12/11(Tue)

reported by:temp



 酔っ払いが鬱陶しいのは、どこの世界でも共通するのだろうか。

「なんやお前、けったいな溜息なんぞつきよって! しあわせ逃げてまうで、し・あ・わ・せ」
「ダイジョーブですヨ、くらうどサァン。だってのシアワセは、ス・グ・そ・こ・に! アルんですカラー!」
「おォ、それもそうやったな! …身近なしあわせ、逃がしたらアカンで、
「キャーッ! くらうどサン、カッコイー!!」

 ――どこがだ。
 そう、地を這うような低い声で吐き捨てられればいいものを、悲しいかな、わたしはまだそこまで酔えていない。わたしを置いて勝手に盛り上がるおっさん共を前に、訪れてくれるはずの酩酊は遠く、むしろその足音はどんどん小さくなってしまっている気がする。
 最悪だ。他に言葉が見つからないくらい最悪最低だ。タダ酒飲ましてやると言うからついてきたのに、酔うこともできない上、ひたすら酒の肴にされ続けて、わたしに一体なんの利がある。このまま梅酒(ロック)でもぶっかけてやろうかと割と本気でそう思うが、ケタケタと楽しげに笑う上司たちを前にわたしは溜息をつくことしかできなかった。ああ、ほんともうおうち帰りたい。
 ひざの上のヒトモシが、「こいつら燃やす?」 と首を傾げている気がする。わたしは彼に、「まだいいよ」 と微笑んだ。最終的にはお願いします。

「で、最近どうなん?」
「何がですか。てか、さっきからもうほんと意味わかんないんですけど」

 クラウドさんとキャメロンさんが、笑顔のままで静止する。

「……まさか、マダ気付いてナイ…?」
「いやだから、なんの話してるのかだけでも教えてください」

 最近、事務室の空気がおかしい。それはわかっている。なんだか地に足がついていないような、ふわっふわ浮ついているような感じで、妙に落ち着かない。でもなんとなく見知った感覚で、違和感を頼りに記憶を必死にたどってみたところ中学時代の修学旅行、最終日の夜が近かったかもしれないと最近ようやく思い至った。

 女子と男子の泊まる階は別になっていて、それぞれの階に行ってはならないというお達しがでていたが、そこは思春期こじらせたガキ共の集団である。「○○さん呼んできて」 的伝言ゲームで部屋の外に呼び出され、告白――みたいな遊びを同じ部屋だった友人がしていた気がする。…わたし? わたしはもちろん期待に胸ふくらませながら、すやすや布団で丸くなっていましたとも。修学旅行の最終日なんて、疲労以外のなにが溜まっている。どうせ関係ないのだから、疲れたときは眠るに限る。

 そんなこんなで現在、事務室はひどく居心地が悪い。なんだか、遠巻きにニヤニヤしながら見守られている気がする。仕事には何ら影響はないものの、ただなんとなく気持ちが悪い。いい年こいたおっさん共に生温かく見守られて、やったあ仕事がんばるゾ!なんて思えるほど、わたしはおめでたい性格をしているわけではないのだ。

「いや、でもなァ…、言ったら俺ら、間違いなく殺されてまうし」
「ソウソウ。じしゃく持ちシビルドンの10万ボルトとか、かるーく死んジャウヨ」
「……もうわたし帰っていいですか」
「まあまあまあまあ、ちょお待てって! まだ俺らなんも話聞けてへんやん!」
「ソウだヨ、マダマダ夜はコレカラってネ! イロイロ吐いてモラうヨー!」

 引き留めにかかる上司二人にわたしは微笑んだ。ちなみにヒトモシにも微笑んだ。さあ、皆さんご一緒に。親指を突き出した形でこぶしを握り、立てた親指を自分に向け、ポジションは床と水平に。それを自分の首の前に持ってきて、あたかも鋭いナイフを手にしたかのように、ぐいっと勢いよく薙ぐ。
 それを見てヒトモシが、嬉しそうに跳ねた。上司二人は口の端を引きつらせる。…まあ、いただく生命力はほんの少しだ。五分前後、眠くなる程度である。



「……、どーしたの?」

 最悪だ。他に言葉が見つからないくらい最悪最低だ。だってこんなの、意味が分からない。頭が痛い。気持ち悪い。食欲もわかない。水しか飲みたくない。――酔えてもいないのに二日酔いなんて、こんなの泣きっ面に蜂も同然じゃないか。踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことである。踏んだり蹴ったり、殴ったり転んだりけつまづいたりである。最悪だ。一緒に飲んでいたはずの上司二人がピンピンしていることも、意味の分からなさに拍車をかけている気がする。二日酔いになるなら、せめて気持ちよく酔いたかった。それもこれもあいつらのせいだ、二人まとめて爆発しろ。
 襲いくる吐き気に耐えきれず、事務机に額をごりごり押し付けていると、耳元で声がした。その声の主が、素早く顔を上げ、できることなら弁解しなければならない職位をもつ人物であることは、その声音からわかっていたが、実行すれば頭蓋に鈍痛が駆け抜けるのは火を見るより明らかだった。今は勤務態度についての注意を受けるほうがまだマシである、甘んじて怒られよう。

「…クダリさん……」
「うわあ、顔色わる! どうしたの?」

 心配そうに、その場にしゃがみ込んでまで視線を合わせてくれる上司に、この時ばかりは感謝した。クダリさんはなんというか、いちいち距離が近い気がして、ちょっと面倒くさいなあと思うときがあるのだ。確かに、少し前からやたらめったら抱き着かれることはなくなった。それはなくなったが……ああほら、こんな風に、

「ねつは――…ないみたい」

 見目麗しいと評判で、お客さんに人気があるのはもちろん、ギアステーション職員内でもファンクラブの設立が計画されている(ちなみに非公式ファンクラブは兄弟ともに設立済みである)白のサブウェイマスターの顔が、鼻の先三寸の距離である。こんなのぎょっとしない方がおかしい。合わせられた額が原因なのだろうか、頭痛が激しさを増した気がした。アホみたいにパーソナルスペースの狭い人だなあと、感心すらする。が、わたしのパーソナルスペースは割と広い方なので、こういうのはちょっと勘弁してほしい。いや、役得ではあるが。

「二日酔いです、二日酔い。…すみません、仕事中に」
「ううん、だれだって具合のわるいときある。むりしないで?」

 間近に微笑まれて、わたしは苦笑するしかなかった。酒を覚えたばかりの年頃ならまだしも、社会人を始めて五年以上の人間が、飲みすぎで翌日の仕事に支障をきたすなんて、自己管理の未熟さが嫌になる。一言二言、ぴしゃりと怒られても文句は言えないと思っていただけに、ありがたいのか情けないのか、一概に判断できなかった。

――ところで、だれと飲みに行ったの?」

 クダリさんの笑顔は変わらない。普段と同じように口の端を吊り上げ、何が楽しいのか知らないがにこにこ笑っている、はずなのに、わたしたちを取り巻く空気がスッとその温度を下げた。頭痛を抑えて周囲を見渡せば、パソコンに向かっているものの手の動きが止まっているシンゲンさんに、車両整備計画書のファイルを広げているものの目が泳いでいるジャッキーさん、そしてなぜか二人してカレンダーを眺めながら談笑しているトトメスさんにラムセスさん。ついさっきまでわたしの机の前で確認書類と格闘していたはずのクラウドさんの姿はなく、キャメロンさんが部屋をするりと抜けだすのが見えた。わたしはカズマサさんと顔を見合わせ、ふたりして首をひねる。

「…いや、なんでそんなこと聞くんです?」
「だって、が二日酔いってめずらしい。ともだち?」
「いえ、クラウドさんとキャメロンさんです。おごってくれるって言うから」

 へえ、と大した感慨もない様子で一言もらした後、クダリさんは再度にっこり微笑んだ。

「でも、飲みすぎはダメ。…次から気を付けてね?」
「……はい、すみません」

 おとなしく項垂れたわたしの視界に、スッと影が差す。事務室だから、サブウェイマスターの象徴ともなっている白コートは着ていない。白手袋をしたまま、ひじの下あたりまで腕まくりをした手がごくごく自然な動きでわたしの頭に伸び、けれど、わたしの視界では追い切れなくなったあたりでひどく不自然に動きが止まった。よく見えないのでわからないが、頭の上でキュッと布同士の擦れる音が聞こえたことから察するに、クダリさんはそこでこぶしを握ったらしい。
 ………まさかぶたれるのだろうか、と大した危機感もなくクダリさんを見上げれば、彼はくちびるできれいな弧を描いたまま、器用に口の端を引き結んでいた。こくりと喉仏が上下するのが目に入る。

「クダリさん? どうしたんです?」

 わたしがそう言うと、クダリさんはハッとしたように手を引き、いつものようににっこりと笑った。続けて、「なんでもなーい」 と微笑まれれば、わたしにそれ以上言えることはない。変なひとだなあと違和感を覚えつつも、まあいつものことかと納得する。
 だって今はそれよりなにより、クダリさんの長いおみ足を延々と蹴飛ばし続けているヒトモシを回収しなければ。

「あの、ほんっとすいません……なんでかわからないんですけど、クダリさんとノボリさんにだけ、妙に攻撃的というかけんか腰というか…。他の人にはこんなことないんですよ、本当に」
「……知ってる」

 そう呟いて、わたしの膝の上でふんぞり返っているヒトモシを見下ろすクダリさんの目が、笑っていないような気がするのは考えすぎだろうか。というかヒトモシよ、お前はなぜそんなに偉そうなのだ。わたしの腹にぺったりくっついたところで大してあたたかくもないし、楽しくもないだろうに。…あと、わたし結構本気で気持ち悪いから、腹部を圧迫するのはやめて、おねがい。
 いよいよヒトモシがそのちいさな手を伸ばし、口元だけで笑うクダリさんに向かってあっかんべーをしてみせたあたりでチョップを食らわせた。背後からの攻撃に、ヒトモシがわたしの膝の上でぴゃっと跳ねる。

「いい加減にしなさい。…ほら、クラウドさん探してきてくれる?」

 わたしを振り向いた黄色い目が、わたしとクダリさんの間で視線を行ったり来たりさせる。不満そうに突き出されたくちびるをつんとはじいて、「ほら、おねがい」 と促すとようやく、彼はわたしの膝から飛び降り、テコテコと扉へ向かった。部屋を出るあたりでもう一度、恨めしそうな顔でヒトモシがこちらを振り返るから、思わず苦笑が漏れる。ヒラヒラと手を振って小さな背中を見送ると、今度は隣のクダリさんが面白くなさそうに鼻を鳴らした。なんなんだお前ら。

「…いいなあ、ヒトモシ」
「はい?」
「だって、に甘やかしてもらえる」
「………わたし、甘やかしてますか」
「べったべた。シュークリームよりあまそう」
「…すみません。以後、気をつけます」
「うん、そうして。…じゃないとぼく、ヤキモチ妬いちゃう」
「………は、だれに?」
「ヒトモシに」
「……ん? どういう意味ですか?」
「さあ。…こんど、考えてみて?」

 クダリさんが部屋を出て行ったあと、近くにいたシンゲンさんに聞いてみようと声をかけたら逃げられた。くじけず他の人に、と思った傍からみんな部屋を出て行って、事務室に残ったのはわたし一人である。お前ら仕事しろ。




『ただいまバトルサブウェイ一番線、シングルトレイン内にて急病人が発生しましたため、現在、発車を見合わせております。それに伴い、環状線内回り、サザナミタウン方面行きの列車に遅れが出ております。ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけしますが、もう少々車内にてお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。繰り返します、ただいまシングルトレイン内にて……』

 “バトルサブウェイ 年末年始の運行について” と書かれた掲示物を貼って回っていたわたしの耳に、いささか心配になる構内放送が飛び込んでくる。わたしが今いるのは、ちょうど遅れの発生した地下鉄の発着するホームだ。これはイッシュ地方をぐるりとめぐる主要路線で、今この時間の利用者数はラッシュ時に比べて少ないものの、同時刻の他路線よりは格段に多い。一度乗車した電車から降り、ホームで電光案内版と腕時計とを確認するひとの姿が見えた。
 ポスターを貼る手を止め、周囲を見渡す。わたしがポスター貼りにホームへ出ていることは通知済みだ、ライブキャスターに連絡が入らないということは、わたしはこの業務を続行してよいのだろうと判断する。他の乗務員がいないことからして、もうすでに、このホームにもともと配置されていた乗務員が呼び出されたのかもしれない。それでも職員専用回線に入る連絡に耳をそばだてていると、背後から声をかけられた。

――オイ、何分ぐらい遅れんだよ」

 聞き方ってもんがあんだろと思ったが、お客様は神様であるからして、言葉には出さない。二日酔いによる体調不良は午前中よりは幾分マシになってきたものの、普段より割合簡単にカチンときやすくなっているらしい。わたしは努めて、笑顔で応じた。

「申し訳ございません。もう少々お待ちいただければ、再開するかと思、」
「だから、発車にどんだけかかんのかって聞いてんだよ、こっちは」

 それがはっきりわかりゃこっちだって苦労しねえんだよ、とは思ったが、お客様は神様で以下略。幾分引きつるであろう笑顔で応じるより、申し訳なさそうに眉を八の字にした表情のほうがよさそうだ。こういう相手には平身低頭、腰を低く応じるに限る。
 シングルトレインに最大十分の遅れがでた、もしくは同じだけの遅延が予想される場合、同路線を使用する一般車両が先発することになっている。最初の放送をわたしが聞いてから三分、微妙なところではあるが、もしかすると先発する事案にあたる可能性もある。職員回線を聞いている限り、これから一分のあいだにシングルトレインが発車することはなさそうだ。

「申し訳ございません。はっきりした時刻は申し上げかねますが、一般車両の発車に関しましては、最大十分の遅れが見込まれます」
「…はっきりした時間がわかんねえってのは、どういう了見だよ、ああ?」

 五十センチの距離に踏み込まれ、わたしは思わず後ずさる。歳は四十代後半といったところだろうか。中肉中背、頭のてっぺんは風前の灯火といった具合の中年男性。なんだかひどく嫌な感じだ。よれよれのスーツを身に着けているが、赤ら顔で足元はふらついている。もしかすると、酒を飲んでいるのかもしれない。

「こんなくだらねえことしてるから、はっきりした時間も言えねえんじゃねえのか!? ああ?」

 ガシャーン、と思わず首を竦めたくなる音がホームをつんざく。掲示物の貼り直しに使う道具、それから剥がしたポスター類をまとめていれていたかごを思い切り蹴飛ばされて、わたしは言葉を失ってしまった。状況への理解が滞り、息をのむ。しかしその後、なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないんだ、という思いが腹の底から軽い吐き気とともに込み上げてきて、わたしはくちびるを噛んだ。お客様は以下略お客様は以下略お客様は以下略。渾身の力を振り絞って、笑顔を浮かべようとしたわたしの胸倉に男の腕が伸びる。

「…なんだその顔。文句でもあんのか、ああ?」

 語尾は 「ああ?」 じゃないとしゃべれないんですか、と言葉が口をつきそうになったのをどうにかこらえた。胸倉を思い切りつかまれて息が詰まる。靴のかかとが浮くのが分かった。酒臭い息を吐きかけられ、生理的な嫌悪感から顔をそむけると、反対の手でがっつり顎を掴まれる。もうこんなやつお客様じゃねえ、ふざけんなこのクソオヤジ。顎を掴まれているせいでそれが言葉にならなかったのは、さて不幸中の幸いか。

「……っもうし、わけ…ご、ざいませっ、」
「ああ? 何言ってっかわかんねえんだよ、このクズ!」

 掴まれていた胸倉を思い切り突き飛ばされて、受け身を取ることもできず、わたしは背中をしたたかに打ち付けた。一瞬息ができなくなって、そのあと盛大に咳き込む。こらえていたはずの吐き気もさらにひどくなって、わたしは口を手で押さえた。喉の奥から酸っぱい匂いが込み上げてくる。
 もう意味が分からない。なんなんだこのひと。わたしはそんなに駄目だっただろうか、胸倉掴まれて突き飛ばされて、クズ呼ばわりされるほど? 大体なんだ、“くだらねえこと” って。掲示物を貼って回る仕事がくだらねえってなんなんだそれ、お前も使う路線の案内だろうが、なかったら困るのそっちじゃねえの? そう思うと、怒りよりなにより悔しさがふつふつと湧いてくる。噛みしめたくちびるから、血の味がにじんだ。
 ホームや電車に残っていた他のお客さんたちが、遠巻きにわたしたちを見ているのがわかった。何人かがライブキャスターで外に連絡を取っていたり、乗務員を探しに走ってくれたりしていたのが見えていたから、この悪夢のような時間もそろそろ幕引きのはずだ。わたしから反撃の一つもできなかったのは残念だが、わたしはギアステーションの職員で、こいつは曲がりなりにも客だった人間である。下手なことはしない方がいい。

「……なんでてめぇみてえのがこんなとこでこんなくだらねえ仕事できんのに、二十年働いてきた俺が会社辞めさせらんなきゃならねえんだ……ええ?」

 何を言ってるのかもうさっぱり理解できないし、理解したいとも思わない。けれど、男が千鳥足のままこちらへまた一歩一歩近づいてくるのが見えたときには、血の気が引いた。これなら野生のポケモンに襲われたほうがまだいい、だってポケモンに対してこんなにひどい嫌悪感は抱かない。

―――…あ? なんだこいつ」

 男の訝しげな声に顔を上げて、わたしは息が止まる思いがした。背を丸めてホームに頬をこすり付けるわたしの足元に、まるでわたしを庇うかのように立ちふさがる白い影。

「ご立派にご主人様守ろうってのか、ああ?」

 ヒトモシだった。迷子のヒトモシがわたしと男の間に立ち、紫色の炎を揺らめかせて男を睨んでいる。ゆらゆらと揺れる炎が、ヒトモシの意志を映すように勢いを増し、輝きを強くする。吸う気だ、と直感した。男は気付かない。

「……っヒトモシ、だめ…! 吸っちゃ、だめ…っ」
――ああ、そういうことか…。そりゃそうだよなあ、鉄道員の手持ちポケモンが乗客を襲うなんてこと、あっちゃならねえに決まってるよなあ?」

 ぐらりと炎を揺らしたヒトモシを、男が下卑た笑みとともに見下ろす。ちら、とわたしを振り返ったヒトモシの黄色い目が、どうして、と訴えかけている。なんでこいつの言うことを聞かなくちゃならないの、という怒りさえ浮かんでいるように見えた。許可が下りないことに、ヒトモシが混乱し始めている。

「…ああそうか、こいつが俺に手を出せば、お前の首も飛ぶかもな」

 その光景を、わたしはよく覚えていない。
 男の右足が動いたと思ったら、次の瞬間にはヒトモシがホームの床に倒れていた。紫炎が揺らめき、輝きが鈍る。今度こそ、息が止まった。

――なんて、ことを…っ!」
「言いてえことがあるなら、こいつに命令しろよ、俺を攻撃しろってな。――どうせできないんだろ?」

 この男は勘違いしている。まず第一に、わたしはギアステーションの臨時職員であって、鉄道員ではない。そしてわたしがヒトモシに攻撃を許可しなかったのは、わたしの首が飛ぶことを心配したからではないし、何よりこの子は、わたしの手持ちポケモンではない。わたしを守るために、無関係であるはずのヒトモシが人間に向かって力を行使するなんて、あってはならないと思った、だから止めた。
 しかし状況は変容している。この男がヒトモシを傷つけ、それにヒトモシが抵抗することに、わたしは口を挟まない。止めなかったことでわたしが罰せられるなら、それでいいと思う。後悔なんてあるわけない。

 ヒトモシの黄色い目がゆるゆると開き、わたしを見た。わたしはただ、彼に向かってうなずく。それだけでヒトモシにはわたしの意図が伝わったはずだ。これまでに、命令や号令の類など一度だってしたことはない。けれど彼がわたしの意図を読み違えたことなど、一度だってないのだから。

「なんとか言ったらどうなんだ!」

 紫炎が激しく揺れる。男の薄汚れた靴底がヒトモシの純白を穢し、わたしの中に亀裂が入る気がした。理不尽な暴力にさらされて、ヒトモシはちいさな体をきゅうと丸めてそれに耐えている。炎がゆるゆると、その勢いを弱めていくのがわかる。

「(…やめてよ……)」

 パチ、とヒトモシの目が開く。黄色い視線が一瞬さまよい、わたしを見つける。
 彼はわらった。ふうわりと、紫炎を揺らして。

「(……なんで…)」


――ねえ、なにしてるの?」

 その場にそぐわないにこやかな声が、空気を裂いた。白い制帽、白いスラックス、白いコート。後ろ手に手を組んだそのひとが、笑みの形をかたどった口で言葉を紡ぐ。

「ああ? なんだてめえ」
「ねえ、ぼく、なにしてるのって聞いた。――いいから、答えて」

 底冷えするような声だった。冷え冷えとして、温度というものがまるで感じられない声音。

に、何をしたの」






「あ、ボス。わたしは別にだいじょうぶです」

 ハイ、と挙手してそう言うと、胡乱な目が四方八方から飛んできた。クダリさんだけではない、周りのお客さんたちにまでそんな視線を向けられ、なんか変なこと言ったかなあとわたしは頭をかく。だって間違いじゃない。胸倉のひとつやふたつ掴まれたところで死ぬわけじゃないし、突き飛ばされて痣のひとつくらいできたかもしれないが、まあ所詮その程度である。問題はない。

「それよりすみません、ヒトモシを医務室に連れて行ってもいいですか」

 そう言うと、渦中のヒトモシが小さく鳴いた。だいじょうぶだと言いたげな姿に溜息が出る、まったく強がりばっかり一人前になりおって、心配くらいさせなさい。

「……っあのさあ、いまの状況わかってる?」

 うわ、なんですかその、可哀そうなものでも見るような目は。

「わかってますよ、だから言ってるんじゃないですか。わたしはだいじょうぶです」
「………も、って、なんでそうなの…? 信じらんない、バカなの?マゾなの?」
「バカでもマゾでもありません。そんなことより、わたしは早くヒトモシを医務室に、」
「前から思ってたけどさあ、、耐久高すぎ。努力値どんだけ振ったらそうなれるの? もう、ほんと意味わかんない。ピンクの悪魔でもめざしてる?」
「…すいません、クダリさんが何言ってるのかわたしさっぱり理解できないんですが」
―――心配くらいさせてよ、って意味!」

 なぜか泣き出す一歩手前みたいな顔をしているクダリさんにそう言われて、あたまを鈍器で殴られたような気分になった。脳みそがぐらぐらして、なにか言わなければと思うのに言葉にならない。でも、目の前が急に明るくなったというか、視界が開けたような感覚でもある。朝、目が覚めたときみたいな。長いトンネルを一気に抜けた時のような。思わぬ眩しさに目がくらむ。

「……あ…、」
「もういいよ、がそんなんだっていうの、わかってたし。……そ、いうとこも、…き、だし…」

 わからん、なぜこのタイミングで乱れてもいない制帽をかぶりなおす?

「とにかく! 、ヒトモシと医務室行ってて。あとはぼくがやる!」

 なぜか少し顔を赤くしたクダリさんは、そう高らかに宣言するや否やあちこちに指示を飛ばした。男はとりあえず駅長室へ移動させ、防犯カメラのデータを回してもらうよう連絡すると同時に、ジュンサーさんの出動依頼、目撃者であるお客様方に話を聞けるだけ聞いて連絡先を教えてもらい、その裏で運行再開の準備を進める。ばたばたとホームを走り回る乗務員たちに的確な指示を飛ばし、情報を整理・統合する姿はなんというか、圧巻という他なかった。もともと、気持ち悪いくらい仕事のできるひとだということはわかっていたが、普段がこう、子どもっぽいというか、自分の好きなようにしているような印象が強かっただけに、実際目の当たりにするとギャップがひどい、というか、なんかひきょう、というか―――

「…? 行かないの?」

 ヒトモシを抱えたまま立ち竦んで動かないわたしを、クダリさんが訝しげにのぞきこんでくる。最初はただ不思議そうだった眼差しがすっと眇められ、「もしかして、どっかいたい?」 と表情がゆがむから、わたしは勢いよく首を振った。おしりがちょっと痛いけど、これならたぶん自転車でこけたときのほうがひどい怪我になる。
 あたまの上に 「?」 がぽこぽこ浮かんでいそうな顔つきのクダリさんをちらと見上げ、わたしは軽くくちびるを噛んだ。腹の底がうぞうぞする。喉元がむずむずして、なんだか気持ち悪い。自分がなにをしたくて、なにを言いたいのかわからないが、なにかしなくちゃいけない気がする。

―――…あ、の…」

 苦し紛れに白コートの袖口を握る。なんだろうこの感じ、やっぱりひどく気持ちが悪い。……二日酔いだろうか。

「…あとで、のとこ行っていい?」

 すこし遅くなるかもだけど、とささやくように告げられた言葉に、しばしの逡巡ののち、わたしはこくりと頷いた。来るな、と言いたかったのではない。ただ、なんと答えればいいのかわからなかった。
 手の力を抜くと、すべやかなコートの生地がするりとてのひらから逃げていく。妙な喪失感。まるで、迷子の子どもにでもなったかのような気分だ。見知らぬ街にひとりで放り出された感じ。たったそれだけで足元がぐらりと揺れる気がして、わたしは存外参っているのだと理解する。心細いのも不安なのも迷子なのも、割と慣れっこなはずなのに、なぜかひどく堪えた。腕に抱えたヒトモシの重さが、そうさせているのかもしれない。

――ぜったい行くから」

 つむじのあたりに触れる、やわらかな体温。与えられたぬくもりと、静謐な言葉がからだに溶けていく。「さきに行ってて?」 とあたまのてっぺんから声がして、わたしはうなずいた。しっかりしなきゃ。ヒトモシがわたしのことを待っている。

「いい子」