09/10(Tue)
reported by:clerk
大量の会議資料を抱えて歩く。さすがに視界が埋まるほどの資料を一度に運ぼうとするのはあきらめたが、それにしても割とつらい。日ごろの運動不足が思わぬ形で露呈してしまったが、裏を返せばこれは運動不足の解消である。「手伝ったろかー?」 という上司の申し出に 「いえ、ダイエットの一環なんで」 と答えた手前、断念するのも情けなく、胸に抱えた書類の束を抱えなおしてわたしはひたすらダイエットに励む。
「
――こら、クダリ! お待ちなさい!」
曲がり角の向こうから声がした、と同時に嫌な予感。わたし、食パンなんてくわえてねーですよ、と思いながらも、予測しうるトラブル回避のために立ち止まる。これでまあ、出会い頭にごっつんこ☆なんていう、ありきたりなようで絶対にありえないシチュエーションは避けられたはずである。彼だっていい大人だ、なにかしでかして双子の兄から逃亡を図ったとはいえ、せめて前くらい見て駆け足しているはずである。
――…そう、彼がいい大人であるならば。
「もーっ、ノボリしつこい! だいじょうぶだって言って、わあっ」
「うげっ」
ちなみに後者の、踏みつぶされたカエルの鳴き声みたいな方がわたしの感動詞である。愛らしさの欠片もないなんて言われたって、反射神経で飛び出したものはどうしようもない。むしろ、反射的に 「わあっ」 なんてたいへん可愛らしい言葉の出てくる、三十路間近な上司(男)のツラを拝んでやろうとしていつもの通り斜め上を見上げたが、しかし視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。数秒遅れて、ぶつかった拍子にこぼれた書類がはらはらと宙を舞う。
ああせっかく、配布するときに楽ができるよう、並べなおしたばっかりだったのに。ったくいい加減にしろよこの野郎、いい大人が廊下なんて走ってんじゃ、
「
――…ご、ごめんなさいっ。……おねえちゃ、だいじょぶ…?」
見上げられて、わたしの思考は完全にフリーズした。ちなみに腕の筋力も崩壊した。支えを失った資料の束が、どさりと廊下に着地する。
「クダリ! あなたふざけるのもいい加減に…っ、」
「………ノボリさん…隠し子に弟さんの名前を付けるほど、弟さんのことを…、」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいまし! わたくしに隠し子などおりません!」
否定するのはそっちだけか、と思わなくもなかったが、現時点で問題なのはそこではない。
わたしの腕の中に飛び込んでくるような形で衝突した “彼” は、腰にしがみいた恰好のまま、鼠色のひとみを不安に染め上げてわたしを見上げていた。陶器のようにすべやかな白い肌、色素が薄く、光に透かすと白銀に輝いてすらみえる短髪。不安そうにしているのに吊り上ったままの口角に、冗談のような形のもみあげ。
「…………………」
なんだこれちょっと待て、見知ったパーツが多すぎる。見知ったパーツが多すぎるがちょっと待て、わたしの知るひとは全体的にこんなサイズじゃなかったはずだ。頭ひとつ分はわたしより大きかったはずなのに、これはわたしの腰くらいまでしか背丈がない。しかもなんだ、顔の面積に占める目の割合がちょっと大きすぎやしませんか。なのに鼻とか口とか耳とかがなんかちっちゃい!何これどういうこと!? あと目が吸い込まれそうなほど綺麗ですね!
「お、おぼっちゃん……お名前は…?」
「ぼく、クダリ…」
ワア、それ聞いたことあるー。なんか、白のサブウェイマスターってそんな名前だった気がするナー。
ちょっと待ってほんと意味わかんない。どういうことだ、昨日一日わたしが休日を満喫していたあいだに、ギアステーションで何が起こった。そういえば今朝、やたらニヤニヤした鉄道員さんたちに、出社するなり 「お前、白ボスにはもう会ったか?」 的なことを聞かれた気がする。面倒くさかったので適当に答えていたのだが、そうかなるほどこれのことか
――…こういうことは事前に言っとけあの野郎。今度コーヒーにガムシロップ五個注ぎ込んでやる。覚悟しとけ。
「わかりました。……つまり、クダリさんの隠し子ですね?」
「だれの隠し子でもございません。これはクダリ自身にございます」
苦し紛れの最後の希望が絶たれ、わたしは両手で顔を覆った。あたま痛い。もうやだ、なんなのこの職場。就職を決めたのは早計だったかもしれない。だって朝出社したら上司が幼児化(推定六歳)って、なんだそれ!
「………?」
誰にともなく、胸の内で恨み言をぶちまけていたわたしは、ジャケットの裾をくんっと引っ張られる感覚に息をのむ。……だって、関わり合いになりたくない。諸事情により子どもに怯えられ、警戒され、泣かれることに関してトップクラスの実力を有するわたしは、強面のノボリさんと合わせ、ギアステーションで迷子の保護に向かない職員のツートップである。近寄ると泣かれるので、迷子を見つけたときには、手持ちのポケモンに案内させる始末だ。彼が本当にクダリさんだとしても、子どもは苦手だ。泣かれるのは怖い。
そんなわけで、あまり仔クダリ(今ここで勝手に命名)さんのほうは見ないように、斜め上に顔を向けた状態を維持し続けていたのだが、わたしのジャケットを掴む手がどういうわけだかあまりに一生懸命で、心が揺らいだ。続けざまに裾をくいくい引っ張られるから、巡り巡ってわたしの心はぐらんぐらんに揺れる。まるで風前の灯だ、残り一本で支えている箇所が二つ三つあるジェンガさながらである。
それでも強固な意志で視線をそらし続けるとようやく、引っ張られる感覚が消えた。やっとあきらめたかとわたしが胸をなでおろすのも束の間、「ふえぇ、」 という聞きなれた、しかしどうしようもなく罪悪感をあおる声が耳に届く。結局何をしてもしなくても、泣かせるもんは泣かせるんだな、と自分への嫌悪が降り積もりかけたとき、腰にぎゅうと巻きつく細い腕。
「な……っ」
「ごめ、んっなさ…! ぶつか、って、ごめ、なさっ」
――理性って、本当に壊れるときパーンて音するのねえ…。
だって、気が付いたときには仔クダリさんを抱きしめ返していた。サッとしゃがみこんで、バッと腕を回して、ぎゅっだ。たぶん一秒もかかってない。
「怒ってない、わたし全然これっぽっちもバチュルの足の爪ほどだって怒ってないよ? だから泣かないで?」
「…ほ、んと……?」
「本当。…ほら、笑ってごらん? 笑ったほうがかわいいよ?」
あれ、なんかこれ聞いたことあるセリフだな、と一瞬思った。
ぎゅっと抱きしめていた小さな体を少しだけ離して、うつむいた顔を覗き込む。透けるように白い肌の上にほのかな赤みの差した、まるで焼きたてのパンみたいにふっくらした頬。そこに数本、なみだの筋が通っていて、どうしようもなく胸がつぶれる思いがする。でもこれ食ったらうまそうだな、なんていう邪念は脳裏をかすめてなんていませんともええそんなことあるはずがございませんすみませんだっておいしそうなんだもん。
仔クダリさんは、恐る恐るといった具合にわたしを見返した。その鼠色のひとみにはまだうっすらと涙の膜が張っていて、まばたきをするたびにきらきらと宝石のように輝くのだけれど、あんまり凝視していると怯えさせることになるような気がしたので死ぬ気で我慢する。
怒ってなどいないことを伝えるには、やはり笑顔だ。わたしはその子どもらしい、やわらかな感触の銀髪に指を絡ませながらにっこり微笑む。脳裏に渦巻く邪念の数々は、決して悟られてはならない。
「…ね?」 とわたしが首をかしげてそう言うと、仔クダリさんの頬にサッと朱がはしった。それまで絡めていた視線が不意にそらされ、くちびるがもにょもにょとうごめいている。……? 妙な違和感というか、なにかしっくりこない感じが意識を駆け抜けたが、それも次の瞬間吹き飛んだ。…だって、上目遣いだよ!?それだけでも十分あれなのに、なんかちょっと恥ずかしそうにはにかまれて、ぎゅってせずにいられます!? わたしは無理です、どう考えても。
「…………、」
「なんでしょう」
「これはクダリなので構いませんけれども、お客様にそのようなことをしたら摘み出しますよ」
「心得ておりますボス」
とりあえず廊下に散らばった資料をかき集めることから始めて、できるだけ早く通常の精神状態に持っていきたいと思いますまる。
「
――…! ねえ、みて!」
声につられてパソコンから目を上げると、ランプラーの腕をつかんだ仔クダリさんが満面の笑みを浮かべていた。すこしくるりとした形をしているランプラーの両腕をつかまえて左右に引っ張り、さらに何が楽しいのか知らないが、上下に揺さぶってやたらとご機嫌だ。
ちなみに、伸ばしたくもない腕を無理やり伸ばされ、上下に揺さぶられているルクスの機嫌は相当悪い。つぶらなはずのひとみは真一文字に引き結ばれているし、ぶるぶると震えていることからして、激しく抵抗しているのだろう。
だから今日はモンスターボールのなかにいたほうがいいよ、って言ったのに。それでもボールから飛び出してきたわたしのパートナーは、仔クダリさんを見るにつけ空中に静止し、驚きのあまり墜落した。はしゃぐ仔クダリさんにつかまってからは延々とおもちゃになり続けており、ひたすら耐久値を積み増ししている。もともとクダリさんに対して妙に敵愾心の強いルクスである、あとでご機嫌うかがいしておかないと、今度クダリさんに会ったとき、いきなり れんごく とか仕掛けそうだ。
別にそれが面倒くさかったわけじゃない。ルクスへのご機嫌うかがいは、そのままわたしの癒しの時間でもあるから、知らず漏れた溜息は苦笑の変化形というか、“もう、しょうがないなあコイツゥ☆” みたいなニュアンスだったのが、どうやら仔クダリさんにはうまく伝わらなかったらしい。
仔クダリさんの笑顔がぴしりと固まる。もがくルクスを腕の中に抱きこんで(それでも離さないあたりが、なんというかクダリさんらしい)、仔クダリさんはおどおどと視線を足元に落とした。首をかしげるわたしのところまで、てててっと歩み寄ってきて、またジャケットの裾を握る。
「……ぼく…のおしごとのじゃま、してる…?」
あかん、あかんで!次ぎゅってしたら黒ボスんとこ戻さなやで! と遠いところから声がして我に返った。そうだった、あんまりにも仕事が進まないからいい加減黒ボスに叱られて、次に理性がパーンてなったら仔クダリさんを返却する約束になってたんだった。危ない、天使をむざむざ手放すところだった。
だいたい、仔クダリさんの恰好が悪い。清潔感のある白いブラウスには、前立てのあたりにシンプルなフリルが施されており、襟元にはいつもしているネクタイと同じ色のリボンタイ。サスペンダー付きの半ズボンはコーデュロイで仕立てられ、すこし赤くなった膝小僧がのぞいている。そして極めつけが、膝下までの黒の靴下に革靴である。なんだこれ、天使じゃないか。だってこれ、天使ですよね?
「ぜんぜんそんなことないよ。クダリくんのおかげで、お仕事すっごくはかどってる」
「…ほんと…?」
「うん。ルクスの遊び相手をしてくれて、どうもありがとう」
ルクスの視線がガスガス突き刺さってくるのを無視して、わたしは仔クダリさんに微笑んだ。
――ご機嫌うかがいは今夜やる。だから今は、いまだけちょっと目をつぶっていておくれ。天使が天使でいられる時間はきっと限られている。だったら今は離すまい。
ぱあっと笑顔がほころぶ。まるで開いたばかりのノースポールの花のようだ。朝露に濡れた白い花弁が、朝日を受けてきらきら輝くように、仔クダリさんの笑顔がぱっとはじける。スポットライトが当たっているわけでもないのに、笑顔ひとつでその場を明るくして見せるのだから子どもの笑顔というのはまったくどうして特別だ。あーだめだわこれ、持って帰りたい。他になんにもしてくれなくていいから、おうちに帰りついたわたしにただ一言、笑顔で 「おかえり」 って言ってほしい、そしたらきっとなんだってやれると思
「なにブツブツ犯罪計画立ててんねんアホ。チェックは済んだんか?」
「え、あ、今の口に出てましたか」
「モロ出しや。ショタコンの気でもあるんかお前」
「人聞きの悪いこと言わないでください。ロリもいけます」
「仕事せえ」
パコン、と丸めた資料で一発はたかれた。へい、と返事してチェックした資料を上司に返す。
「……あの、一応言っておきますけど、さっきの冗談ですよ?」
「わかっとるわ! あれが本気やったらあんまりにも報われなさすぎやろ。かわいそすぎて涙出てくるわ」
「は? だれがですか?」
「……仕事せえ」
パコン、と丸めた資料でもう一発はたかれた。なんだ今の。
納得はいかないが、やろうと思っていたことが思うように進んでいなかったので、やるべきことは山積みである。煮え切らない態度の上司に突っ込みを入れるのもそこそこに、再び作業に戻ろうとしたわたしのジャケットが、またくいくい引っ張られる。今度はなんだ、四時のおやつか? 三時のおやつはついさっきあげたばっかりのはずですけど?
「うん? どした?」
右手でジャケットの裾をつかんだまま、仔クダリさんのちいさな左手がいかにもな仕草で目元をこすっている。座ったままの姿勢でわずかに腰をかがめて覗き込むと、鼠色のひとみが眠気にとろりと溶けていた。さっきまで遊んでいたからか、頬も赤みを増している。短髪に指をくぐらせると、どことなくもわりと熱い。
「…眠くなっちゃったか」
苦笑交じりにそう言うと、仔クダリさんはちいさくうなずいて答えた。伸びてくる二本のほそっこい腕が、わたしの首にぎゅうと巻きつく。
「どうする? ノボリさんのとこ戻る?」
わたしの顔のすぐ横で、一回りも二回りもちいさな頭がふるふると左右に揺れた。巻きつけられた腕が、さらに仔クダリさんとの隙間を埋める。
わたしはそれに、片腕で抱き込むようにして答えた。まるっとした後頭部にてのひらを添えて、指の間をするすると滑っていく銀髪の感触を楽しむ。心拍と同じくらいのゆっくりしたペースを守りつつ、髪に振動がようやく伝わる程度の強さでリズムを刻んでいると、しばらくして首に巻きついていた腕の強さが弱まった。ゆるゆると、気持ちよさそうに息をつくのがひどく愛らしい。
「でもわたし、仕事残ってるからなあ……仮眠室行く?」
やだ、と仔クダリさん。
「………といっしょにいる…」
――耐えろ!耐えろ!これまでの努力をすべて水泡へ帰すつもりか! ここで理性またパーンしてみろ、仕事が滞る → 黒ボス襲来 → 天使強奪 → 結局仕事手につかない、で負のループ完成だ、もう間違いない。わたしの手元に残るのは仕事の山と不機嫌極まりないルクスだけである。せめて前者は処理したい。
落ち着け。落ち着いて、今にも眠ってしまいそうな仔クダリさんを手放す方法を考えるか、仕事を正当に放り投げる方法を考えるしかない。どうしよう、どっちもやだ。だって仕事放り投げたらどんな理由があっても絶対あの黒い人来るもん、天使取り戻しに襲撃してくるもん!
「あ、そうだ」
ちょっとごめんねー、と声をかけながら両腕を仔クダリさんの体に巻きつけ、腹に力を込める。
「よ、っと」
掬い上げるように抱き上げて、仔クダリさんが目を白黒させているあいだに、わたしと向き合う恰好でひざの上に座らせた。あんまり驚いたのか、仔クダリさんはただでさえ大きな目をさらにまんまるにして固まっている。まばたきすらしない。ただ唖然とした表情でわたしを間近に見上げ、トレードマークたる笑顔まで忘れて口をぽかーんと開け放っている。まるでユニランだ。
「ねむいんでしょ? 寝てていいから」
しばらくパソコン作業が続くから、わたしはここから動けない。どうせ身動き取れないのだから、仔クダリさんの一人や二人や三人や四人、抱えたところで何の問題があろう。まあ多少画面は見にくいし左手はキーボードに届いていないし何より重いが、それらがどうして仕事の進まない理由になるというのか。この充足感に比べれば、まったくもって屁でもない。
というわけで、同じく視界の端で呆然としている直属の上司を華麗に無視し、左腕に抱き込むように仔クダリさんの背中に腕を回した。半ば無理やり膝の上の仔クダリさんを左胸に抱き寄せ、仕事を再開させる。ああ、子どもってなんでこんなにあったかいんだろう、まるでお日さまを抱えてるみたいだ。…ていうか、なんで仔クダリさんはわたしが大丈夫なんだ?、と今更な疑問が生じたあたりで、腕の中に違和感。
「
―――…っ」
驚きか緊張、もしくはその両方でガチガチに体を凍らしているのが違和感の原因だとばかり思っていたのだが、どうやら違ったらしい。見慣れた通常サイズとは似ても似つかない仔クダリさんの細い腕が、わたしの肩やみぞおちに手を当てて、必死に体を押し戻そうとしている。よくよく見てみると、ついさっきまで眠気にとろけていたはずの目はあちらこちらに泳ぎまくっており、顔だけでなくその耳までもがエンブオーのように赤く染まっていた。わたしが視線を向けていることにも気付いていない。
「うりゃっ」
「〜〜〜〜っ!?」
わたしの身長の半分くらいしかない子どもの力なんて、たかが知れている。あれだけくっつきたがっていた仔クダリさんに、今更抵抗される理由がわからなかったので、とりあえずその抵抗が無駄であることをわからせるためにむぎゅっと抱きしめた。胸に抱え込んだ小さな体が、カーッと発熱する。
「眠いんじゃなかったの?」
苦笑交じりに囁くと、再びぴしりと動きが止まる。まったいらな喉がそれでもわずかに上下して、混乱を極めた鼠色のひとみがなみだで揺らいだ。
――あ、だめだ。この扉開けたらダメなやつだ。社会的に抹殺されかねないやつだ。せっかく正社員になれたのに、ここでまさかのドロップアウトは精神的にきつい。なんせ理由がひどすぎる。
「だいじょうぶ、寝てていいから。……ほら、おやすみ」
言い含めるようにつぶやいて、つむじにそっとキスを落とす。ほのかな汗のにおいと、取り込んだばかりの洗濯物のようなお日さまのにおい。こんな地下鉄の駅にこもりっきりだったくせに、子どもってどうしてこうなんだろう。生命の神秘に思いを馳せるわたしの視界にうつるのは、驚愕に目を見開いて陸にあげたバスラオのように口をぱかぱか開け閉めしている上司と、仔クダリさんの腕の中から逃げ出したばかりで気がたっているのか、ワナワナと震えるルクスの姿である。あれ、やっぱりこれもアウトだったか、失敗失敗。でもやっちゃったもんは仕方ないよねー、うん。
どういうわけだか知らないが、顔から耳から首から指先までダルマッカのように真っ赤になって、完璧に動かなくなってしまった仔クダリさんを抱えなおし、わたしはパソコンに向かう。そのとんでもない緊張感を少しでもほぐそうと思い、小さな背中をゆるゆるとなでながら作業を進めていると、突っ張り棒としての役割しか果たしていなかった手がしばらくしてようやく、わたしのジャケットをきゅっとにぎった。遠慮がちに吐き出された大きな息が、わたしの左胸あたりをじんわりと温める。少しずつ緊張が解け、体から強張りが抜け、やがておずおずと体重をあずけてくる存在が、どうしようもなく微笑ましい。
「…おやすみなさい、クダリさん」
それを最後に、仔クダリさんの意識が眠気に溶ける。一気にずん、と重みを増した体を慎重に抱えなおし、わたしは仕事を再開させた。…作業スピードが段違いで、我ながらちょっと引いた。
翌日、何事もなかったかのように通常サイズに戻っていたクダリさんは周囲を大いに安心させ、わたしを大いに、そりゃもう途方もなく落胆させたのだけれど、そんなわたしの態度よりずっと、クダリさんの態度の異常さは頂点を極めていた。
まずわたしを見ない。目を合わせないなんてものじゃなく、顔ごと背けて視界にわたしが入らないようにしている。わたしが目の前で仕事の報告をしているというのに、報告を受ける上司が自身の右肩をガン見しているというのは、一体どういう状況だ。
あんまりやりにくいので無理矢理視界に割って入れば、「あー…なんか、すいません」 と思わず言いそうになるほど顔を真っ赤にされ、声もなく後ずさられてしまう。まるで怯えたヒヒダルマだ。わたしがアバゴーラかなにかにでも見えたのだろうか、なんだか泣き出す五秒前みたいな顔ですらある。
「……あの、クダリさん?」
「ち、ちが…っわるいのぼくじゃない、ぼくじゃないもん…! たしかに、最初に言い出さなかったのはぼくがわるいけど、でも、あんな…っ、あんなことになるなんて思わない! だって、他にどうすればよかったの?もうどうしようもなかったもん、ああするしかなかったもん!」
「…………あの…?」
「
―――…おねがい、しばらくぼくのことほうっておいて…」
「あ、はい」
よろよろと、廊下の手すりにつかまりながら歩く上司の背中を見送る。そんなわたしの肩にぽん、と手を置いてもう一人の上司が言った。
「気にしないでくださいまし。あと二、三週間もすれば戻ります」
「そんなにかかるんですか? めんどくさっ」
あーあ、天使戻ってこないかなあ。
そう呟くと、廊下を歩いていた白い背中がダッシュで逃げた。
来いよアグネス!щ(゚д゚щ)
麦さんにネタフリ、さらに関連夢絵までいただきました。ありがとうございました!
2012/05/19 脱稿・更新