12/11(Tue)

reported by:temp



 コンコン、と控えめなノックの音。知らず、うつらうつらしてしまっていたらしい。ヒトモシの眠る簡易ベッドのとなりに座ったまま首だけで振り返ると、背中がばきりと嫌な音を立てた。その痛みで目が覚める。

「入っていーい?」

 誰何の声に答えたのは、クダリさんだった。細く開けたドアの向こうからひょっこりと顔だけ覗かせ、こちらの様子をうかがっている。わたしが笑顔で応じると、クダリさんはぱっと花が綻ぶように笑った。まさか自分より年上の男の人に対して、“花が綻ぶように笑う” なんて言葉を使う日が来ようとは。……あれ、これまでに使ったことあったっけ。あったような気もするが、寝起きだからだろうか、頭がうまく回らない。

「遅くなっちゃった。…ごめんね?」
「いえ…、事情聴取っていうんですか、ジュンサーさんとしばらく話し込んでましたから」

 時計に目をやる。あれからすぐ医務室に駆け込んで、ヒトモシの治療をしてもらって、すこし落ち着いてからジュンサーさんが来られて――今がもう宵の口だから、事情聴取が終わってぼうっとしながら、かれこれ三十分近くは居眠りをこいていたらしい。どうりで背中も軋むわけだと溜息が出る。

「クダリさんこそ、すみません。お忙しいのに」
「そんなのどーだっていーの! それより、ヒトモシは?」
「大した傷じゃないそうです。明日にはぴんぴんしてるだろうって」

 そっか、と安堵したようにつぶやくクダリさんに椅子をすすめると、またひどく不機嫌そうな顔をされた。探せばあるだろうが、とりあえず目の届く範囲に椅子は一脚しかない。つまりそれは、これまでわたしが居眠りに使っていた椅子なのだが、わざわざ忙しい合間の時間を縫って見舞いに訪れてくれた上司への対応として、間違っているとは思えない。
 しかしクダリさんは眉根を寄せた。くちびるをつんと尖らせて、顔をそむける。

「ちょっとはマシになったかなーと思ったらこれだもん。、甘え下手にもほどがある」
「……はあ…」
「こんなときに甘えないで、いつ甘えるの?」

 いや、甘えるもなにも、もうわたしアラサーに片足突っ込んでるんですけど、と言おうとしたが、鼠色の鋭い眼光に射抜かれて思わず飲み込む。その視線のまま 「ほら、すわって!」 と語気を強めて言われてしまえば、わたしにできる抵抗など、ないも同然だ。両肩をぐっと上から押さえられ、ストンと座らせられて、

―――あの、」
「なあに?」
「なんですかこの状況」
を甘やかしてるの」

ぎゅうと頭をかかえるように抱き寄せられれば、二の句が継げるはずもなかった。

 わたしは医務室備え付けの丸椅子に座っていて、クダリさんはそのとなりに立っている。なのに、どうも察するところわたしの額は、クダリさんのみぞおちあたりに埋まっているらしい。まったく、自分の足の短さが恨めしくなるばかりである。
 突拍子もないというか、意味が分からないというか、しばらく鳴りを潜めていたと思ったのにやっぱりこれかというか。こういう場合において、このひとが剥がそうとしても剥がれないのは、もう毎度のことである。まあしばらくすれば飽きるだろ、そう思って好きにさせておくことにした。
 それに、他人の体温がなんだかひどく心地よかったのも確かだ。凝り固まった背筋の代わりに、わたしを支えてくれるものがあって、それを頼りに力を抜いてもいいというのは、なんというか、とても楽だ。力を抜いても倒れないことに、軽く感動すらする。てっきり嫌な顔をされるかと思ったが、なんのことはない、むしろクダリさんは満足そうで、背中に回された手がゆっくりとリズムを刻み始めた。わたしの側頭部に頬を寄せながら、クダリさんが楽しげに 「まねっこ」 と囁く。

「ぼくね、見てるとハラハラする」
「……いたずらっ子のいる、お母さんみたいな発言ですね」
「じめつてきっていうか、はめつてきっていうか……、見ててこわい」
「えっ、そんなに…? なんかすいません」
「そんなんだと、いつかこわれちゃうよ」

 ぎゅっ、と引き寄せられて息が詰まった。すこしだけ甘い、清潔感のある匂いが鼻をかすめて、あたまがじんと痺れる。

「すこしくらい、甘えてよ。どーせ甘えるのへたっぴなんだから、甘えすぎかな?って思うくらいで、たぶんふつう」
「…………………」
「それとも、だれかに甘えるの、こわい?」

 わたしは、うなずくことだけで答えた。くす、とクダリさんが笑う気配がする。

「ヘタレだ」
「う、るさい、です」
「じゃあ、ぼくかってにのこと甘やかすことにする!」
「…も、十分べったべたですよ。カスタードプリンより、甘いですから」
「まだまだだよ」

 ふっ、とクダリさんが息を潜めて笑ったような気がした。嘲笑や冷笑の類では決してないのに、なぜか背筋がぞくりと震える。…いやな感じ、ではないけれど。こわい、という思いに似ている、ような、

「まだ、ぜんぜん足りない。もっとどろどろになっちゃえ」
「どろどろって……他に言い方、ないんですか」
「べたべたの上は、どろどろかなーって思ったんだけど、」

 ちがう? クダリさんがそう楽しげに言って顔を覗き込もうとしてくるのを、わたしは拒んだ。クダリさんの足がスッと一歩引いて、できた隙間に滑り込むひんやりとした夜気に、耐えられる気がしなかった。頭で考えるより先に体が動いて、その事実にくちびるを噛みしめる。

 白いワイシャツを指で縫いとめて、すらりとした体躯に額をうずめる。頭の上で、クダリさんが息をのんだ気配がした。詰めていた息をゆるゆると吐くと、びくりと震える。触れているところから伝わってくる困惑が、妙に生々しい。

「………?」
「すいません。すいませんほんと、彼女でもないのに」

 そういえば、昨夜アホの上司二人に 『最近白ボスが女はべらかしてないの、気付いてないんかお前!』 と黒一色のシママでも見るかのような目で言われたことを思い出す。ということは、わたしのこの行動は別に、誰に咎められるわけではないということだろうか。まあ、咎められたところで下心があるわけでもないから、痛くも痒くもないのだけれど。

「いっしゅん、このままにしてもらっていいですか。そしたらもう、だいじょうぶなようにするんで」

 目の前で振るわれた、理不尽な暴力というものに参っているのも確かだと思う。でももう、あんなものはわたしの理解の範疇を飛び越えているから、クズ呼ばわりされたことも、くだらない仕事だと言われたことも、大してわたしの根幹には響いていない。胸倉掴まれて突き飛ばされたことも、割とどうでもいい。
 わたしはこのヒトモシの親ではないから、被害届は出せないのだとジュンサーさんに告げられた。もっともだと思う。だってこの子は、わたしに勝手に懐いてこの場に留まっているだけで、野生のポケモンと変わりない。わたしが彼について責任を負う必要がないのと同じで、わたしは彼に対しての義務を果たせない。理解はできるが、やるせなかった。……悔しかった。

――…っ、、」

 するっと指の間からシャツが逃げていく。反射的に顔を上げたわたしの頬に、手袋をしたままのクダリさんの指が這った。後頭部、髪の中に手のひらが差しこまれ、首の角度が固定される。なんだこれ、と思う間もなく、表情を苦しげにゆがめたクダリさんのご尊顔が、鼻と鼻がぶつからないように、まるでパズルのようにわたしのそれと組み合って、




「………………ヒトモシ?」

 わたしのその呟きに、閉じかけていたまぶたがぱちりと開き、鼠色のひとみが姿を現す。

「いま、ヒトモシの声聞こえませんでした?」
「えっ、……えっ?」
「いや、だから今、鳴き声が、」

 ――やっぱり聞こえた、ヒトモシの声がする!

「ヒトモシ! だいじょうぶ?どっか痛いとこある?先生呼んでくる?つらくない?」

 ええい、ちょっとクダリさん邪魔!
 こおり状態にでもなったかのように動かなくなったクダリさんの腕を振り払い、わたしはヒトモシを覗き込む。ちいさく鳴き声をあげながらわたしに向かって伸ばされる手を取った。一心に見上げてくる目元をそっとなぞって、白い体に額を寄せる。甘えるようにすり寄ってくる存在が、馬鹿みたいにいとおしい。鼻の奥がツンとして、目頭がじんわり熱くなる。

「………よかった…」

 ほとんど笑い泣きのような表情になってしまったわたしの目元を、今度はヒトモシが拭ってくれる。泣かないで、と言われているようで、さらになみだが込み上げてきてしまった。
 「ありがとう」 とか 「ごめんね」 とか、目が覚めたら言おうと思っていたことはたくさんあったのに、何一つとして言葉にならない。なにか話そうとすればくちびるが震えたし、口元がもう、にやついてしまってどうにもならなかった。ほろりとこぼれた頬のなみだにヒトモシがちゅうをしてくるから、今度こそくすくす笑いが止まらない。白いガーゼの上や目元に、次はわたしの方からキスを落としながら、ただ、


 この子をまもりたい、と痺れるように思った。




――…クダリさん?」

 なみだを拭って体を起こした時、となりに立っていたはずのクダリさんは、なぜか出入口のドアノブを掴んでいた。声をかけたこちらがびっくりするくらい大袈裟に体をビクつかせ、「な、なに?」 と応じるくせにこちらを振り返ろうとしない。そしてまた、乱れてもいない制帽をかぶりなおす。

「いや、なにっていうか……クダリさん、なにしてるんです?」
「あ、あの、ぼく…おジャマかなあって、」
「お邪魔? なんのですか?」
「や、えっと……、」

 なんとも煮え切らない。このままこうしていても埒が明かないと判断し、わたしはするりとヒトモシの体をなでて席を立った。近づいたところで振り返らないし、正面に立ったところで制帽を目深にかぶられる。なんだこれ、このひと急にどうしたの。

―――…うわ、顔あかっ。え、クダリさんどうしたんです? 熱でもあるんですか?」

 腰を折って顔を覗き込む。額に手のひらを当てようと腕を伸ばしたら、思い切り後ずさられた。

「ち、ちがう、そーゆーのじゃない、だいじょうぶ」
「…そーゆーの以外に、どーゆー理由でそんなエンブオーみたいな顔になれるんですか」
「いやあ、じぶんでもその、こらえしょうのなさに、ビックリしてるってゆーか、」
「……はあ…」
「ま、まだだめってゆーのは、わかってたんだけど、ぜっぜんぜん、とめらんなくて、」
「…………はあ…」
「…でも、なんだったら、ど、どーせなら、しちゃえばよかったかなーって、思わなくもなくて、」
「……………………はあ?」
「わあああんもうやだこの子こわい! 耐久に努力値極振りかとおもったらこうげきにもちゃんと振ってるんだもん、もうぼくどうしたらいいの、攻略法がわかんないいい」
 双子の兄の名前を叫びながら、半泣きで廊下をばたばた駆けていく上司を、見て見ないふりしてドアを閉めた。意味が分からない。わかろうとも思わないが。


 ひとつゆっくりと息を吐き、わたしはジュンサーさんにいただいたものを手に取る。
 これは、わたしの覚悟と決意の証。ずっと避けてきた義務と責任の、最たる形。あのときの、全身の血が凍るような絶望をわたしは忘れない。抱えたものの重さとぬくもりを忘れない。そしてこの、心臓がぐずぐずに溶けてしまうほどの安堵と、痺れるような思いを、わたしは決して。

 もう迷わない。
 たくさんのありがとうと、いっぱいのごめんねを込めて、きみに告げよう。


 一緒ならもう、こわくない。

ずっと一緒に。

2012/05/08 脱稿