11/20(Tue)
reported by:temp
カルガモの親っていうのは、こういう気分なのだろうか。
「ノボリさん、おはようございます」
「! もう具合はよろしいのですか?」
翌朝、サブウェイマスターの執務室を訪ねると、ノボリさんは仕事の手を止め、わざわざ席を立ってまでわたしを気遣ってくださった。相変わらず口元はへの字に結ばれたままだが、鉛色のひとみには間違いなくわたしを心配する色が浮かんでいる。くすぐったいことこの上ない。
「はい。いろいろご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「迷惑をかけられた覚えなどございません。…貴女にもクラウドにも、大事がなくて本当に良かった」
「…はい。ありがとうございます」
頭に触れる手のひらのあたたかさが心地よい。じんわりと体に溶け込むような気がする。クダリさんやクラウドさんたちの比ではなく、ノボリさんに頭をなでられるのはなぜだかひどく照れくさいのだが、わたしは他の人に言うように 「やめてください」 と言えた試しがない。まあ、やめてほしいだなんて欠片も思っていないのが一番の原因だとは思うが、一度やめてくれと言ったら、ノボリさんに限っては本当に二度としてくださらない気がする。それは惜しい。実に惜しい!
「ところで、クダリさんはもうトレインですか?」
「ええ、先ほど挑戦者がご乗車されましたので。…クダリが何か?」
「昨日のお礼を、と思ったんですけど……ノボリさん、クダリさんから何か聞きました?」
こてん、とノボリさんが首をかしげる。双子だからなのだろうか、ちょくちょく仕草が似ているのがおもしろい。
「いえ、特には……から一番に連絡があったことを、喜んでおりましたよ」
あれ、それだけ? それだけっていうか、そこは喜ぶところ?
クダリさんのことだ、わたしがおおいにテンパっていたこととか、腰を抜かしてしまったことを面白おかしく触れ回る
――ことはせずとも、少なくともノボリさんには何らかの話をしていると思っていたのだが。
怪訝そうな顔をするノボリさんに、わたしはへらりと笑うことでお茶を濁した。わたしのあのこれ以上ないほどにひどい失態について話していないならそれでよし、わざわざ自分からする理由なんてない。そのまま場を辞そうとしたわたしの背中に、ノボリさんの声。
「ところで、彼は一体
――?」
執務室の扉。わずかに空いたその隙間から、こちらの様子をうかがうようにひょこりと顔をのぞかせているのは、
「ああえっと、彼が、昨日のヒトモシです」
紹介されたことに驚いたらしい。迷子のヒトモシはぴゃっとその場に小さく飛び跳ねると、床を滑るようにはしり、わたしの足元に隠れた。…いや、ろうそくを模したような体の方がわたしの足首よりだいぶ大きいので、全然隠れきれていないのだが、黄色に光る目が隠れれば彼にとってはそれで十分であるらしい。そろりそろりとノボリさんを見上げ、目が合うや否や身を縮こまらせてわたしの足に隠れる。
正直に言おう。かわいい、死ぬほどかわいい。
――けど、なんだこれ。
「なぜ、このようなところに?」
「昨日は迷子センターで保護していたのですが、どうもその、食欲旺盛すぎると言いますか…、」
ヒトモシの灯すあかりは、ひとやポケモンの生命力を吸い取って燃えているらしい。わたしはポケモンのことにあまり詳しくないから、ヒトモシがそのあかりを灯し続けることと食欲とが本当に結びついていることなのかよく知らないのだけれど、まあニュアンスとしてはそういったところだろう。つまり昨日は迷子センターで、職員が急激な眠気に襲われたり、めまいを起こしたりする事例が頻発したのである。
これじゃ仕事にならない。業を煮やしたセンターの係員から連絡が入ったのは、昨日クラウドさんが倒れたその傍らでぴんぴんしていたわたしだった。
「理由は全然わからないんですけど、わたし、なんともないんですよ。この子と一緒にいても」
「…生まれた世界が異なるから、でしょうか」
「そうとしか思えないですが、確証がないのでなんとも。…話によると、どうも迷子ではなく、捨て子ならしくて。野生に返せればって話をしていたんですが、この子、」
「に懐いて離れない、というわけですか」
「…はい」
言ってる間に足によじ登ろうとするヒトモシを抱え、床におろし、くじけずよじ登ろうとし、床におろし、を繰り返すわたしたちを見守るノボリさんの表情は、これまでに見たこともない穏やかな微笑である。珍しい表情を拝めたのは嬉しい、嬉しいけどものすごくあたたかな眼差しで見守られている気がする。なんだこれ恥ずかしい。
「手持ちにしてはいかがですか?」
にとっても、自衛の手段になるのでは。
――ノボリさんの言葉は、もっともだと思う。この世界においてポケモンから必要以上に警戒され、敵視されるわたしにとって、わたしに懐き、うまくすれば力になってくれるかもしれないポケモンの存在は貴重だ。無駄なトラブルに巻き込まれる可能性だって減るだろうし、手持ちが一匹いるだけで、心理的な不安からも解放されるに違いない。わかっている。これは、チャンスなのだと。
「……手持ちポケモンを作る気は、ないんです」
「ですが、欲しいと思っていたのでは?」
「思ってたことも、ありました。
――…っけど、」
言葉に詰まるわたしの頭に、再度やわらかな感触。はっとして顔を上げると、ノボリさんが眉根を寄せて苦笑していた。鉛色の視線をたどった先には、わたしとノボリさんとの間に仁王立ちするヒトモシの姿がある。つぶらなはずの目元がキリリと吊り上り、紫色の炎は落ち着かない様子でゆらゆら揺れている。…もしかしてもしかしなくても、これは、
「嫌われてしまったようでございますね」
「えっ、あ、…えっ?」
「わたくしが、をいじめているように見えたのでしょう。申し訳ありません、。答えづらいことをお聞きしました」
「そんな、ノボリさんは何も悪くなんて! ったく、なんちゅー勘違いしてんの、お前」
紫色の炎を避けて、軽くチョップ。ちいさな手を伸ばして、ぶたれた(ように見える)ところを必死に抑え、上目遣いに見上げてくるヒトモシの姿に、わたしの理性とか理性とか理性とかがぐらんぐらんに揺れる。ごめんなさいするようにつぶらなひとみで見上げられれば、うっかり抱きしめそうになって自制した。いかん、ダメだ。気をしっかり持たねば。
「クダリには、が探していた旨をお伝えしておきます。…ヒトモシの世話、頑張ってくださいまし」
そんな、ノボリさんのあたたかい言葉とともに送り出されてから、もう数時間。わたしは休憩所のベンチに座って、疲労感いっぱいに天井を仰いでいた。だってもう、疲れた。慣れないことはするもんじゃねえわと心の底から思う。
さっきまでわたしの足にひとりでじゃれついていた迷子のヒトモシは、廊下の向こうをちいさな手で指し示し、モシモシ言いながら跳ね回っている。ヒトモシが鳴き声をあげる合間に、物陰から 「シーッ、シーッ!」 と歯と歯の間から息が漏れるような音が聞こえていたから、もうこれ以上のパフォーマンスは必要ないのだけれど、そんなわたしの思いはヒトモシに伝わっていないらしい。物陰に隠れている(つもりの)彼の存在を気付かせようと必死である。
どいつもこいつもバカばっか。思わず笑みがこぼれた。
「もうバレバレですから、出てきてください。…クダリさんでしょう?」
ぱっと笑顔を浮かべてこちらへ駆け寄ってくるヒトモシと、うっそりとした笑顔で物陰からようやく姿を現したクダリさんは、まったく笑えるくらい正反対の雰囲気をまとっていた。片やわたしによじ登ろうとするヒトモシと、片や休憩室の入り口で立ち竦んでしまうクダリさん。まったく本当に、笑えてくる。
「
――で、今日はどこから聞いてたんです?」
「…………………」
「わたしが遊園地デート、お断りしたのは聞いてました?」
チラ、と表情をうかがうように鼠色がわたしを捉える。しばらく逡巡したのち、クダリさんはこくりと頷いた。
「……ごめん」
「いいですよ。聞かれて困るような話はしてないです」
試行錯誤ののち、膝下あたりまでよじ登ることに成功したヒトモシを両手で抱え上げ、おとなしくしているように言い含めて再び床におろす。…が、即座にまたよじ登り始めるヒトモシに若干の頭痛を覚えつつ、わたしはクダリさんに向き直った。もういっそここまで来たら、どこまでよじ登ってこられるか放っておいてみよう。
「クダリさんのおっしゃる通りです。…わたし、ヘタレなんですよ」
わたしは、この世界に大事なものをつくるのが怖い。
恋人でも友人でもなんでもいい、捨てがたい、離れがたいと思うものを作りたくないのだ。
「恋人なんて、欲しくないんです。だってそんなのできたら、いざ帰れるってなったときに判断が鈍りそうじゃないですか。離れたくないなとか、傍にいたいなとか…、そういうこと考えたら、帰りたいって思えなくなるんじゃないかなって。
――わたし、それが怖いんです」
クダリさんにヘタレ呼ばわりされた意味を考えてみて、ベッドに入ってようやく思いついたのがそれだった。デートへのお誘いを、考える前から断ろうとしていたわたしにクダリさんが言い放ったのが、『やりもしないのに怖がって、やってみようともしない』。
言われてみれば、なるほど確かにその通りだと思った。別に恋人に限った話ではない。人付き合いだってそうだし、仕事だってそうだ。いつか絶対ここからいなくなるのだから、どうでもいい。その考えはわたしにとって偽らざる本心だが、その根底にはきっと、帰りたいと思わなくなることへの恐怖心があるのだと思う。
わたしが生まれた世界。家族がいて、友人がいて、ポケモンのいない世界がわたしの世界だ。ポケモンたちに警戒されて襲われたりすることもなく、子どもに怯えられることもない。わたしの居場所がある世界。わたしのいるべき場所。
――帰りたいと思っていなければ、帰れなくなる気がする世界。
「クダリさん。わたしね、本当に帰りたいんです。元の世界にはわたしの両親がいて、弟がいて、なんてことないごく普通の家族でしたけど、血のつながった家族がいて、もちろん仲のいい友達だっていて、…好きなひとはいなかったけど、たぶんあのまま向こうで暮らしていたら普通に彼氏だってできてたかもしれなくて、学校に通って、勉強して、就職して、恋をして、…わたし、そういうことを、まだ諦めきれないんです」
膝の上まで到達したヒトモシが、ずるずるとずり落ちていく感覚がする。靴の上で悔しそうにくちびるをとがらせるヒトモシに笑いかけ、わたしはクダリさんを見上げた。俯いているクダリさんの表情は、制帽のつばに隠れているせいでわたしからは窺えない。きゅっと結ばれた口元だけが、ちらりと見えた。
「だから、せっかくクダリさんに発破かけてもらいましたけど、デートは無理です。だってほら、わたし普通に男の人とお付き合いなんてしたことないんで、遊園地なんか二人で行ったら、きっと帰るころには好きに」
なっちゃいますもん。
言葉の続きは、白いコートに吸い込まれて消えた。引き寄せられたのはクダリさんの腕の中で、鼻腔をかすめる爽やかな匂いに頭が真っ白になる。
――このひとはまた、突拍子もなくこういうことを…! 思わず舌打ちが漏れた。顔の横に伸びた二の腕と脇腹あたりをそれぞれ掴み、引き剥がそうと力を込める。
「だ、から、っいきなり何を、」
クダリさんは、わたしの抵抗になど気付いてすらいないのかもしれない。背中に回された腕の力が強くなり、圧迫感に思わず息が漏れた。後頭部を支える手のひらの大きさに、わずかな距離を取ることもできない。こういうことを一体どんなツラしてやってみせるのか興味がわいて、ごそごそ首の向きを変えようと試みるも、それすら許されなかった。額を肩口にぐっと押さえつけられて、息苦しさに呻き声が漏れそうになる。わたしの腰をすっぽりと包み込む腕が、ひどく熱い。
そのとき、ふと視線を感じた。誘われるように目をやると、迷子のヒトモシがぽかんとした表情でわたしとクダリさんを見上げている。つぶらなひとみをより真ん丸に、ちいさな口をおおきく広げて、まばたきもしない。ちょっ、なんだこれ、教育に悪すぎる!
「……ごめん」
「っはい? 今の状況のことですか?」
「ぼく、が、あのひととデート行かなくてよかった、って……いますごくほっとしてる」
「…? ヘタレだなんだって言ってたのは、デート行ってこいって意味じゃなかったんです?」
「ううん、そのつもりだった。……だったけど…っ!」
抱きしめられる力の強さに、わたしの頭の中はもうちんぷんかんぷんだ。このひと、いったい何が言いたくて、いったい何がしたいんだろう。
「なんか、よくわかんないですけど、わかりました。わかりましたから! あの、もういい加減離れていただけませんか。ここ、休憩所ですし、さっきからヒトモシにガン見されてるんですけど、」
「
――いまだけ、だから、」
「はい?」
「もうしない。もうぜったいこんなことしないから。…今だけ、あともうちょっとだけ、このままでいさせて」
おねがい、
――と、そこまで言われて拒絶するのも、なあ。
わたしは引き剥がそうとしていた腕を、所在なく体の横に戻す。正直、わけが分からない。クダリさんのこの行動の理由も、言葉の意味も、背中に回された腕にこめられた力、とくとく聞こえてくる鼓動の速さ、声音ににじんだ切望のわけ。今わたしを包むもののすべてに理解が追い付かないが、つまりそれは、わたしに今できることなど数えるほどしかないということで。
「
――…っ!」
ぶらぶらしているだけしか能のなかった右手をクダリさんの背に回し、とん、とん、とゆるやかなリズムを刻む。左手でコートの脇腹あたりをゆるく握れば、クダリさんが小さく息をのむ気配がした。目の少し上にある喉仏が、こくりと上下する。
「よくわかんないですけど、まあ、とりあえず落ち着いてください」
「……ん、ありがと…」
きゅうっと抱き寄せられて、ぬくもりがいっそう近くなる。クダリさんは小さく鼻を啜った。
「なんか、それ、おちつくかも。…ほっとする」
「ああ、ですよね。わたしも前、すごくほっとしましたもん」
「…………だれ?」
「はい?」
「、それ、だれにしてもらったの」
「? ノボリさんです」
「……………………」
「ぐえっ、ちょっ、クダリさんっ? いきなりなんなんですか、いったい痛い痛い痛い!」
ヒトモシの目が光った。キリリとまなじりを吊り上げたヒトモシが、状況を突如としてベアハッグ状態に変異させたクダリさんの足に蹴りかかる。もちろんわたしも黙っちゃいない、背中をばしばし叩いて抗議する。これが、あの意味不明な時間をおとなしくじっとしていたわたしへの態度なのだろうか。どう頑張っても納得いかない。
二方向からの攻撃にさらされて、クダリさんはようやく体を離した。…なぜぶすくれている。というか、いい年こいた男の人が、拗ねてくちびるをとがらせるのはどうなんだ。様になっているのが恐ろしい。
「はさあ、その…ノボリのこと、好きなの?」
「…………いやあの、さっきのわたしの話、聞いてました?」
「…でも、ぼくの前とノボリの前と、、態度ぜんぜんちがう」
「そりゃそうですよ。クダリさんとノボリさん、別人なんですから。態度違うに決まってるでしょう」
「……?」
だから、いい年こいた男の人が、子どもみたいに首かしげないでくれ。かわいいと思う自分に腹が立つ。
「じゃあ聞きますけど、ここ数日間みたいな態度のほうがいいですか? クダリさんがそうおっしゃるなら、このままでもいいですけど」
「ヤダ!」
「じゃあいいじゃないですか」
「そう、なんだけど、そうじゃなくてえ」
もどかしそうに眉間にしわを寄せ、クダリさんががしがしと襟足を掻く。憤懣やるかたないといった表情を浮かべられても、わからないものはわからない。いまだ、クダリさんの足をどつき続けているヒトモシを抱え上げて、わたしは苦笑した。なんというか、わたしの周りには手のかかる人が多すぎる。
「じゃあ今度、言いたいことがまとまったら、そのときにどうぞ。またお聞きしますから」
「ん…、じゃあそうする」
そう言ってようやく、クダリさんがへらっと笑った。その笑顔がなんだか久しぶりなものに思えて、妙に感慨深い気分になる。昨日は変に状況が切羽詰っていたし、それまでは数日ケンカして顔を合わせていなかったから、まあ当然と言えば当然なのだが。基本的に笑顔がデフォルトのクダリさんを見て、笑顔が久しぶりだなあと思うわたしも大概おかしなところに片足突っ込もうとしているらしい。
今度、“上司がかわいすぎて仕事が手につかない” の会にでも出席してみようかしら。
「
――ねえ、!」
呼びかけに顔を上げると、クダリさんが休憩室の出入口付近でわたしを振り返っていた。ぱっと花が咲くように笑う。けれど目を少し伏せて、どこか控えめに。まるでスズランの花みたいだなと思った。
「さっき、ぼくにぎゅってされて、嬉しいって思った?」
「
――――…はあ?」
「ふふ、しょーじきな返事! …うん、あのね、ぼくは嬉しかったよ」
「……はあ…」
「すっごく嬉しくて、すっごくドキドキした。あんなの初めて! 心臓のとこがね、ぎゅううって痛くて苦しくなるのも、ぼく初めて」
「…………はあ…」
「全部ぜんぶ、のおかげ。だから、ありがと。…あと、」
―――ごめんね?
その謝罪の真意を、わたしは知らない。わたしが聞き返す前に、クダリさんは踵を返して休憩所から立ち去ってしまったから。
白い背中を見送り、呆然とあたまを掻きながら首をひねるわたしの隣では、迷子のヒトモシが紫色の炎を揺らし、つぶらな瞳を眇めていた。翌日から勃発した、白のボスと迷子のヒトモシとの異種格闘戦を、のちに人々は 「ギアステ式PRIDE」 と呼び、興行ならぬ一種のイベントものと化していくわけだが、もちろんその時のわたしに知る由はない。