? こーゆーときにすることといったら、おんぶに決まってる!」
いや決まってねえよ、と言いかけて踏みとどまる。代わる言葉を探して押し黙るわたしの前で、クダリさんはこちらに背を向けてしゃがみこみ、首だけで振り返って 「ん!」 と満面の笑みだ。意味がわからん、なにが楽しい。
「いや、あの…ちょっと肩を貸していただければ十分なんですけど…」
「えー、それじゃツマンナイ」
「つまるつまらないの問題じゃないです。いいから肩を、」
「オヒメサマ抱っことどっちがいーい?」
「…すいません、まったく意味が分からないです」
「ぼく、おんぶかオヒメサマ抱っこか、どっちかじゃないとヤダ」
「…………じゃあもう、置いていってくださ」
「オヒメサマ抱っこにする?」
「…………………」
「…………………」
腹立たしいことに、クダリさんとのにらみ合いにおいて、わたしが勝てた試しなど一度もないのである。
「あの、重くないですか、重いですよね、重いんでしょう? ほら、もうわたし歩けますから、ね、降ろしてくださいお願いします」
「だーめ」
「いや、もうわたしほんとだいじょうぶなんで、今ならきっと50メートル7秒台で走れるんで! これ以上やるとクダリさん腰悪くしますよ、クダリさんの腰使い物にならなくなったらいろいろ大変でしょう、さ、ほら手を放して!」
「だめったらだめ! てゆーか、おーじょーぎわ悪すぎ。ちゃんとつかまってて!」
なんだこれほんと意味わかんない、本当に勘弁してほしい、どうしてこうなった、なぜこうなる。
クダリさんの背中にしがみついて、わたしは後悔と羞恥とあとはもうわけのわからない感情に身悶える。こんなことなら朝ごはんもお昼ごはんも抜いておくべきだった、おいそこ、二食抜いた程度じゃどうにもなんねえよなんて正論を突きつけるのはやめてくださいお願いします。
思ったより安定した足取りでクダリさんは進む。ワア、視界がたかーい!なんて楽しんではいられない、できるだけ顔バレしないよう、わたしはクダリさんの肩口に額をうずめてじっとしていることで精一杯だ。もう、ほんと勘弁してほしい。
「あの、」
「ん、なあに?」
「重かったらはやく言ってくださいね、絶対言ってくださいね」
「だからあ、別に重くないってさっきから言ってるでしょ? てゆーか、ちゃんとつかまっててくれた方が、ぼくラクなんだけど」
「そういうことは早く言ってください!」
白いコートの肩先を握りしめていた手をほどき、わたしは慌ててクダリさんの首に腕を回す。うっかり顔を上げてしまわないよう、首をすくめてその背中に隠れていると、クダリさんがひそやかに笑う気配がした。だれのせいだと思ってるんだ、いやわたしが悪いんですけど。ムッとしたが、言えた義理ではないので黙っておく。
「…なんか、あれですね」
「どれですね?」
「クダリさんって、思ったより背中広いんですね」
「………そーお?」
「はい。すらっとされてるんで、あんまりイメージなかったんですけど。やっぱり男の人なんですよね」
「……………………」
「あ、別に今まで女の人だと思ってたとか、そんなわけじゃないですよ? 子どもっぽいとか、そういうのでもなくて、」
「……………………」
「あ、あれ? やだな、悪い意味じゃないですからね、ただつらっと思ったこと言っただけで、」
「…、」
「はいっ、なんでしょう」
「あんまりくっつくと、おっぱい当たる」
思わず後頭部を殴りつけたわたしに、罪はないと思う。